赤田川河口付近に集められている大坂城の残念石

赤田川河口付近に集められている大坂城の残念石

高虎公の供養塔

高虎公の供養塔

国道163号をしばらく進むと「京都府立山城郷土資料館」=木津川市山城町上狛千両岩=に到着。時間にも余裕があるので立ち寄ることにする。
この施設に入る道沿いには1620年に徳川秀忠の命で再建された大坂城の石垣になんらかの理由で使われず、置き去りにされていた『残念石』が屋外展示されている。
少し話は逸れるが、以前にもこの連載で、笠置町や旧加茂町が江戸時代に津藩の領地だったという話をしてきた。この残念石も城づくりの名手として名高く、大坂城再建の際には普請総奉行を務めた津藩祖・藤堂高虎公の命によって切り出されたものである。
加茂の大野山には石垣に適した花崗岩の石切場があっただけでなく、山に面した木津川から船で大坂へと運ぶことができた。つまり、最高の立地条件が整っていたのだ。現在でもJR加茂駅近くには石材屋がいくつかあるのも、そういった背景があるのかもしれない。
各地の大名の領地から集められた石材によって築かれた大坂城の石垣は最も高い場所で約32m。日本一の高石垣として、今も大阪のシンボルとしてそびえたっている。
加茂の残念石の一部は、木津川市内の色々な場所に移設されており、郷土資料館前のもその一つである。
それらの中でも特に見応えがあるのが、木津川の支流である赤田川の河口付近に残された残念石であろう。加茂町大野の勝手神社向かいの河原には1975年の護岸工事の際、見つかった残念石が積まれている。更に、そこから川に降りると、土手のものよりも大きな残念石が川の中に点在している。同年に掘り出されたものが、ここに集められたという話だが、鬱蒼と生い茂る木々と川辺の風景とが相まって、大坂城の石垣がどのようにつくられ、運ばれたかを垣間見られる貴重な場所となっている。
しかし、この残念石を巡って現在、地元で議論が巻き起こっている。石のある赤田川の河口付近は川幅が狭く、浸水被害が発生していたため、地域住民たっての要望もあり、国による河川改修工事が行われており、樋門も改築された。それに合わせて、川沿いの府道を拡幅して利便性を高める計画も上がっている。
しかし、これらの計画が実行されれば、残念石の保存はされるものの、この場所は埋め立てられてしまうこととなる。そこで市民団体から、様々な提案をまとめた要望書が市に出されている。同じく大坂城の石垣の石材を切り出した小豆島では、石切場が国の史跡になっていることを考えれば、現在の形で保存すべきだという声があることにもうなずける。
高虎公は、石を切り出すにあたり、加茂の常念寺に滞在し指揮を執った。加茂町山ノ上には、公の供養塔も残る。地域住民の安心安全と歴史文化の継承。優劣をつけがたい二つの事象。津市にとっても縁が深い場所であるだけに、どう着地するかは非常に気になるところである。(本紙報道部長・麻生純矢)