国史跡の「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」の石碑と礎石

国史跡の「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」の石碑と礎石

同じく恭仁宮跡と山城国分寺跡を示す石碑

同じく恭仁宮跡と山城国分寺跡を示す石碑

幻の都。その名は恭仁京。誰もが知っている平城京から一時都がこの地に移されているのだ。東大寺の大仏をつくったことで知られる聖武天皇=701~756年=が740年に突如、平城京を離れ、美濃国や伊勢国などを行幸した末、遷都が行われた。この行幸については、謎も多く、多くの歴史ファンの想像を掻き立てる題材として取り上げられることが多い。津市も白山町川口に行幸の際に聖武天皇が滞在した「河口頓宮跡」が残っている。以前お話した通り江戸時代に藤堂家の領地だったことといい、このあたりは津市との縁が幾重にも結ばれている。これはこの国道を歩いて気付いた大きな収穫だ。
恭仁京がなぜ幻かというと、簡単な話で足掛け5年ほどしか存在しなかったからだ。この都について詳細はまだ不明な点もあり、その全貌を探るべく、現在も調査研究が進められている。平城京や平安京と比較すると、恭仁京の知名度は低いが、日本史のテストでおなじみの国分寺・国分尼寺の建立や墾田永年私財法などの施策は、ここに都があった時のものである。都として存続した期間こそ短いが非常に重要な役割を果たしていたことは語るべくもない。
国道163号の恭仁歩道橋付近から、ほんの少し北へと入ると、国史跡の「恭仁宮跡(山城国分寺跡)」が残っている。簡易な公園として整備されており、恭仁京が廃された後に宮跡を再利用した山城国分寺跡を示す石碑が建てられている。地表に残された都の軌跡は国分寺の石碑近くにある七重塔の礎石など、わずか。周囲を見渡しても、平凡な空地で、この寂寥感も歴史ロマンをかきたてる要因となっている。
今、国道を行き交う人々の大部分が、このようなものが残っていることすら知らないと思う。歴史に「たられば」は禁物だが、もう少し恭仁京が存続していれば、のどかな田舎町といったこの辺りの風景も少し変わっていたのかもしれないと思いを巡らせてしまう。ただ、その一方で、世の中の全ての真実が白日の下にさらされている状態ほど、つまらない事はないとも考える。幻は幻であるから人は好奇心を糧に、真実を追い求めてひた走ることができるのだ。
昼食を終えた私は、再び国道へと戻る。恭仁宮跡の方角に広がる集落に目を向け、田舎町特有の心地よい〝ひなび〟の奥底でひっそりと息づく古の〝みやび〟を感じながら、西へと進んでいく。
時刻はまだ14時。残りの距離を考慮すると順調にいけば、目的地のJR木津駅まで思ったよりも早い時間に着くことができそうだ。(本紙報道部長・麻生純矢)