「超ド迫力!ヒレアシ王国」

「超ド迫力!ヒレアシ王国」

鳥羽水族館がトドやアシカ・アザラシを展示する「海獣の王国」を全面リニューアルし、今月20日に「超ド迫力!ヒレアシ王国」としてオープンした。
巨大な透明チューブの中を歩くと、すぐ下にはアザラシ達が泳ぐ姿、横には体重700㎏を超える巨大なトドが見える。
リニューアルオープンを記念し、9月2日㈰まで特別イベント「まるっと、ぐるっとヒレアシ祭り」を開催中。参加料=入館料のみ必要(一部有料イベントあり)。
エサやりや触れあい、特別バックヤードツアーなど体験型イベントが盛りだくさんで、ヒレアシ類を身近に感じることができる。

「和同開珎」の鋳造所があったことを示す碑

「和同開珎」の鋳造所があったことを示す碑

国道163号線沿いの風景

国道163号線沿いの風景

和束町を超えるといよいよ京都府木津川市へ。平成19年に木津町、加茂町、山城町が合併して誕生した市。その名が示す通り、国道163号に沿って流れる木津川がこの地域の歴史や文化を語る上でも欠かせない存在となっている。
津市から国道を西へ進むと、同市の入口に当たるのが旧加茂町。この辺りは、津藩が玉城町にあった田丸城を御三家の紀州藩に譲る代わりに得た山城地域の領地。津市ともゆかりが深い。淀川へ注ぐ木津川の水運は、津藩にとっても非常に重要な財源にもなっていた。近年、日本一の城づくりの名手として再評価が進んでいる津藩祖・藤堂高虎公も大坂城再建の際にはこの地から石垣用の石を切り出し、船で運んだ。その名残として、使われなかった残念石がいくつもも残っている。
この加茂町を国道に沿って歩くと、最初に入る地域が銭司。〝銭〟という文字は、現代の語感からすると、なにやら俗っぽく思えてしまうかもしれないが、誰もが知るあの貨幣が鋳造されていたことに由来する名前。そう、日本最古の貨幣・和同開珎だ。
立地条件的にも、当時の都である平城京からほど近く、陸路、水路共に交通の便が良かったことや、当時の日本になかった高度な鋳造技術を持った渡来人が付近に多数暮らしていたことが、この地が選ばれた理由と推察されている。
発掘調査によって、貨幣そのものだけでなく、鋳造に使ったるつぼ、鋳型、ふいごなども発掘されている。古の造幣局というわけだ。
生まれた時から、東京を中心とした文化に慣れきっている我々、現代人からすると、この辺りはのどかな山里という感覚でしかない。しかし、都が奈良や京都にあった時代には、都会からも非常に近く、陸水共に明るい交通の要衝という性質を持っていたのだ。
歩くという行為は、そういった古の人々と自身の感覚をすり合わせるにはうってつけ。頭でわかっているつもりの理屈を真の意味で理解するための貴重な手段でもある。
国道163号沿いにはこの地が和同開珎の鋳造所であったことを示す碑が建てられている。
ここまで、大した距離は歩いていないが、足が重い。国道の狭い路肩で、大型トラックをやり過ごすのは、少し大袈裟に言えば、命がけなところもあり、体力以上に神経をすり減らしていたようだ。碑の近くに腰を下ろし、古の貨幣経済を支えたこの地の往時の姿にしばし、想像を巡らせながら、心を落ち着ける。
(本紙報道部長・麻生純矢)

