津市久居地域で郷土資料を常設展示している唯一の市営施設「津市埋蔵文化財センター久居分室」=久居元町=が、建物の耐用年数が迫っていることなどから平成31年度中に取り壊されることとなった。それに伴い同分室は閉鎖し、展示物の土器など129点とパネル7枚は久居地域の施設に移されるが、具体的な場所や展示内容は未定。この他の地域でも、郷土資料の展示は縮小している傾向があり、貴重な文化財と市民との接点を増やす姿勢も求められている。

 

 

「津市埋蔵文化財センター久居分室」に展示されている資料

「津市埋蔵文化財センター久居分室」に展示されている資料

伊勢平野のほぼ中央に位置する津市には2800以上の遺跡が存在し、住居や墓などの遺構や、土器などの遺物が埋もれている。遺跡・遺構・遺物は「埋蔵文化財」と総称され、地域の歴史を解明する上で不可欠な一次資料。児童が夏休みの宿題などで郷土について学ぶときにも役立つ。
津市では、この貴重な文化財を保護し後世に伝えるための施設として、平成6年に「津市埋蔵文化センター」=安東町=を設立。発掘調査や、出土した遺物の保管・収蔵のほか資料展示を行っていて久居と美杉町に分室がある。
このうち久居分室は、久居地域で郷土の資料を常設展示している唯一の市営施設だが、昭和49年に老人福祉施設として建てられた建物の耐用年数が迫っていることなどから、来年度中に取り壊されることとなった。
これに伴い、旧久居市から引き継ぎ、現在、面積60㎡の展示室にある土器など129点とパネル7枚は久居地域の施設に移される予定だが、津市教育委員会事務局生涯学習課によると、移転する場所や展示方法は未定。
そもそも、従来の展示は簡易なもので入れ替えや企画展は行われていないため見学者は少なく、29年度は83名だった。
一方、隣の一志町には同町の養蚕・製糸業、農林業、生活用具、歴史関係資料の展示やイベントで人気の「JA三重中央郷土資料館」があり、久居地域からも多くの児童が訪れている。
そのため、久居を拠点とするボランティアガイド団体「久居城下案内人の会」の森下隆史代表(74)も、久居分室の展示の移転にあたり内容の充実を期待。「久居で出土したものを久居でいつでも見られる形が一番ありがたい。(展示にはある程度広いスペースが必要だが)市に工夫してもらい、良い方向で収まれば」としている。
津市は文教都市であり観光振興を図っている。
また来年31年は藤堂高通公の久居藩開府350周年。さらに現在、久居駅周辺で都市再生整備事業が行われており、その一環として32年に独自性のある文化芸術の創造拠点「(仮称)津市久居ホール」がオープン予定で、これらは、久居の歴史を広め地域活性化に繋げる絶好の機会でもある。文化財の常設展示がこの好機に果たすべき役割は大きいだろう。
津市営の郷土資料館の中には、改装後に展示が大幅に縮小したり、数年間に亘り一般公開を休止しているケースもある。つまり、各地域の歴史にふれて、学ぶ機会が減っているという現実がある。今回、市には文化財に詳細な解説を加えるなど展示の質を高めると共に、貴重な財産を市民と共有するための積極姿勢が求められている。

乃ぶ代さん(今月4日撮影)こうさんの娘の乃ぶ代さん(左)たち。

乃ぶ代さん(今月4日撮影)こうさんの娘の乃ぶ代さん(左)たち。

朗読会参加者が制作した灯籠

朗読会参加者が制作した灯籠

昭和17年、出征前日の浩三さんと、姉のこうさん(右)、

昭和17年、出征前日の浩三さんと、姉のこうさん(右)、

津市の庄司乃ぶ代さん(79)は、1921年に旧宇治山田市(現在の伊勢市)で生まれた天性の詩人で戦死した竹内浩三さんの姪。生前の浩三さんを知る血縁者のうち、ただ一人の生き証

