米搭乗員の記録

(前回からの続き)    次々に一刀のもとに執行されていった。ところが執行人のうちひとりだけが、受け持った搭乗員を切り損ねてしまった。穴に落ち込んだが、まだ咽喉の部分が残っていたのでウメキ声が出た。誰かが、『早く行って殺してしまえ』と誰かに命じました。誰かが穴の上から銃剣で心臓を一刺しにしたので、声は止まりました」。
新元敏夫元上等兵は1948年1月27日の戦犯裁判イトウ・ケースの公判で、通訳として死罰の執行に同行し、捜査・取調べの段階から始まって「軍律」審判、7月12日の死罰の執行の立会いと結局、最期まで通訳を務めている。その人物の証言である。
シャーマン機以外の4名の搭乗員の詳細は下記のとおり。
 第314爆撃航空団、第19爆撃航空群所属のB29〔機体番号#44─70017〕、機長 ケネス・W・クレウエット中尉。昭和20年5月14日午前9時30分頃、名古屋市西区児玉二丁目の県立二商〔現在の西陵商業高校付近〕に墜落。墜落原因は不明。左記の搭乗員がパラシュート降下に成功し、俘虜となり、東海憲兵隊を経て東海軍司令部に送致された。
エルトン・V・カイム少尉。キース・H・キャリアー少尉。ジョージ・R・グランジィアデル ジュニア伍長。ジョセフ・R・シェルトン伍長。
捕獲搭乗員11名の死罰執行後、34日目の8月15日に日本は、いわゆる「終戦」を迎える。連合国からみれば、日本は降伏したことになっている。「終戦」という言葉を考え出したのは、当時、外務省政務局長をしていた安東義良〔アンドウ ヨシロウ〕という人物だ。
降伏からまだ一週間も経たない8月20日ごろ、第13方面軍の法務部は、11名の遺骸を掘り起こし、改めて火葬にした。かなりの量の木を積み重ね、集めた遺骸をその上に並べた。木には油がまかれ、荼毘にふした。午前8時から午後5時くらいまでかかった。
遺骨は全員のものをそれぞれ一部ずつ集めて、二つの箱に入れ、50円の供養代とともに、2名の法務部の下士官が寺へ納めた。名古屋市昭和区の八事山といわれる真言宗の名刹、興正寺だった。
シャーマン中尉、1922年5月22日生まれ、享年23。コンスタンス・A・シャーマン婦人の夫
ソロモン少尉、1924年生まれ、享年20~21。ゴルディー・E・ソロモン婦人の息子。
ジョンソン伍長、生年月日不明、ヒルダ・W・ジョンソン婦人の夫
プリチャード伍長、1924年生まれ、享年20~21。 ベシー・プリチャド婦人の息子。
ハウエル伍長、1924年生まれ、享年20~21。エルシー・ハウエル婦人の息子
マンソン伍長、1924年生まれ、享年20~21。エルシー・J・マンソン婦人の息子
ジェントリー伍長、1922年生まれ、享年22~23。ルビー・ジェントリ婦人の息子
(次回に続く)
和室につるし雛などが展示されている

和室につるし雛などが展示されている

自動車修理・販売業を営む「前川モータース」=津市美杉町奥津=の従業員・前川美江さん(79)が、同事業所敷地内にある自宅で、自作のつるし雛やお雛様、羽子板などを4月2日㈭まで展示中。時間は毎日10時頃~15時。
前川さんは20年余り前に手芸を始めた。昨年6月、左手首を骨折してしまったが、現在もペットボトルや譲ってもらった古布などを使い作品制作に励んでいて、「展示会場は、近所の年寄りの憩いの場にもなっています」と話す。
問い合わせは☎090・7040・1605。

