昭和20年5月14日    戦時中に敵兵救った漁師の功績

(前回からの続き)
これは10月15日の「ドーリットル爆撃」の搭乗員3名を死刑にした後に作られたもので「附則」の「二で施行前の行為にも適用」と書かなければならなかったのである。これは「事後法」といって法律一般にかかわる禁止事項である。
東海軍はこの「軍律」に基づき38名のアメリカ軍B29爆撃機の降下搭乗員を「無差別爆撃をした」とのとがで処刑した。
処刑した降下搭乗員は下記のとおり。
 6月28日11名 瀬戸市赤津山地 斬首
7月12日11名 小幡ヶ原射撃場 斬首
7月12~15日16名 東海軍司令部第2庁舎裏で4回に分けて斬首
計38名を処刑。
このことで、戦後、第13方面軍または東海軍司令官の陸軍中将、岡田資(たすく)その責任を問われ、昭和23年5月B級戦犯として、横浜の連合軍軍事裁判所で絞首刑の判決を受けた。翌24年9月17日に刑場の露と消えた。
「後記」私は中芳光氏に電話インタヴューしたことがあります。その中で「あのB29は伊勢湾に撃墜されたこと、B29の搭乗員7名が処刑されたこと」を告げました。
件のB29が、あの攻撃後墜落したことを初めて知ったことをお話になられた。そして搭乗員が処刑されたことについて「かわいそうなことをしました」静かな口調で語られました。
あの電話インタヴューから相当の月日がたちますが、中氏の声が今尚、鮮明に心の中に残っています。中氏は鬼籍に入られましたが、あの時の、録音テープはいまでも大切に保管してあります。

 「鬼畜米英」と言われたあの戦時中に敵兵であるアメリカ兵を救助した古市長蔵氏や松並氏ら漁師の功績はもっと称えられるべき事柄です。
毎年5月にもなると白塚や河芸の海岸には可憐なハマヒルガオが咲き乱れます。
あの日、アメリカ兵もこの花をきっと目にしたことでありましょう。人はあの漁師達の心意気を忘れてしまったでしょうが、ハマヒルガオは覚えている。   (終わり)
 「参考、引用文献」
『丸』昭和52年7月号、潮書房。
『夕陽の碑』陳川62会、1994年。
『津の戦災』津平和のための戦争展実行委員会、1989年7月。
『伊勢新聞』昭和20年5月15日付け及び同年5月16日付け。
『東海軍管区に墜落した米軍機と捕虜飛行士』福林徹、私家版。
『中小都市空襲』黒住喜重、三省堂選書、1988年7月
『超空の要塞B─29』渡辺洋二、朝日ソノラマ
『戦略爆撃機B─29』ディヴィッド・A・アンダートン、講談社、昭和58年
『三重の空襲時刻表』津の空襲を記録する会。1986年2月。
『ながい旅』大岡昇平 新潮社 昭和57年5月15日
『軍律法廷』北博昭 朝日新聞社、1997年12月25日
『日本空襲の全容』訳者小山仁示、東方出版、1995年4月
『滋賀県の歴史』山川出版、2010年
Missing Air Crew Report, アメリカ国立公文書館蔵
Tactical Mission Report Flown 14 May, 1945.アメリカ国立公文書館蔵
U.S. Military Combat Aircrew Individual Survival Equipment WWII To Present by Micael S. Breuninger.
Headquarters Eighth Army United States Army Office of the Staff Judge
Advocate〔United States of America vs. Tasuku Okada〕Yokohama, Japan
26, January, 1949. 国会図書館蔵
(著者・津市在住)