コロナ禍で私達はこれからの新しい生活スタイルをどうすればいいのか手探り状態です。禍の対比は福です。幸せな明るい生活に戻りたいものです。
私の生家は川沿いにあり、初夏になると部屋の電気を消して川を見ていると、蛍が二、三匹飛び入ります。団扇でそっととらえて蚊帳の中に放して眺めていた小さい頃の事を思い出しました。蚊帳は夏に蚊や小さな虫の侵入を防ぐ布帳で昔の人は蚊に悩まされ病気になったりしていますし、文献にも残されています。蚊はマラリア、デング熱、日本脳炎等の伝染症を伝播するこわい害虫です。
蚊帳の歴史は古く、古代エジプトのクレオパトラが使用した記録があり、日本では平安時代に中国から絹織物技術が伝わり貴族の住まいの夜具に使用され、江戸時代前期の承応三年(1654)に帰化僧の隠元(黄檗宗祖)がもたらした綿種子により綿織物が盛んになり、江戸時代では庶民にまで普及しました。それまでは一般庶民は〝蚊遣火〟で蚊を防いでいました。蓬の葉、榧の木、杉や松等の青葉を火にくべて燻した煙で蚊を追い払う方法で大正時代初期まで続いた生活風習でした。大和時代の万葉集第十一には「…蚊火の下焦れ…」とあり、また鎌倉時代の吉田兼好が徒然草第一九段に「六月の比、あやしき家に夕顔の白く見えて、蚊遣火ふすぶるも、あはれなり」。と書かれています。
江戸時代初期に西川家が考案し柳生で始まった蚊帳は、大和蚊帳、近江蚊帳として全国に広まりました。長押の窪みに鉤をかけた喜多川歌麿の浮世絵や上村松園の「蛍」の画はその時代の人々の生活を映しています。
江戸時代から明治時代にかけて伊勢の津市安濃町付近の地域では「津綟子」「伊勢綟子」と呼ばれる麻織物が生産されていました。綟子とは麻糸をからみ織りという特殊な技法で織られた織物で、原料は苧麻や麻を用いて織られた夏物の肩衣や袴、蚊帳などの上級品は幕府への献上品とし、諸大名には進物品とされていました。
貞享二年(1685)将軍家の鶴姫(津市史には『露姫』)が紀伊中将への結婚祝として蚊帳一釣を贈った記録が残っています。織り方が精巧で織り目が崩れにくく、風通し良く、着心地よし、衛生的で洗濯に強いといわれ「金ラン、ドンスに津綟子」と称されて大いに全国に知られていました。津市安濃郷土資料館に〝幻しの津綟子〟として黒羽織が展示されて記憶の一ページとして残されています。今はレースのカーテン、ハンカチ、網などにこの技法が使われています。
明治時代になると近代化の波におされ、また各地の人々の生活環境の変化(殺虫剤や網戸の採用、また下水の普及や空調設備の普及など)で蚊帳は使用されなくなりました。現代では折りたたみ式のワンタッチの蚊帳や乳幼児用ベビー蚊帳に使用され楽しい生活用具の一つになっています。
明治時代中頃に〝蚊取り線香〟が発明されました。原料はキク科の植物で〝除虫菊〟。これは米国人アモア氏からの伝来によるものです。和歌山県のミカン農家上山英一郎氏が知人のアモア氏に除虫菊の種子をもらって栽培すると害虫駆除の薬効成分が判明しました。上山氏は全国各地で講演や栽培の普及に努め、試行錯誤の末に明治三五年(1902)に渦巻状の蚊取り線香を開発して日本の主要な輸出品となりました。昭和九年(1934)には液体噴霧殺虫剤「キンチョール」が発売されています。
そしてもう一つの老舗のフマキラー㏍からは世界初の電気蚊取り線香〝ベープ〟が発売されて、この二社が共に日本の殺虫駆除を手がけて私たちの生活を守っています。今は〝プシュッと一発!〟と殺虫剤を手で押すだけで蚊がいなくなり大助かりです。
平安時代から現代の蚊への対策は先人がいろいろと考え蚊帳、蚊遣火、殺虫剤などの製品に命を授けられたお陰です。
日本人の国民性気質は精神力が強く、知恵と努力、思いやりの心を持った民族です。やがて研究者の方々と人々の協力でコロナ禍を治めて福をもたらすと確信しています。時代は人を生み、育て、成功に導きます。

(全国歴史研究会、三重歴史研究会、ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)