名張藤堂家邸跡(名張市丸之内)

名張藤堂家邸跡(名張市丸之内)

この日のゴールの近鉄名張駅

この日のゴールの近鉄名張駅

国道165号は名張市をちょうど南北に割る形で横断。市街地を走る国道沿いには飲食店なども多く、市のメインストリートしての役割を果たしている。歩道も整備されているので、一気に進み15時半頃には、今日の目的地である近鉄名張駅へと到着。順調そのもの。
ご存じの方も多いと思うが、津と名張の縁は深い。津藩祖・藤堂高虎の養子である高吉を祖とする名張藤堂家が所領としていたからだ。高吉は、織田信長の重臣・丹羽長秀の三男。元々は高虎の主君であった豊臣秀長の養子で、その後継者となるは

ひやわい(名張市本町)

ひやわい(名張市本町)

ずだった。しかし、血縁者への権力集中をねらう豊臣秀吉の命によって立ち消えとなり、行き場を失った高吉は子供のいなかった高虎の養子となった。それからは、実父から受け継いだ将器を養父のもとで磨き、武功を積み重ねたが、後に高虎の実子・高次が誕生。またもや後継者の座を追われることとなった。数奇な運命に翻弄され続けた高吉に与えられた領地がこの名張なのだ。
高吉の実兄・丹羽長重は関ヶ原の戦いで西軍についたため、幕府によって改易されたが、大名へと返り咲き、最終的には10万石を超える厚遇を受けた。一方の高吉は2万石を与えられたものの、あくまで高次の家臣に甘んじなければならなかった。このような経緯もあり、後に名張藤堂家は津藩からの独立を画策するなど本家と間には、常に緊張感が漂っていた。名張藤堂家の当主は藤堂家の通字である「高」ではなく丹羽家の「長」を継いでいることも、確執を示しているように感じる。江戸時代後期に婚姻関係が結ばれたことを契機に本家との関係は改善。その血筋は今も受け継がれている。
名張駅からもそう遠くない場所に遺る名張藤堂家邸跡(1710年の大火後に再建された建物の一部)は歴代当主たちが過ごした場所。名張藤堂家の歴史を今に伝えている。ちなみに名張藤堂家の家紋は桔梗だが、名張市の花も桔梗で、桔梗が丘という団地もある。高吉とその子孫が領民に愛されていた証だろう。
そして、この近くに私の一番好きな名張のスポットがある。それが、住宅と住宅の間に走る狭い路地「ひやわい」である。お伊勢参りの参拝客で賑わった初瀬街道沿いに栄えた古い町並みの風情が色濃く残る。裏通りは区画整理もされていないため、道幅がとにかく狭い。家同士のひさしが触れあいそうなくらい狭い道が縦横無尽に走っている様は、さながら迷路を探索しているよう。ただ足の赴くままに歩くだけで、好奇心がかきたてられる。しかも、ひやわいは地域住民の生活道路として、今も活用されている。人々の息吹を感じられる路地裏の風景は、文化財に指定された歴史的建造物に匹敵する後世に伝えていくべき街の財産だと断言できる。名張市生まれの文豪・江戸川乱歩の生誕地に建てられた顕彰碑もひやわいの奥にある。名張の古い地名は「隠」。この街並みは、まさにそれを体現しているのだ。
奈良県境は目前。次のの行程でいよいよ県外に出られそうだ。既知の先にある未知を探すこの旅はまだまだ続く。(本紙報道部長・麻生純矢)