今年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」で明智光秀が話題になっています。信長の野望を止めた人とか謀反を起こした悪人とかいろいろの説が取り沙汰されていますね。
光秀は愛妻家で側室を持たず、世の中のため、領民の為に先を見据えて本能寺の変を起こしたのでしょう。その後、豊臣政権を経て徳川家康が幕府を開き、戦いのない平和な時代を築きました。
家康は織田信長の命令で最初の正室と嫡男を殺しており、このことは家康にとって一生涯の汚点だったと思います。自分の人質時代を経て家臣には器量、能力のある人物を、また心から信頼できて心安らぐ女性を求めています。家康は正室二人、側室十五人います。中でも西郷の局は第二代将軍・秀忠の生母で、家康が最も愛したお梶(勝)の方は太田道灌の末裔で市姫を生むが夭折。信任された阿茶の局は方広寺鐘銘事件で使者の応接をし、秀忠の娘・和子姫の入内に立ち会うなどで従一位をもらった女性。そして最も信頼されて、家康・秀忠・家光の「葵三代」を支え、更に越後屋、田端屋、伊勢屋等の伊勢商人の江戸進出を助け、尊重されたお奈津の方を挙げることができます。
お奈津の方は、もとは工藤長野氏の家臣(長谷川三郎左衛門藤直)の娘として安濃郡河内落合の里(現・津市芸濃町)に天正九年(1581)の春に生まれ『卯の』と名づけられました。父が亡くなると商人になって津の大門の駅路問屋「乳切屋」乳切屋新四郎叔父の所で育ち教養・気品・優しい心を持つ娘となりました。十六歳の時に叔父の友人で京の豪商茶屋四郎次郎の勧めで二条城の奥女中になりました。そして一年後に家康が入浴中に賊に襲われますが、卯のの機転で命が救われました。家康の命は嘗て卯のの母しげが伊賀越えで逃げてきた時に野武士から匿って命を救い、今度は卯のが救うという稀有な運命を経ています。十七歳で側室となり、家康の母お大の方に大変可愛がられて「お奈津の方」と名づけられました。叔父の乳切屋や四人の兄達も武士に戻り活躍をしています。
彼女は家康の信頼が厚く、戦いにはお供(身辺警護)し、水口城の難でまたまた命を助けており褒美に短刀を貰っています。戦いの本陣では家康の爪を整えておりその切ったツメを一生の宝物(短刀・ツメ)にしています。更に政治、経済、情報、警護、戦略などに携わり「お側六人衆」の一人になっています。江戸城三の丸(現・皇居外苑)に屋敷を与えられ旗本扱いとされました。彼女は叔父の長野内蔵允在秀(乳切屋新四郎改め)や、津藩主藤堂高虎と共に伊勢の地の発展に力を注いでいます。家康の死後は「清雲院」と号して第二代秀忠、第三代家光将軍からも信頼されて、よき相談相手になっています。
お奈津の方は幼き頃から寺院にお参りや遊び場としていたので信心深くありました。日本三観音の一つ津観音に鐘を、高虎は灯篭を寄進して、そして叔父長野内蔵允存秀が亡くなって葬られた西来寺には楼門を寄進し、奥殿を建立しています。伊勢山田の妙見山には東照山清雲院を建てて、かつては同じ側室で本多正純に下げわたされたお梅の方をその後の正純の失脚で不幸になったので住まわせています。お奈津の方は心おおきな女性だなとつくづく思います。
家康三十三回忌追善供養では西来寺に「当麻大曼荼羅」を寄進しています。万治三年(1660)に江戸の屋敷で亡くなりました。
人を慈しみ、郷土を愛し、人のために尽くしたお奈津の方は側室ではただ一人、家康の母が眠る小石川伝通院の徳川家墓地に葬られています。彼女の木像は西来寺と清雲院に安置されて、どちらも優しいお顔です。その眼差しは常に伊勢の国の多幸を願われているように感じました。信頼の大切さ(誠の心)を知らしめてくれた女性だと思いました。
 (全国歴史研究会・三重歴史研究会・ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)