「わー! きれいに咲いてる!このままにしとこ」
二年前、玄関前に咲いた白いドクダミの群れを前に、私は思わず言ってしまった。花が終わってからむしったが、勿論、根の奥までとれなかった。しかも庭のあちこちにはえているドクダミを頭のモードが狂ってしまったのか、あまり気にしないで見過ごしてしまった。被害は確実に現れた。大切にしていたしゃくやくがドクダミの根に負けてしまい、生えてこなくなった。その時やっとドクダミの害を知り、今年は五月下旬から毎朝一時間草むしりというよりドクダミむしりをしている。長くなったのは洗って干し、薬草として使用するつもりだ。
私の所属している「谷川士清の会」では、秋の新町フェスタで薬草茶を振る舞っている。ドクダミはきついので干して二年後に使用できるとか言う。我が家のドクダミがフェスタで使えるのは来年。楽しみがふえた。
令和元年の五月十日の「士清まつり」では新町駅前の南漢方薬局の南先生に「薬草について」の講演をしていただいた。先生には平成二十一年の谷川士清生誕三百年祭と平成二十五年、そして今年と三回目になる。谷川士清は家業が医者だったから、旧宅のケースの中にも『谷川家処方書』が保存してある。代々の谷川家の医者がこの書物に記録していったようで、士清の自筆のものも入っている。
谷川士清は『日本書紀』があまりに難しい漢文体で書かれているため、よほどの知識人でなければ理解できないことより、少しでも読み易くと考え、自らの漢文能力をふるに使い注釈をつけて『日本書紀通証』三五巻を出版した。
取り組み始めて三十年はかかっている。その時、言葉の意味や出典など書き溜めた言葉が二万一千語近くになり、自ら発明した五十音順に分類したものが、現在の国語辞典の元『倭訓栞』である。その頃は出版するには多額の費用がかかり、『日本書紀通証』でほとんど医者としての蓄えは使い尽くし、資金繰りに家族は四苦八苦した。悪い事に、京都で士清と一緒に神道を学んだ竹内式部が幕府が宮中での日本書紀の講義を辞めるようにとの命を無視したため、追放され一七五九年士清を頼ってきた。
情に厚い士清は人目につきやすい旧宅を避け、娘八十子の嫁ぎ先の伊勢に匿った。その為、士清は津藩から疎まれる。さらに士清は徳川光国が著した『大日本史』の誤りを正した『読大日本史私記』を一七七四年に著した。このことより津藩は士清を他参留め、息子士逸を所払いにした。家塾の弟子たちも絶家、減給にされ、塾はつぶされた。追い打ちのように明治に入り、医者が世襲制でなくなり、学校に通い医師免許試験に合格する規則が設けられ、谷川家は学校へ行く資金も工面できず、薬剤師をして士清の『和訓栞』の出版費用とした。
士清の持ち物、本、家まで人手に渡り百十年かけて明治二十年やっと『倭訓栞』全巻九十三巻八十二冊を出版した。谷川家の執念ともいえる。士清を子孫は尊敬し、誇りに思っていたことがよくわかる。
『谷川家処方書』に詳しく書いたからなのか、『和訓栞』を調べたら、薬草が意外に少ない。次に記してみる。
『増補語林 和訓栞 後編』 編者 谷川士清
増補 井上頼国 小杉榲邨
増補語林は上巻、中巻、下巻、後編とある。士清の著した『倭訓栞』は前編、中編、後編に分かれており、前編は古言と雅語、中編は雅語中心、後編は方言や俗語、外来語を集めた。そして増補語林では前編と中編は増補しているが後編はそのままである。薬草は前編と中編にはなく、望みを託して後編を読み始めたら、多少出てきたけれど、薬草としての使い方等は詳しく載っていなかった。普通薬草と言われているものを少し並べてみることにする。

○あけび…倭名抄小葡萄を訓じ又木通をあけびのづらとよぶ。あきえびの義。実えびの如く熟して開き折らん。
○あざみ…薊をよめり日本紀倭名抄に粗刻の葉の体をいうなるべし。
○いたどり…本草に血痛墜撲などに用う一説あり。
○きらんそう…龍牙草也といえり。俗に地獄の釜の蓋という。
○ぐみ…倭名称に胡頽子をよめり。苗代ぐみともいう。熟せる時をもって名づく。
○さねかずら…古事記萬葉集に見ゆ。根をつき滑汁を取る。今は葛を水にさらして用いる。
○さんしょう…山椒とかけり和称也。実小也。
○ぜんまい…薇をいう銭舞の義、芽の銭の形して回転せしかをいうなるべし。
○どくだみ…木にいうは○○○也 草にいうは蕺菜である。毒痛いの義である。
(谷川士清の会 顧問)