2019年12月

中京大学校友会三重県支部=西田憲治支部長=は11月23日、プラザ洞津で年次総会を開催。会計報告などの議事を承認した。
総会後は、講師に中京大学校友会会長で京都大学名誉教授・中京大学スポーツ科学部客員教授の森谷敏夫さんが「生涯現役のための健康法 ロコモも認知症も怖くない!」を演題に記念講演した。
森谷さんは「男性と女性の平均寿命と認知症などの介護が必要のない健康寿命の差はそれぞれ9年間と12年間ある。医療費の約70%がこの期間に使われる。日本の人口は世界全人口の2%に過ぎないが、日本で使われる薬は世界全体で使う薬の約30%を占め、多剤併用による有害事象が増加している」と指摘。現在の過剰診療・過剰医療に対し疑問を投げかけた。
また、歩くスピードが遅くなるほど寿命が迫ることを学術的データを示して説明。
さらに、速く歩くためには筋肉の材料となるタンパク質を1日3食に分けて十分に摂取すること。認知症の予防には、運動すること、高脂肪食を食べないこと、ストレスを発散すること、多量の糖質をエネルギーとして消費する脳に十分な糖質を供給すること。
さらに、脳にはリンパ節が無いことから、睡眠中にアルツハイマー型認知症の原因になるアミロイドβを消去する。従って睡眠不足は身体を老化させ、免疫機能を低下させるとし、十分な睡眠時間をとることの重要性を説いた。

発達障害のリアルを当事者・専門家らが語る対談連載。発達障害は、生まれつき脳の発達が通常と違うために幼いうちから現れる様々な症状。出生率は数十人に一人と言われる。前回に続き、発達障害者の就労について当事者の母・山根一枝さん、飯田あゆみさんが語る(敬称略)。

 

山根一枝さん 三重県自閉症協会ペアレントメンター津市在住。息子は単身上京し会社勤務。

山根一枝さん
三重県自閉症協会ペアレントメンター津市在住。息子は単身上京し会社勤務。

飯田あゆみ さん 生活介護サービスあゆか(松阪市)代表。息子は高校3年で、就労継続支援A型。

飯田あゆみ さん
生活介護サービスあゆか(松阪市)代表。息子は高校3年で、就労継続支援A型。

飯田 私の息子は、就労支援継続A型事業所の飲食系に就職が決まりました。就活中は一般就労という選択肢もあって本人も私も悩み、私は当初、給料が比較的多い一般就労が良いのではと考えていたんですが、最終的に本人が選択しました。
親は「子供がやりたいことをやる」という目的をついつい忘れ、自分の思いや世間体を気にしてしまいがちですが、「これは良い、これは嫌」という自己主張ができるのは、生きていくうえでとても大切なこと。だから、親が子供の長所も短所も理解し、将来の選択肢を沢山与えてあげないと。
山根 さらに、健常の人でもそうですが、障害のある子も学生のうちに色々なアルバイトを経験することができれば、自分に合う仕事がわかるし、地域社会に馴染みやすくなると思うんです。
飯田 特に飲食店の仕事は身近だから憧れる子も多いし、気配り・会話・段取りが学べる。この3つができるようになれば、とても生きやすくなる。でも障害者雇用は接客業が少ないですよね。
山根 そうですね。私は昔、地域のスーパーに息子を働かせてほしいとお願いしましたが、来店客に何を質問されるかわからないので、お客さんのいない社屋内の仕事には雇用できるけど、店内の仕事は無理と言われました。だけど、スーパーは日常的に来店する人が多いので、そんなに難しい質問はされないと思うのね。しかも、発達障害の特性で商品を日付順に並べるのが大好きな子が沢山いるんです。
飯田 普段、障害者と関わりのない人は、どう接したら良いのかわからないみたいです。関わるのが苦手と感じている方も、実際関わることで「そんなに難しいことでもないやん」と気づいてもらえる場が欲しいです。
(次号に続く)

群衆心理の恐ろしさ

(前回からの続き)
もしも憲兵より早く群衆が到着していたら、米兵は心なき群衆に暴行され、殺されていたかもしれない。戦争とは人々の理性を失わせ、残虐行為を行わせる原因だと痛感する。学徒動員中の貴重な、終生忘れる事の出来ない一日であった。〔石川慶男、引用文献『夕陽の碑』陳川62会、1994年〕〔注・「三菱航空機津工場」はオーミケンシ津工場、津市上浜町にあった。同工場は2004年に閉鎖されている〕〔注・文中の「作業服のような軽装で」とあるがこれは当時のアメリカ陸軍航空隊の夏用飛行服であった、AN─S─31─Aと呼ばれる上下つなぎの薄カーキ色の綿製制服を指す〕
9・河合良成氏の手記から引用する。「落下したアメリカ兵。当時私は三菱航空機製作所〔現在の近江絹糸〕に学徒動員で働いていた。戦争も末期になり、物資の不足も目にみえてわかるような時期になっていたので、原材料の補給も途絶えがちで、仕事をしたくても出来ず、ぶらぶらと過ごす時間も多くなって来ていた。
5月14日、この日は朝からよい天気であった。やがて空襲警報が発令になり、工場のすぐ西にある山林の谷間へ走って避難した。工場から山林までの距離は短く、避難するには格好の場所で、警報がでる度に、この山林に避難するのが常であった。
幸い、この日は津に被害がなく、米軍機は名古屋方面を爆撃している模様であった。この頃になると、飛んでいるのはアメリカの飛行機ばかりで、日本機の姿を見ることが出来ない状況になっていた。いつも、米軍機は遥か低空に日本の高射砲の音を聞くだけで、日本の空を悠々飛んでいるようになっていた。
しかし、この日は空を見上げると、思わぬ事態を目にすることが出来た。B29一機が、火を吹きながら南に向かって飛んでいた。米軍機を撃墜する事は、既に望めない時期になっていただけに、見上げる者は一様に歓声を上げた。しばらくして、そのB29から、パラシュートが一つ開き、ゆっくりと落下してくるのが見えた。「アメリカの兵隊が降りてくるぞ」、誰言うともなく大声が上がると、皆一斉にパラシュートを目指して駆け出した。私もその一人であった。落下地点は、丁度現在の津商業高校付近であったと思われるが、私たちが落下地点に到達するより早く、憲兵が駆け付けていたようで、現在の教育センターの西あたりまで来ると、数名の憲兵に後手に縛り上げられた米兵に出会った。
日本人より、はるかに体も大きく、肉付きもよかった。しかし、殺気立った群衆は、棒や素手で殴りかかった。
「まだまだ、まだ殺すのは早い」
 と、憲兵は群衆を、たしなめながら、何処かへ、連れていった。
もし、憲兵より早く群衆が到着していたら、米兵は殴り殺されていたかも知れない。今思い出すと、異常心理での人々の行動には、常識では考えられない取り返しつかない事をしてしまうものであると、群衆心理の恐ろしさを感ずる次第である〔津市、河合良成。引用文献『津の戦災』〕         (次回に続く)
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