風光明媚な赤目四十八滝(名張市赤目町)

風光明媚な赤目四十八滝(名張市赤目町)

「鹿高神社」(名張市安部田)

「鹿高神社」(名張市安部田)

9月24日9時半。空を隈なく覆う雲のヴェール。頬をなでる風は涼やかで秋の訪れを実感する。今回の目的地は、奈良県宇陀市の近鉄榛原駅。距離にして約18㎞。近鉄名張駅付近に車を停めた私は、国道165号まで戻り、宇陀川に沿って西へと進んでいく。
しばらく、歩道が続くので心は安らか。少し歩くと、赤目四十八滝への案内が見える。豊かな緑と清流に連なる滝が織りなす景色が風光明媚な場所である。国道からは距離があるので、立ち寄りはしないが、私も好きな場所なので少しご紹介しよう。古くは山岳信仰を基とする修験道の修行場であり、伊賀忍者も修行したという伝説も残る。特に紅葉のシーズンは多くの人でにぎわう。ただ起伏のある川べりの道をそれなりの距離を歩くので、しっかりとした運動靴で訪れることをオススメする。
話を国道に戻し、しばらくすすむと「鹿高神社」があるので道中の安全を祈り参拝する。国道165号は初瀬街道がルーツだが、この神社の創建のいわれに大きくかかわっているのが、この道を通って、この地に来た天智天皇の弟の大海人皇子、後の天武天皇である。大海人皇子は、天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)と皇位継承を争って挙兵。この戦いは壬申の乱と呼ばれ、広く知られている。大海人皇子は、隠棲していた吉野を逃れ、伊賀、伊勢、美濃というルートで都のあった近江方面へと攻め入っていく。その途上、この地で宇陀川の氾濫に見舞われ、立往生をしていたところに二頭の神鹿が現れ、その導きによって無事に渡河できた。大友皇子との戦いに勝利した大海人皇子が感謝を込めて、この神社を創建したといわれている。
鳥居をくぐり、しばらく続く神社の石段を登った先にある拝殿で祈りをささげる。壬申の乱の発端については、諸説入り乱れているので、どのような思いで大海人皇子は、この地を訪れたのだろうと、しばし思いを馳せる。学生の頃、歴史の授業で、壬申の乱のことを学んだ時は、正直なところ、大海人皇子の行動が簒奪に見えてしまい、理不尽さを感じていた。ヒーロー然とした中大兄皇子(天智天皇)が中臣(藤原)鎌足と力を合わせ、専横を極めた蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼした乙巳の変をドラマチックな英雄譚と捉えていたため、その後継者争いの顛末に不条理さを感じたのだろう。
しかし、歴史はそう単純な話ではなく、乙巳の変も、政治の主導権を掌握したい皇族とそれを後押しする豪族の思惑が複雑に交錯する権力闘争の一幕に過ぎない。それを裏付けるように、この時代は、血で血を洗う権力闘争が繰り返され、幾度も権力構造が塗り替えられている。乱の後に即位した天武天皇とその妃の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)は、六人の皇子を集め、異母兄弟で権力闘争をしないよう吉野の盟約を立てたことで有名だが、その願いも空しく皇子の一人である大津皇子には、謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれている。
私たちは、歴史上の人物や出来事ついて、つい白と黒に色分けをして、見てしまいがちだが、それは大きな間違いである。勝てば官軍という言葉がある一方で、判官びいきという言葉もあるからだ。勝者と敗者のどちらに肩入れしすぎても、歴史の実像は見えない。
これは私たちが生きる現代でも同じで、この世に絶対正義も絶対悪も存在しない。白と黒が織りなす灰色の世界で目を凝らし、自らが信じる道を見定め、選択しなければならない。
古代史に燦然と輝く偉大なる統治者・天武天皇の軌跡は、私たちが忘れがちな真理を改めて伝えてくれている。参拝後、再び鳥居をくぐり、国道へ戻ってからも、しばし来し方と行く末に思いを巡らせる。(本紙報道部長・麻生純矢)