前回の稿にて「県協会理事長」と「顧問」が逆になっておりましたので訂正します。
(前回からの続き)
未来さえ閉ざされた気がした。その後、約一年間、新聞屋でお世話になった。その職場の大卒の先輩にある日、「お前はこの会社に一生いる男ではない。もう一度人生やり直せ」と言われて目が覚め、退職しもう一度、大学受験に向け、10㎏ほど鈍ってしまった体を鍛え直す事になる。
その頃、いつの間にか神戸高校の強化指定校内定の話は聞こえてこなくなっていた。理事長の敷いたレールとは違う道を私が選んだことにより、共に頑張って来た部の後輩や関係者には申し訳なく思っている。後日、当時団体2位と3位だった四中工と亀山に新しい練習場が建った。
私が大体大(大阪体育大学)に無事合格し、主将として卒業後も体育教師をしながら、WL(ウエイト・リフティング)の国体予選大会で優勝を重ねても国体に選ばれることはなかった。私が大学を卒業してWL界から離れる8年後まで、あの内定取り消しは続いていたのだと、まだ選手として伸びしろを残しながら引退することになるまで気付けなかった。私がこの先、何度国体予選大会で優勝しても私はアウトなのだと感じ、その後はパワーリフティングに全力を投じることになる(後に県パワー協会理事長に就任した)。
その後、パワーリフティングでは、弟子の藤井選手(フジイ工事管理代表)達と共に20年以上無敵のコンビで連勝を重ねることになる。
また私の運営する津トレーニングセンターで日本一や世界チャンピオン、甲子園出場選手やバドミントンやバスケ、陸上、柔道などの優勝者を育てながら、私自身は子育てや県パワー協会理事長にボディーの審判、指導など忙しく、めったに全日本に出場する機会がなかったが、一度だけ全日本ベンチに出場したことがあった。
◆忘れられない試合
ベンチは、特殊なスーツ等を着用せず、ベルト一本でWL同様に自力勝負の時代であった。私が出場した競技の数年前に日本一となった選手が160㎏を上げていた。一方、私は県大会で162・5㎏を上げていたのだが、忙しく出場出来ずにいた。
全日本選手権へは確か少し減量して単身、早朝から車を飛ばして会場へ乗り込んだ。ウエイト(重さ)が90㎏くらいから150㎏台の選手40数名の競技が終わり、予想通り最後は、前年度優勝者の東京都のチャンピオンと日本記録保持者(170㎏)の大谷選手、そして私の3人が残り、最終試技は3人共167・5㎏を申請し日本一を争うことになった。
公式ベンチは、バーベルを台から外し、肘を伸展させてスタートの合図を待ち、下ろし始めたら胸上で一旦静止させて、当時は主審の拍手でスタート(プレス)の合図を待つ。
最初に前年度日本一が登場したのだが、バーを胸へ下ろす数センチ手前で、もう主審が手を叩いてプレスの合図を送っていた。本人も合図の後、一旦停止どころか、チーティング(体の反動や重心移動を利用して、出来るだけ小さな力で、楽をして行う反則行為)で勢いをつけ重そうに上げていた(チーティングなら大谷選手も私も180㎏近い力を持っていた)。
明らかに静止しておらず、失敗だと思ったのだが、まさかの審判2名が白ランプを2個点け成功になった。
当時のルールではコーチや監督がお金を支払い抗議することが出来たが、単身アウェイへ乗り込んで来ている私には抗議する監督もいなかった。これがアウェイかと痛感させられた。
2番手で登場した日本記録保持者の大谷選手は胸上で、ちゃんと一旦静止していたが数センチしか浮かず失敗した。
最後に登場したのが私で無論、胸上で167・5㎏を静止させてから全力でプレスしたが、左腕はジリジリ上がって行くのだが、昔バイクで車に撥ねられてから後遺症となっていた右腕が、あと数センチで止まった。 日本一に数センチ手が届かなかった。減量が予想外に筋力を低下させており、本来の力が出せなかったのも一因だった。
静止してから上げた大谷と私が負け、停止していない者が日本一。シラケた表彰式では、私も大谷選手も優勝者と握手して祝福することも出来なかった。
私は前述の中学時代の他校のフライング事件をふと思い出していた。何故肝心な時にいつもこうなんだろうと…。
後味の悪い大会だったが、(正々堂々戦った大谷選手は同じスポーツマンとして覚えているが優勝者の名は覚えていない)大会終了後、津工業出身の津トレーニングセンターの若い会員さんが2階席で観戦していたと知り、やっと少し笑顔を取り戻すことができた。
しかし、競技というものは、ライバルが何を仕掛けてきても正々堂々と勝負して勝たなくてはいけないものである。あの試合の場合、私は170㎏でも180㎏でも上げ、ぶっちぎりで勝たなくてはいけなかったのだ。
悔しさと同時に、「弟子が日本一になっているのに師匠のお前は一体何をしているのだ」と自分自身にも腹が立ち、1年後、もう40歳代でマスターズになっていたが、当時最強だった大谷選手の上を行く180㎏を上げて初めて日本記録保持者の名をもらった。
(次号に続く)