いよいよ新長野トンネルに到着。平成20年開通のこのトンネル。以降は便宜上、平成と呼ばせて頂くが、津市と伊賀市の境にかかるこのトンネルの少し手前にある道を登っていくと昭和、そこから林を分け入ったところにある明治と三代のトンネルが現存している。古くより使われてきた峠道を含めると、この峠を越える4つの道があったことを示している。
これまでにも話してきたが、現国道163号線は津と伊賀を結ぶ伊賀街道がルーツであり、江戸時代には藤堂藩も官道として整備をしてきた重要な道。特に四方を山に囲まれた伊賀側にとっては、木材や炭、山の幸など特産品の流通や人の通行上でも生命線と呼ぶにふさわしい存在だった。
明治のトンネルは、峠道を下げて、流通や交通の便を促進しようという阿波村(旧大山田村)の案に隣の長野・高宮村が賛同する形で工事が進められ、明治18年(1885年)に完成。峠から約50m下につくられたこのトンネルは全長216mで道幅約4m。強固な岩盤をノミとツルハシで掘るという工法で4年7ケ月もの歳月をかけてつくられた。総工費は当時の約10万5000円。1円の価値が現在の数万円相当といわれており、道路工事費の地元負担が大きいこの時代に、この工事を発案した阿波村の熱意がどれほどのものであったかが伺える。現在は内部で崩落しているものの津市側のトンネルの保存状況は良く、石組みのアーチが非常に美しい。
その少し下にあるのが1938年(昭和13年)開通の昭和のトンネル。時代の移り変わりとともに流通の主役は自動車となり、第二次世界大戦による物流強化という時勢もあり、それに対応する形で開通。平成のトンネルの開通に伴い、役割を終えたこのトンネルは内部の湧水が酷く今は金属の扉で封鎖中。
そして、その下にあるのが平成のトンネル。全長は約2㎞。当然、標高が下がれば下がるほど、掘削距離が増えるため、工事が大きくなり、技術革新も求められる。100年以上の時を経て、三度も大工事が行われきたのは、多くの人がこの峠に対して、今も並々ならぬ思いを寄せているからだ。そんな無数の思いで踏み固められた道であることを、再確認しながら眼前で大きな口を開ける平成のトンネルの内部へと向かった。(本紙報道部長・麻生純矢)

明治の長野トンネル

明治の長野トンネル

昭和の長野トンネル

昭和の長野トンネル

平成の長野トンネル(新長野トンネル)

平成の長野トンネル(新長野トンネル)