一日目のゴール地点である伊勢自動車道高架前

一日目のゴール地点である伊勢自動車道高架前

165号から見る伊勢自動車道久居インターチェンジ

165号から見る伊勢自動車道久居インターチェンジ

 時間は16時頃。11月は日も暮れるのも早く、帰りの時間も考えると今日のゴールは、伊勢自動車道の久居インターに決めた。現在、津市久居烏木町なので、目と鼻の先ということだ。
今日のスター 時間は16時頃。11月は日も暮れるのも早く、帰りの時間も考えると今日のゴールは、伊勢自動車道の久居インターに決めた。現在、津市久居烏木町なので、目と鼻の先ということだ。
今日のスタート地点の雲出本郷町交差点から、ゴールである久居インターまで距離にすると、おおよそ6㎞。ここからちょうど1㎞ほどだろう。正直なところ、もう少し進みたかったが、今日は慣らし運転ということで欲張らない方が良いだろう。
以前歩いた国道163号は、山間の集落をずっと進むため、「山の道」というイメージが強かったが、対する国道165号はのっけから街中を進んでいる「街の道」というイメージ。もちろん、この先でそれは変わるがこれまでの区間では少なくともそうである。
このあたりから久居インター周辺にかけて全国展開する飲食チェーンやショッピングセンターなども出店しており、現在の165号も久居地域のメインストリートと呼ぶにふさわしい存在になっている。
烏木町から、久居インターに着くまでは、あっという間。伊勢自動車道の高架の手前を今日のゴールに到着した。この高速道路は、名古屋や大阪につながる東西名阪自動車道や、京都方面につながる新名神と連絡する三重県の大動脈。今も日本に住む人々の心の拠り所である伊勢神宮への参拝者が全国から数多く利用する現代版の参宮街道。
70年代中頃からしばらく伊勢道が久居インターまでしか開通していなかった頃には、国道165号経由で国道23号まで出るのが容易で、利便性の高い久居インターで降りる車が多かったという話を聞いたことがある。私自身はその当時のことを全く知らないが、短い期間とはいえ、全国の人たちがこのインターから乗り降りするために、165号を利用していたと思うと感慨深い。道路の歴史は、人類のブレイクスルーの歴史。ヒトとモノの流れは、道路によって支配されている。この話もそんな歴史の一幕。私は、そんなことを考えながら、曇り空に浮かぶ高架の手前で、きびすを返し、旧国道165号(県道24号)をたどり、帰路へとつく。
一昔前までは、こちらが久居のメインストリートだった。時の流れを遡っているような気分を味わいながら、次回の行程に思いを巡らせる。伊勢道の高架から青山峠のふもとまで行くのは絶対条件。時間があれば、峠を越えてみたい。
気が付けば、一本松があった場所の付近にある友人宅に到着。この企画のことは伝えてあったので、快く私の車の停めてある場所まで送ってくれた。
距離は短いとはいえ、それなりに疲れていたので歩いて今日の行程を遡るのはさすがに辛い。友情に感謝である。(本紙報道部長・麻生純矢) ト地点の雲出本郷町交差点から、ゴールである久居インターまで距離にすると、おおよそ6㎞。ここからちょうど1㎞ほどだろう。正直なところ、もう少し進みたかったが、今日は慣らし運転ということで欲張らない方が良いだろう。
以前歩いた国道163号は、山間の集落をずっと進むため、「山の道」というイメージが強かったが、対する国道165号はのっけから街中を進んでいる「街の道」というイメージ。もちろん、この先でそれは変わるがこれまでの区間では少なくともそうである。
このあたりから久居インター周辺にかけて全国展開する飲食チェーンやショッピングセンターなども出店しており、現在の165号も久居地域のメインストリートと呼ぶにふさわしい存在になっている。
烏木町から、久居インターに着くまでは、あっという間。伊勢自動車道の高架の手前を今日のゴールに到着した。この高速道路は、名古屋や大阪につながる東西名阪自動車道や、京都方面につながる新名神と連絡する三重県の大動脈。今も日本に住む人々の心の拠り所である伊勢神宮への参拝者が全国から数多く利用する現代版の参宮街道。
70年代中頃からしばらく伊勢道が久居インターまでしか開通していなかった頃には、国道165号経由で国道23号まで出るのが容易で、利便性の高い久居インターで降りる車が多かったという話を聞いたことがある。私自身はその当時のことを全く知らないが、短い期間とはいえ、全国の人たちがこのインターから乗り降りするために、165号を利用していたと思うと感慨深い。道路の歴史は、人類のブレイクスルーの歴史。ヒトとモノの流れは、道路によって支配されている。この話もそんな歴史の一幕。私は、そんなことを考えながら、曇り空に浮かぶ高架の手前で、きびすを返し、旧国道165号(県道24号)をたどり、帰路へとつく。
一昔前までは、こちらが久居のメインストリートだった。時の流れを遡っているような気分を味わいながら、次回の行程に思いを巡らせる。伊勢道の高架から青山峠のふもとまで行くのは絶対条件。時間があれば、峠を越えてみたい。
気が付けば、一本松があった場所の付近にある友人宅に到着。この企画のことは伝えてあったので、快く私の車の停めてある場所まで送ってくれた。
距離は短いとはいえ、それなりに疲れていたので歩いて今日の行程を遡るのはさすがに辛い。友情に感謝である。(本紙報道部長・麻生純矢)

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