押し花・レカンフラワーインストラクターの別所久美子さんが主宰する教室の第10回生徒作品展11月28日㈬~12月2日㈰の10時~16時(最終日15時迄)、津市東丸之内、リバーサイドFK1階の久画廊で開かれる。
レカンとは、フランス語で「宝石箱」の意味。レカンフラワーは自然の花や葉を立体状態で乾燥させたもの。多様なアレンジが可能で、退色を食い止め、長く楽しむことができる。
作品展は、生徒さんの1年間の創作活動の成果を発表するもの。今年は約20名が大小合わせて約80点の力作を展示する。
別所さんは「どうぞ、お気軽にお越しください」と話している。
問い合わせは別所さん☎059・227・8469へ。

石材店が軒を連ねる清滝峠の麓

石材店が軒を連ねる清滝峠の麓

清滝峠の麓には、四條畷市など、近隣の自治体で管理する飯盛霊園があり、石材店が軒を連ねている。国道の新道は歩行不可のため、私は峠に向かう旧道を歩いていく。
四條畷市が非常に面白いのは、清滝峠を境にして西側の四條畷地区と東側の田原地区によって自治体が成立していること。一般的には峠は行政的な区切りとなりやすく、長野峠や青山峠で隔てられた津市と伊賀市のようなケースが多い。四條畷市史には、現在の形になるまでのドラマが綴られている。
日本が戦災復興から経済発展を遂げた昭和20年~30年代、田原村は自然豊かで別天地、桃源郷などと称されていた。当時、朝鮮戦争による特需から、神武景気、岩戸景気と5年刻みで訪れる経済的恩恵によって機械化が進み、交通網が飛躍的に整備されていった。
その一方で、大阪府の中でも清滝峠に隔てられる形で奈良県境と接している田原村では、大阪府方面との交通手段は163号のルーツである清滝街道の峠道を徒歩か自転車で越えるしかない状態だった。当時の村長・曽根耕一郎はこの状況を「大阪の離島」と呼び、危機感を強めるほどだった。
そういった背景もあり昭和27年(1952)秋頃に田原村への運行を京阪バスに陳情した。しかし、京阪バスの煮え切らない対応に業を煮やした村側は昭和32年(1957)に近鉄バスの方が見込みがあると判断し、陳情を行った。田原村最後の村長である奥田忠一氏が昭和32年から昭和34年(1959)の間に記した日記によると、この間だけでもバス開通に向けた会合と陳情を41回も重ねていることからも、その熱意が伺える。
その後、バス会社だけでなく、大阪陸運局や運輸大臣、知事などにも陳情書を提出したが、バス会社2社に陳情したことによって話が少々複雑な方向へ進んでいく。というのも、京阪バス側は煮え切らない対応を繰り返す裏側で、清滝街道が国道として整備を受けることを予見し、バス運行の実現に向け、密かに舵を切っていたのだ。
そんな折に、村側が近鉄バスに切り替えたため、過去の陳情書に書かれた「民意」を盾に京阪バスも運行に名乗りを上げた。当然、同一路線に2社が競合すれば、利益の奪い合いとなるばかりか、地域住民も定期券が2種類必要になる。村としては近鉄に絞りたい思惑はあったが、村民の間でも京阪派と近鉄派に分かれ、議論が過熱。
地元選出の代議士や陸運局を巻き込むまでになったが最終的には、両社の立場を認める平和的共存によるバス路線開通という形で決着した。
このバス開通によって田原村と峠を隔てた四條畷町は行き来が容易になったことで緊密化。昭和36年(1961)に田原村は四條畷町へと編入され、今の四條畷市の原型が出来上がった。
いわば、四條畷市という現在の行政区割りは、この峠道を巡る物語によって成立したものといえる。そういった歴史を踏まえながら、この道を歩くと感慨深い。(本紙報道部長・麻生純矢)

小川実行委員長(右)が井村理事長に浄財を贈呈

小川実行委員長(右)が井村理事長に浄財を贈呈

15日、松阪市嬉野島田町の西日本セブンスリーゴルフクラブで、「第34回三重ボランティア基金チャリティーゴルフコンペ」があった。主催は同実行委員会。
ボランティア団体を助成する同基金への寄付を目的に、毎年2回催されている。今回は津・松阪などの126名が参加。一人2千円の参加費の一部と、チャリティホールでワンオンできなかった場合の募金1回500円を合わせ、浄財35万9500円が集まった。
表彰式では、小川益司実行委員長が参加者に感謝すると共に「コンペを継続できるようご支援をお願いしたい」と呼びかけた。また同基金の井村正勝理事長は寄付への謝辞を述べ「有効に使わせて頂きたい」と話した。
コンペの結果は(敬称略)……1位=田中守、2位=中村勤、3位=小島精、男性のベストグロス賞=前田和良、女性の同賞=岩間智子。

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