人であり、軍国主義の窮屈な時代に生き、出征してもなお瑞々しい感性で多くの詩や日記、手紙を書き続けた浩三さんのことを語り継いでいる。終戦の日を前に話を聞いた。
浩三さんは地元で有数の呉服店に生まれ、日本大学に入学。42年、久居の中部38部隊に入隊。その後、筑波の滑空部隊に転属し45年、23歳でフィリピンで戦死。「骨のうたう」「日本が見えない」など、民衆の声を代弁しているようであり、時代を越えて共感を呼ぶ詩を多数残した。また戦争を「悪の豪華版である」などと痛烈に批判した。
そして乃ぶ代さんは子供の頃、亡き母・こうさんや、こうさんの弟の浩三さんらと暮らしていた。浩三さんについて「子供好きで、すごく可愛がってもらった。本人は自分のことを詩人だと思っていなかったんじゃないかと。自分の気持ちに正直に書いた言葉が、詩になっているという天性の詩人だと思う」と話す。
また乃ぶ代さんは3人姉妹の長女(妹2人は故人)で、戦中の44年、生まれたばかりの三女の芙美代さんへ浩三さんが次のような手紙を書いた。「オ前ノウマレタトキハ、オ前ノクニニトッテ、タダナラヌトキデアリ、オ前ガソダッテユクウエニモ、ハナハダシイ不自由ガアルデアロウガ、人間ノタッタ一ツノツトメハ、生キルコトデアルカラ、ソノツトメヲハタセ」(一部抜粋)。「こんな手紙をもらった妹を羨ましいと思いました」。
今年2月には津市で浩三さんの作品の朗読会が開かれ、乃ぶ代さんが解説した。これに参加し心を動かされた人が、浩三さんの詩を書いた灯籠を制作し、護国神社のみたま祭で奉納。乃ぶ代さんはこの反響を喜び、「とにかく皆さんに竹内浩三の詩に親しんで頂けたら」と話している。
なお12月22日・23日に伊勢市観光文化会館で青年劇場が「きみはいくさに征ったけれど」を上演する。浩三さんと現代の高校生が出会う話。

国史跡の「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」の石碑と礎石

国史跡の「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」の石碑と礎石

同じく恭仁宮跡と山城国分寺跡を示す石碑

同じく恭仁宮跡と山城国分寺跡を示す石碑

幻の都。その名は恭仁京。誰もが知っている平城京から一時都がこの地に移されているのだ。東大寺の大仏をつくったことで知られる聖武天皇=701~756年=が740年に突如、平城京を離れ、美濃国や伊勢国などを行幸した末、遷都が行われた。この行幸については、謎も多く、多くの歴史ファンの想像を掻き立てる題材として取り上げられることが多い。津市も白山町川口に行幸の際に聖武天皇が滞在した「河口頓宮跡」が残っている。以前お話した通り江戸時代に藤堂家の領地だったことといい、このあたりは津市との縁が幾重にも結ばれている。これはこの国道を歩いて気付いた大きな収穫だ。
恭仁京がなぜ幻かというと、簡単な話で足掛け5年ほどしか存在しなかったからだ。この都について詳細はまだ不明な点もあり、その全貌を探るべく、現在も調査研究が進められている。平城京や平安京と比較すると、恭仁京の知名度は低いが、日本史のテストでおなじみの国分寺・国分尼寺の建立や墾田永年私財法などの施策は、ここに都があった時のものである。都として存続した期間こそ短いが非常に重要な役割を果たしていたことは語るべくもない。
国道163号の恭仁歩道橋付近から、ほんの少し北へと入ると、国史跡の「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」が残っている。簡易な公園として整備されており、恭仁京が廃された後に宮跡を再利用した山城国分寺跡を示す石碑が建てられている。地表に残された都の軌跡は国分寺の石碑近くにある七重塔の礎石など、わずか。周囲を見渡しても、平凡な空地で、この寂寥感も歴史ロマンをかきたてる要因となっている。
今、国道を行き交う人々の大部分が、このようなものが残っていることすら知らないと思う。歴史に「たられば」は禁物だが、もう少し恭仁京が存続していれば、のどかな田舎町といったこの辺りの風景も少し変わっていたのかもしれないと思いを巡らせてしまう。ただ、その一方で、世の中の全ての真実が白日の下にさらされている状態ほど、つまらない事はないとも考える。幻は幻であるから人は好奇心を糧に、真実を追い求めてひた走ることができるのだ。
昼食を終えた私は、再び国道へと戻る。恭仁宮跡の方角に広がる集落に目を向け、田舎町特有の心地よい〝ひなび〟の奥底でひっそりと息づく古の〝みやび〟を感じながら、西へと進んでいく。
時刻はまだ14時。残りの距離を考慮すると順調にいけば、目的地のJR木津駅まで思ったよりも早い時間に着くことができそうだ。(本紙報道部長・麻生純矢)

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