故事・ことわざ辞典で調べものをしていた時のことである。猫の首に鈴を付ける云々、が目に止まったのである。これは「イソップ物語」の寓話に基づくとある。
猫の首に鈴を付けるという表現はしないが、人間社会では常に用いられている。特に政治の世界においても、企業やその団体においても、日常的に行われている行為である。思い起こせば、私が所属していた業界の(屋外広告)役員の中に長期に渡る会長職にしがみついて、自ら勇退をしない高齢の大先輩がいて困り果てていた。
組織の人達は、本人の居ない所では言いたい放題の陰口は言っても、いざとなれば本人の前で何も言えないと言う情けない状況が続いた。
そんなある日のこと、私がその話を耳にしたのである。その問題が解決すれば停滞していた組織は活性化し、人材の刷新も図れると期待は大であった。そこで、その役員の首に鈴を付ける、手助けをすることになった。
その役員は、同じ地域に気心の通じるもう一人の役員がいた。私も心をゆるせる人物だったので、その役員に宛てて手紙をかいたのである。
手紙には、人間引き際を間違えると自身の人間性はおろか、信用も感謝されていたことも全て失うと。しかも、勇退は自身の花になる云々と、付け加えておいた。それを貴方の口から言って諭してやっては如何なものかと言い含めたのである。
後日、手紙を送った、その役員から電話があり、驚いたことに、私の手紙を、そのまま問題の役員に、こんな手紙が三重県の私から来たから読んでおいてくれと、いきなり手渡したと言うのである。なんと言う馬鹿なことをしてくれたものだと思ったが、後の祭りである。私は三重県で、彼らは名古屋と言う地域差もあって、気になりながらも暫く様子を見ることにして、時が流れるのを待っていたのである。
すると、鈴を付けられた本人から直接電話があって、手紙を読んで、よくよく考えたら君の言う通りだと反省していると言うのである。そして、全ての役職を辞任したい旨を協会に申しでたそうである。これで一件落着はしたものの、大先輩への失礼な行為について心を痛めていた。後に、息子さんに会う機会が有って話を聞くと、親父は貴方に感謝していて、お前から宜しく伝えてくれとのことであった。それを聞いて、やっと胸を撫でおろしたのである。
それから暫くして、今度は東京でも名古屋似上に厄介な問題が起こっていた。その役員は東京の地区に所属していて四期八年、会長の職を続けていていたので、うんざりしていると言うのである。その役員は連合会の会長も兼ねていたので複雑である。まして、業界では天皇とまで言わしめた人物である。業界では珍しく東大出のバリバリで、威厳も寛容も備わった風格のある人物で、誰も口出しができなかったと言う。
しかし、組織の刷新を図るためには、鈴を付けるしかないと誰もが思っていたようである。
ちょうどその頃、損保に絡む収益事業の不備が、内部告発によって表面化した。その内容は十数年間に及ぶもので、総額にして、なんと億にも及ぶ膨大な手数料が、大手の損保会社から協会へ支払われる筈の収益事業であった。本来は、決算報告書に明示されるべき事案が審議されてこなかった執行部の責任は重い。それに対する、理事会への質問状である。
そして、総会前に行われる、年に一度の常任評議員委会に出席したのは、委員になって二度目の出席であった。忘れもしません。東京は日比谷公園の野外ステージから向かって、右手に中国の周恩来首相が立ち寄ったと言う、洋風の洒落た松本楼が緑に包まれて、白い外壁の佇まいを漂わせていた。一階はレストランになっていて、二・三階は会議室で、その三階は円卓の会議室になっており、八十人はゆうに座れる広さの部屋がある。
協会の常任評議委員は、全国四十七都道府県からなり、その中から理事が十二名、監事が二名、それに正副会長と専務理事一名で構成されており、毎年その会議において総会のための審議を尽くすのである。現在では、かなり会員数が少なくなったが、当時は四千五百社の陣容を誇っていた。
会議は恒例の順序に基づいて進行し、最後の議題であった質問事項で指名を受けて質問に立った私だったが、会議室は一瞬静寂に包まれた。私にも緊張が走った。質問状の内容に沿って質疑始まったが、出席者からは誰一人として異議を唱える者はいなかった。むしろ静寂はその後もつづいた。たまりかねた司会者から、出席者に対して案件について、力を込めて問いかけたのである。すると、理解をされたのか会場にどよめきが起こったのであった。そのあと、誰となく執行部への退陣要求が出され、次なる組織の刷新について意見が交わされ、新しい執行部の陣容が次々と決議され、総会への準備が整っていった。
後に行われた懇親会では、寂しさを覗かせていた会長に労をねぎらい、握手を交わし再会を約束して会場を後にした。
これも内部告発を契機にした、猫の首に鈴を付けるに等しい所作であったのではないかと思うのである。

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