米兵助けるも…    雲 井   保 夫

 

(前回からの続き)
当時、一般的な救命ボートキットはAN─R─2Raftkitと呼ばれるもので、縦約35㎝、横約38㎝、厚さ約10㎝、重さ6㎏で綿製のカバーで包まれている。
シャーマン機は津市上空を通過して、午前8時過ぎ、三重県多気郡明和町沖の伊勢湾に墜落したと考えられる。
その根拠は、シャーマン機の「行方不明になっている搭乗員報告書〔MACR〕No・14431の7ページ目にシャーマン機の墜落現場の地図が添付されており、「宇治山田、現在の伊勢市」の少し北方、つまり「明和町」沖に墜落地点をあらわすXが明記されている。
同日、津市白塚町の漁師、市松氏と仲間の漁師達は知多半島から白塚に向けて航行中に、伊勢湾中央部の海上でチカチカする光が見えたので近づくと黄色のゴムボートに乗った米兵らしき者が救助を求めていた。
手まねで拳銃を持っていないかと尋ねたら、両手を上げそれから救助を求めるように、手を合わせた。漁船に乗り込ませ、白塚海岸に着いてから警察に通報した。
サイドカーで駆けつけた憲兵隊員が連行していった。海岸には群集が詰めかけた。群集は激しい罵声を浴びせた。その後、津警察署、津憲兵隊を経て名古屋市の東海軍司令部に送致された。この時、救助された米兵の氏名は不詳。
津市民の目撃談
「住民がアメリカ兵を竹竿で殴っているのをみました」〔津市、伊藤氏〕
同日、愛知県知多郡南知多町の海岸沖で三重県四日市市富田一色の漁師本多トミジロウと他の漁師5人が愛知県の内海海岸沖の伊勢湾を漂流中のゴムボートに乗った米兵2名を救助し、富田警察署の警官に引き渡した。四日市憲兵隊の憲兵隊員がこの2名を受け取り、東海憲兵隊を経て東海軍司令部に送致した。救助された2名の米兵の氏名は不詳。
同日、愛知県知多郡南知多町師崎町の海岸沖で師崎町の漁師達がゴムボートに乗って漂流中の1名の米兵を救助し、半田警察署の署員に引き渡した。河和憲兵隊がその米兵を受け取り、東海憲兵隊を経て、東海軍司令部に送致した。この時に、救助された米兵の氏名は不詳。
同日、航法士のオアー少尉と航空機関士のミラー2等軍曹は伊勢湾上をゴムボートで漂流中に日本海軍の警備艇に救助された。パラシュート降下2時間後のことである。 二人とも国際法上の俘虜〔捕虜〕として、神奈川県大船町の大船海軍俘虜収容所に送られた。終戦後にアメリカに帰還した。右側機関銃手のラバディー伍長は行方不明のままである。
翌15日、この日は雨。三重県津市河芸町中別保の漁師、古市長蔵〔明治32年生まれ〕、古市重蔵〔長蔵氏の実弟、明治37年生まれ〕、野島為治郎〔明治26年生まれ〕。
ここに古市長蔵氏の証言があります。「私ら3人は雨の中、漁に出ました。河芸町の一色沖、16キロの海上でゴムボートに乗って漂流している2名の米兵を見つけました。2人はそれぞれのゴムボートの上で白いパラシュートに包まり、寒さのため震えていました。私らはアメリカ兵を自分達の漁船に乗り移らせました。自分らの着ていた服を米兵にかけてやりました。弁当を食べさせました。浜に着き、米兵を上陸させました。すると忽ち村人が大勢駆けつけてきました。罵声とともに米兵めがけて石を投げ付けだしました。これは危ないと思い、米兵をもう一度漁船に乗せ沖に出ました。静まるのを待ってもう一度上陸を試みました。やっと上陸すると、警察官、自警団、憲兵や村人達が大勢待ち構え、米兵を見にきました。そして憲兵が村の名士らに米兵を殴らせ始めました。下駄や石、レンガで殴られた米兵の一人は頭を割られて血だらけになりました。
その後トラックに乗せられて、どこかに連れて行かれました」。古市長蔵氏46歳の時の出来事である。  (次回に続く)