群衆心理の恐ろしさ

(前回からの続き)
もしも憲兵より早く群衆が到着していたら、米兵は心なき群衆に暴行され、殺されていたかもしれない。戦争とは人々の理性を失わせ、残虐行為を行わせる原因だと痛感する。学徒動員中の貴重な、終生忘れる事の出来ない一日であった。〔石川慶男、引用文献『夕陽の碑』陳川62会、1994年〕〔注・「三菱航空機津工場」はオーミケンシ津工場、津市上浜町にあった。同工場は2004年に閉鎖されている〕〔注・文中の「作業服のような軽装で」とあるがこれは当時のアメリカ陸軍航空隊の夏用飛行服であった、AN─S─31─Aと呼ばれる上下つなぎの薄カーキ色の綿製制服を指す〕
9・河合良成氏の手記から引用する。「落下したアメリカ兵。当時私は三菱航空機製作所〔現在の近江絹糸〕に学徒動員で働いていた。戦争も末期になり、物資の不足も目にみえてわかるような時期になっていたので、原材料の補給も途絶えがちで、仕事をしたくても出来ず、ぶらぶらと過ごす時間も多くなって来ていた。
5月14日、この日は朝からよい天気であった。やがて空襲警報が発令になり、工場のすぐ西にある山林の谷間へ走って避難した。工場から山林までの距離は短く、避難するには格好の場所で、警報がでる度に、この山林に避難するのが常であった。
幸い、この日は津に被害がなく、米軍機は名古屋方面を爆撃している模様であった。この頃になると、飛んでいるのはアメリカの飛行機ばかりで、日本機の姿を見ることが出来ない状況になっていた。いつも、米軍機は遥か低空に日本の高射砲の音を聞くだけで、日本の空を悠々飛んでいるようになっていた。
しかし、この日は空を見上げると、思わぬ事態を目にすることが出来た。B29一機が、火を吹きながら南に向かって飛んでいた。米軍機を撃墜する事は、既に望めない時期になっていただけに、見上げる者は一様に歓声を上げた。しばらくして、そのB29から、パラシュートが一つ開き、ゆっくりと落下してくるのが見えた。「アメリカの兵隊が降りてくるぞ」、誰言うともなく大声が上がると、皆一斉にパラシュートを目指して駆け出した。私もその一人であった。落下地点は、丁度現在の津商業高校付近であったと思われるが、私たちが落下地点に到達するより早く、憲兵が駆け付けていたようで、現在の教育センターの西あたりまで来ると、数名の憲兵に後手に縛り上げられた米兵に出会った。
日本人より、はるかに体も大きく、肉付きもよかった。しかし、殺気立った群衆は、棒や素手で殴りかかった。
「まだまだ、まだ殺すのは早い」
 と、憲兵は群衆を、たしなめながら、何処かへ、連れていった。
もし、憲兵より早く群衆が到着していたら、米兵は殴り殺されていたかも知れない。今思い出すと、異常心理での人々の行動には、常識では考えられない取り返しつかない事をしてしまうものであると、群衆心理の恐ろしさを感ずる次第である〔津市、河合良成。引用文献『津の戦災』〕         (次回に続く)