記録的な猛暑が続いた今夏の暑さも、アッという間に過ぎ、青々としていた木々も色づき、実りの秋を迎えております。金木犀の甘い香りも濃くなり、秋は少しずつ進んでいきます。
今回は、「江戸小唄のはじまり」について御紹介したいと思います。
散るは浮き
散るは浮き
散らぬは沈む
もみじ葉の
影は高尾か 山川の 水の流れに月の影
小唄の第一号は清元お葉(一八四〇─一九〇二)の、「散るは浮き」とされております。
安政2年、当時16歳のお葉によって作られました。江戸時代後期、二代目清元延寿太夫の長女として、生まれ、幼い頃から才能を発揮し、16歳の春には、清元は師範の腕となり、上方唄、江戸長唄、常磐津、新内、江戸端唄なども、習得していました。
父の死後、遺品から松江城主、松平不味公自筆の「散るは浮き 散らぬは沈む もみじ葉の 影は高尾の山川の水」と書かれた和歌が出てきました。この和歌の作曲を思い立ち、「高尾の山川の水」を「高尾か山川の水」と変え、末尾に「水の流れに月の影」と加筆して、端唄でもない、歌沢でもない、全く違った唄が出来上がりました。 それを聞いた三味線の二代目清元斎兵衛が、替手をつけ、記念すべき最初の小唄となりました。
唄は秋の紅葉の名所として名高い、高尾のもみじを唄っており、散ったもみじは清滝川の渓流に浮いて流れ、枝のもみじは、その真紅の影を渓流の底に映して美しく、「月の影」は渓流にかかる月の光をいっております。
お葉は、「小唄というものは、節をつけずふんわりと温和に唄い、間をうまく合わせて、唄に表情をあらわすもの」と言う言葉を残しております。
江戸小唄を作曲するに当って意図した所を具体的にいうと、江戸小唄を三味線本位の曲とし、唄を従としたこと。三味線の間拍子を早間にしたこと。三味線の前弾きを少なくして、後弾き(送り)で余情を出すようにしてこと。唄に粋でいなせな江戸趣味を盛りこもうとしたこと。この意味から、小唄は形式的なものでなく、精神的で内面的なものとなりました。
江戸小唄の特色に一つは、粋でいなせな江戸趣味を盛り込んだ唄い方にあります。
お葉の意図した江戸小唄の本当の味「通」「粋」「いなせ」「勇み」と言う言葉はどんな意味をもっていたのでしょうか。
まず「通」というのは、江戸に住む上は大名から、下は職人に至るまで尊重された言葉であり、感情でした。通の中で一番上品なものを「粋」といい「わけしり」又は「高等」とも呼ばれました。次の「いなせ」と言うのは、通の中で庶民的なものをこう呼び、元は吉原から発生した言葉で、深川の木場衆、仕事師、鳶の者などを「いなせ」と呼ぶようになりました。
「いなせ」を女にしたものが「俠」でした。こらは辰巳風という風俗で、小股の切れ上がった辰巳芸者のような女をこう呼び、男の真似をして、羽織を着て客席に出るので、「羽織芸者」とも呼ばれました。
又、通の中で一番品位の落ちたのが「勇み」です。ねじり鉢巻に巻舌で人につっかかることや、頭で暖簾をかき分ける事などは、いなせを越えて、いさみの部類に入ります。粋でもいなせでも勇みでもないのを「野暮」といいます。
男女を問わず、野暮でないこと、わからず屋でないことを生命とし、こういう感情の中で江戸小唄は生まれ育ちました。
春に飛んで来たツバメたちが南の国へ帰っていく季節です。来春さっそうと元気な姿を見せてくれるのを楽しみに。
小唄 土筆派家元
木村菊太郎著
「江戸小唄」参考
三味線や小唄に興味のある方、お聴きになりたい方はお気軽にご連絡下さい。又中日文化センターで講師も務めております。稽古場は「料亭ヤマニ」になっております。☎059・228・3590。