最近のレスリング界でNo1の実績を誇る国民栄誉賞まで受賞した伊調選手のまさかのパワハラ問題に始まり、相撲界もアメフトやボクシング界やチアダンス部まで多くの闇を抱えている。
世界陸上やワールドカップ、高校野球やパンパシ水泳に熱狂する反面、伊調選手のように真摯に競技に取り組んで来た選手が苦しんでいるのを見ると、50年以上スポーツに関わって来た者の一人として、何とも言えない気持ちになり、自分自身も光と闇の時代があったのを思い出す。
思えば、私も小学校では一年から六年まで徒競走はいつも一番、陸上部はなかったので、ソフトボール部の主将や、自らスポーツ少年団を結成し、当時から小学生だけでなく、年上の中学生を指導してきた。
一方、答辞を読んで卒業するまで、我が家は貧しく、一本のソーセージを母と妹が譲り合っている場面や、いつも母の作ったみそ汁と、お茶漬けか沢庵をよくかじって食べた記憶がある。貧しくとも両親は精いっぱい私を支えてくれた。そして活躍する私を見て喜んでくれる姿を観るのが好きだった。
順風満帆に思えた時代も中学に入学すると一変する。入学式初日から番長に名指しで絡まれたり、陸上部に入部するものの、顧問は名ばかりでコーチ等いなかった。
しかし、強く、もっと速くなりたがっていた私は、棒高跳びを含めた陸上全般が好きになりかけていた。つい先日まで小学生であったのに、毎日走り幅跳びで5m以上を50本というような、自ら無茶なノルマを課してしまった。
結果、中一の春にはもう左足の骨を痛め踏み切れなくなり、ランニングでも、小学生の頃の柔らかで全身のバネの効いた走りがもう出来なくなってしまう。

迷いと間違いだらけの走りをやっているうちに三年になり主将になっていた。中学最終の県大会だけは3位入賞するため、ハードルで中学日本新記録を出そうと準備していたが(50mハードル5台置き7・0秒)、地区の津安芸予選でまさかの試練が訪れる。
予選をトップで通過した後、決勝で隣にいた第2コースの学生が「用意!」の合図で大きく一歩出てしまったのである。私はフライングのピストルが鳴るのを信じて疑わず、体力温存して走らずに構えたままスタートラインで待っていたが、ピストルが2度鳴ることはなかった。
ハードリングには自信があったが、もはや10m以上出遅れては私でも手遅れだった。結果は4位11・7秒。日本記録どころか県大会出場も叶わなかった。
中学三年間でコーチや指導してくれる人もいなかった事もあり、自ら付けてしまった悪い走りのフォームは高校に入っても修正出来ず、一年で陸上を去ることになる。小学生の頃、〝黄金の脚〟と言われながら、一人悩み苦しんだだけで四年で陸上から離れることとなる。
高二からは管瀬先輩(元・四日市衡器代表)と出会い、共にゼロから「重量挙愛好会」を創り、一年後には神戸高校では前例のなかった部への昇格や5階級制覇を果たし、自らも主将として県記録保持者(プレス105㎏もしくは110㎏・スナッチ90㎏・ジャーク125㎏)になっていた。
インターハイにも出場したが、猛特訓がたたり、当日に限って痛みでシャフトが握れなくなり、サムレス(5本指で引っ掛け)で3種目とも全試技をする事になってしまい、パワーセーブを余儀なくされ、これもまた試練であった。
当時は神戸高校が重量挙げで№1だった。何校かの大学から誘いを受け進路も決まりかけていた卒業前に、県協会理事長から「顧問から三重インターハイの強化指定校2校のうち、神戸が内定したと知らせがあった」と聞かされた。束の間の喜びとは裏腹に、これから始まる長い試練に私はまだ気付いていなかった。

私は迷いながら愛知のC大学へ進学するが、皆で創って行く和気あいあいとした神戸高校の頃のの雰囲気とは180度変わっていた。
私は肉体的シゴキには音を上げたことはなかったが、当時の威圧的、理不尽な暴力等には耐えられなかったし、窮屈が一番苦手だった私は部を飛び出し、大学も中退してしまい、大いなる挫折を味わうことになる…。      (次回に続く)