生死を分けた防空壕   雲 井  保 夫

(前回からの続き)
養正国民学校の防空壕から出た西田校長は、空襲のあとの校区を巡視した。いたるところに火事が起き、生きている人とてなかった。
翌日の学校、職員30人全員集まったが、1500人いた児童は30人しか登校しなかった。きのうの爆撃は全部養正校区。「どんだけの子らが死んだか。すぐ家庭訪問して調べてくれ」と職員に命じた。81人の死亡を確認した。消息不明の子も多く、ついに正確な数字はつかめなかった。
爆撃で防空壕が破壊され埋まってしまって一家死に絶えた家が多かった町々の遺体収容と遺体の焼却は、悲惨を極めた。 引き取り手がなく、身元もわからない路傍の遺体には真っ黒にハエがたかった。
津市桜町の荒物屋、石橋武男さん、出征中、方はおばあさんが隠居所に孫の紀子ちゃんをつれてきていて生き埋めになったが、おばあちゃんが自分の体の下に紀子ちゃんをかばっていたため紀子ちゃんは助かった。
だが、石橋さん方は爆弾につぶされ、かまどのところで母親が死んでいた。ところが埋葬する段になって腰の非常袋を解いたところよその奥さんだと判った。
紀子ちゃんの母親は行方不明だった。数日たって半分腐乱した女性の遺体が道路わきで見つかった。焼け残った着物の柄から石橋さんの奥さんとわかった。
「紀子ちゃんらを心配して隠居所にかけつける途中で、爆死しやしたやさ」と近所の人々の涙をさそった(引用文献『名古屋大空襲』昭和46年、毎日新聞社)。
松阪市東黒部町の主婦大西生子さん(当時67)は、小学校の校長だった(養正小学校第一代の校長大西春之助)父の勤めの関係で昭和十年(1935年)から津市の古河町に居住。県立津高等女学校(現津高校)に入り、玉置町に移り住んだ。
大西氏は語る。
「7月24日の空襲は朝の10時ごろ、空襲警報が出ていて家には私一人でした。三重師範学校に『ダーン』と第一発目が落ちましたん。あーこわ、と思とるうちにダダダダッとすごかったですわ。うちも台所へ落ちた。八畳ぐらいの穴が開きましてなあ。こけた(倒れた)家から表へ出たら今度は門の下敷きになったんです。どうにか逃げ出せたが、また爆風で百メートルほど飛ばされた、九死に一生を得たということは、こういうことですやろな。
小さい子なんかは影も形もないくらいに飛ばされたとゆうますしね。前の家の人は、背負っていたリュックサックが防空壕の入り口に詰まって、そこへバカーンと爆弾が落ちて一家全部即死でした。私は裸足、着のみ着のままで、頭から血を流し、足には爆弾の破片が刺さって、全身内出血でしたんや。
救護所へ行っても手足がもげたなどの人が多く、そんなんけがのうちに入らんといわれ、相手にしてくれませんだ。途中でおばあさんがワラジをくれました。母の実家に身を寄せ、リヤカーで松阪の医者へ行ってささっている破片を取ってもらった。半年ぐらい治りませんでした。
玉置町は医者と弁護士ばかりで、工場なんかなく、爆弾を落とすんが外れたんじゃないかな。100人ぐらい住んでたんが、残ったのは10人ぐらい。弁護士の山田さんが中心になって13年ほど毎年の7月24日に供養を続けました」。
 伊勢市の澤村節子さん(手記執筆当時63歳、旧姓・広瀬)の実父である広瀬隆さんの手記から抜粋。
「ヒュルルルルザザザザー。何の音だろうと思った時、どこからか飛び出してきた母が私達4人姉妹を吹き飛ばすように庭先の防空壕に押し込んだ途端、目の前が真っ暗になり何の音も聞こえぬ静寂が訪れました。
どのくらいの時間が経ったのか判りません。当時4歳だった一番したの妹の泣き声に、ふと気がつくと、身動き出来ぬまで防空壕の土が私達の体を押し付けていました。昭和20年(1945年)7月24日、朝から日差しの暑い日でした。私は4人姉妹の長女で13歳。県立津高等女学校の1年生。母36歳。父は2度目の中国戦線から帰還し、県庁の職員として勤務中で、遠からぬ玉置町に住んでいた私達を案じ、駆け付けてくれましたが、辺りは瓦礫の山で、見当が付かず、隣家に杉の木があったのを見当てに、ここぞと思うところを掘ると、左半身を吹き飛ばされた母が居り、まだ息があって、右肺から搾りだすように声を出したそうです。
私達と言えば、身動きもならず真っ暗な中に、急に頭の上にぽっかりと穴が開いて光が射し、父の声が降ってきたのに、声を出せず、ただ呆然とするのみでした。
父は、血塗れで内臓のはみ出た母を背に瓦礫と、死体の山を踏み越え、救護所に向かいましたが、母は父の背中で、当然ながら事切れておりました。町内で、この現場に居て、生き残れたのは私達姉妹4人だけだったとは、後から聞いた事実です。近くの神社の境内に死体が丸太のように並べられ。暑い夏の陽にさらされて居た光景を今も忘れることが出来ません。
 伊勢市、坂本(旧姓・大西)多賀さんの手記、 「実父は大西春之助 第11代養正小学校校長。昭和20年7月24日、津新町国民学校に勤めていた私は、ちょうどお昼頃、空から雨のように、ザァーザァーと爆弾が降ってきた。ただこわくて、学校当直室の押入れの戸も吹き飛んだ。校庭の隅に作られた小さな粗末な防空壕へ走った。穴を掘って、少しふたをした程度で、7~8人も入れば満員、しかし、命にはかえられない。押し入って、南無阿弥陀仏を何回もとなえていた。
向かいの津中にも小型爆弾がたくさん落とされていた。どうやら命は助かったので、防空壕から頭を出して、外をそっとながめた。
自分の命が助かると、家にいる妹が心配になった。玉置町の家へいってみると、すっかり焼け跡になっていた。国魂神社が救護所と聞き、そこへかけつけたら妹がいた。 他の家の方は、防空壕もとてもいいものを作っておられたのに、ほとんどが窒息して亡くなられた…。  (次号に続く)