2018年9月

 津なぎさまちは、中部国際空港セントレアへの海上アクセスとして開港された、言わば空の玄関口である。確か平成17年2月頃と記憶している。「なぎさ港」は、その1年後に私の散歩コースの中で書いた詩である。
たまたま、歌の月刊誌に投稿したところ、審査員の中で、あるメジャーの先生から詩の構成が良いと褒められ、「マイソングとして大事にしなさい」とアドバイスをうけたのである。それを私が調子に乗って曲をお願いしていた。
するとある日、作曲家の先生から歌わせたい人がいて、その娘がレコーディングをするので東京へ行って欲しいとの電話があった。
まさかの話に戸惑いはあったが、「お願いします」と言って了承した。
何故そうなったのか、事情を聞いてみると、今もテレビなどで活躍しているロス・インディオスの『棚橋静雄と夢のアルバム』と言う企画に、私が書いた詩が使われると言うのである。
歌は藤原和歌子さんで、もう1曲の「東京ベサメ・ムーチョ」の歌は、棚橋静雄さんと藤原和歌子さんのデュエット。この2曲と、旅立ち列車の1曲をレコーディングして発売されると言う。
セントラルレコードが企画したカラオケカップの大会において、彼女が審査員長特別賞を受賞し、副賞にオリジナル曲として「なぎさ港」を贈ったと言うのである。
前日は、新宿の京王プラザホテル2号館で発表会が開かれ、翌日はJR山手線の駅前にある中野プラザホテル地下のスタジオでレコーディングを行うと言う。
忘れもしません、3月11日の東日本大震災が起きた翌翌日の13日の発表会であった。
 発表会の時間に間に合わるため、前日の12日の早朝から東京に向かい、いつも利用していたサンメンバーズ東京新宿に宿泊した。このホテルは高低差のある場所に建っていて、正面玄関の左の石段を何段か降りると、前の道路は青梅街道の入り口付近で街道は緩やかな上り勾配になっている。街道の側道に面していて、人通りが少なく静か場所である。
また、裏通りに通じる裏玄関を出ると、細い路地が左右に伸びていて、前方を見上げると高層ビルが競い合って建っている。その路地を左へ100mほど歩くと、新宿ワシントンホテル本館の正面玄関に通じる広い道路に出る。
ホテルの正面玄関の前の道路はT字路になっていて、左前方の目と鼻の先に丹下健三氏が設計したという高さ240mを超える都庁が威風堂々と聳えている。
その都民広場を挟んで、向かい側に京王プラザホテル本館や2号館も他のビルとともに林立している。東京の副都心である新宿は、他の地域より地盤が固く小高い丘になっているのであろうか、道路や建築物の敷地に高低差があり、街そのものが立体的で重厚な都市空間を演出している。
開催時間に合わせてホテルの玄関に入ると、既に主催者側のディレクターや、作曲家の先生、歌い手の彼女も私を迎えてくれた。会釈を交わして案内され会場に入ると、舞台は華々しくセッティングされており、余震が続いていたにも関わらず、満員の会場は熱気に溢れていた。
そして、レコード会社の代表者の挨拶が終わり、祝辞や余興を交えて、選ばれた歌の発表会が延々と続き、時間の経つのも忘れる程であったが、発表会も終わり、別れの挨拶を交わしてホテルを出る頃には、既に高層ビル群の新宿は静かに夜の帳が降りていた。
 翌日の14日も相変わらず余震が続く中であったが無事レコーディングを終えた。その夜は宿泊先の新宿のホテルに戻り、翌朝、作曲家の先生と歌い手の彼女と朝食をとりながら、その日のスケジュールの調整を行ったが、航空券の予約の関係上、もう一泊すると言う。
しかし、余震が余りにも頻繁に起こるので、なんとなく不安を抱いていたのであろう。一時も早く東京を離れた方が良いと言うことになり、急遽東京を脱出することになったのである
新宿駅のJR山手線のホームへ向かって歩いていると長蛇の列と人で溢れていた。その人ごみを縫って最前列に二人を誘導した。
そして、ホームに到着したばかりの車両に一瞬の隙を見て滑り込んだのである。ドアが閉まる直前にざわめきを感じたのであるが、列車は何事も無かったかのように、ホームを離れたのである。東京駅では博多行きの「のぞみ」にも間に合った。
そして、津波による地獄のような被害の状況が、動画などに配信されるのを見て唖然とした。その後も津波と原発事故による被害の様子をニュースは途切れることなく放送し続けていた。
 さて、話が少し横道に逸れたが、棚橋静雄さんについては、東京での発表会や、藤原和歌子さんの故郷である長崎県の佐世保での新曲発表など、何度かお会いしたが、彼は1978年に発表された「コモエスタ赤坂」「知りすぎたのね」が大ヒット。翌79年には、シルヴィアさんとのデュエット曲「別れても好きな人」が大ブレイク。その後も新曲「涙を残して」、「愛の旅立ち」を発表して、ロス・インディオスの棚橋静雄の名前を欲しいままにした。今も美声は衰えていない。
(一社・日本作詩家協会々員)

中京大学校友会三重県支部(西田憲治支部長)は、11月23日㈮、津市新町のプラザ洞津で年次総会と記念講演会、親睦会を開くにあたり、広く参加卒業生を募集している(受付9時半~・総会10時~・講演会11時~・懇親会12時10分~15時)。
講師は、平岡健康開発研究所・スポーツクラブMAX代表の平岡令孝さん。演題は「校友会のみなさんの健康長寿を目指して」。
平岡さんは1951年生まれ。昭和48年同大学卒。中学・高校・看護大学勤務8年。プロ・アマスポーツ歴42年。中でも陸上競技歴は50年(現役)。走り高跳び元三重県記録保持者・日米室内国際陸上競技大会走り高跳び3位。平成24年アジアマスターズ走り高跳び2位などの記録を持つ。
当日はスポーツと健康について分かりやすく解説する。
懇親会会費は7000円(当日会場で支払い)。三重県支部入会費は3000円(永久会費・当日受付けも可)。
同窓会への入会希望者はFAX0598・29・6944へ氏名・住所・電話番号(携帯も)を明記して送信すると、後日連絡が送られてくる。
締切りは9月30日必着。
問い合わせは馬場さん☎090・8551・3979へ。

今の若い人たちに「文通」と言っても、きっと言葉の意味を知らないだろう。遠く離れた人と手紙を使ってコミュニケーションをすることだと説明したら、「どうしてそんなまどろっこしい手段を選ぶのか」と聞かれるだろう。コミュニケーションならSNSとか電話とかメールとか、他に簡単で手早い方法がいくらでもある。
でも、昔は文通というコミュニケーション手段があり、結構普通に行われていた。雑誌や新聞には文通コーナーやペンパル募集欄があり、そこで文通相手を見つけることができた。住所氏名が公開されていたわけだが、個人情報には無頓着な時代だった。
私は小学校四年生から高校卒業ぐらいまで北海道の女の子と文通していた。学習雑誌に絵画展入賞者として掲載された私の学校名と氏名を見て、学校宛に手紙をくれたのが文通の始まりだった。
一度だけ、文通相手に会ったことがある。修学旅行で奈良を訪れた彼女に会いに、奈良公園まで出かけた。彼女は想像以上にかわいい子だった。
郵便受けに自分宛ての手紙が入っていた時のうれしさを今でも覚えている。誰かに向けて何かを伝えることもうれしかった。文章を書くことが苦にならないのも、文通のおかげかもしれない。
住所は今でも覚えている。手紙を出したら、彼女のもとに届くだろうか。元気にしているだろうか。 (舞)

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