本堂へと続く長谷寺の登廊

本堂へと続く長谷寺の登廊

長谷寺の拝観時間には滑り込みセーフ。拝観料を支払った後に深呼吸。乱れた息を整えて、国の重要文化財にも指定されれている仁王門をくぐる。ここは真言宗豊山派の総本山で、門にかかっている長谷寺の額字は、戦国時代がお好きな方にはおなじみの後陽成天皇の筆によるもの。門から延びる屋根付きの階段である登廊も重要文化財。本堂へと続く長い階段を一歩登る度に悠久の時を遡っていくような感覚を覚える。普段であれば観光客の姿も絶えないこの寺も時節柄と拝観時間終了間際ということもあり人影はない。特に登廊に沿って牡丹の花が咲き乱れる時期には、多くの人で賑わうだけに、これだけ静かな長谷寺は、とても贅沢に感じる。これも仏のお導きなのかもしれない。
399段もある長い長い階段を登りきると、眼前にはそびえ立つ大伽藍。国宝の本堂である。清水寺と同じく切り立った崖に建てられており、舞台からは周囲の山々を望む美しい風景と寺の全貌が一望できる。これだけでも、ここまで急いできた甲斐があるというもの。人生は不思議と帳尻が合うように出来ているのだと、先ほどとは打って変わり、不信心極まりない考えが頭をよ

そびえたつ長谷寺の本堂

そびえたつ長谷寺の本堂

ぎる。
堂宇の中に入ると、私のような生来の横着者であっても、厳かな空気に触れると無意識のうちに背筋を伸ばし、姿勢を正してしまう。拝所から高さ12mを超える日本最大級の観音像である本尊・十一面観世音菩薩立像に向かって手を合わせる。いつも神仏の前に立つ時は、感謝をささげるのみ。人の命はとても儚い。今この瞬間、ここに生きているだけで、とてもありがたい。齢40を超えてつくづく思うが、今自分が幸せかどうかは客観的指標ではなく、己の認知のみで決まる。何不自由ない恵まれた環境で過ごしていても自分が不幸だと思えば不幸。逆に恵まれない境遇にあっても自分が幸せと思えば幸せなのだ。つまり、自分の手の中にあるはずの幸せに気付けるかどうかが大切ということ。寺社仏閣で心を落ち着けて祈るだけの健康状態があれば、それ以上、何を望むことがあろうか。
参拝を終えた私は心洗われる気持ちで長谷寺を後にする。ただ私には、まだ重要な使命が残されている。それは我が家の平和を守るために必要な供物、つまり妻への土産を用意することである。うっかり忘れて帰宅しようものならば、立場が危うい。
門前にちょうど良い塩梅の土産物屋を見つけたので中に入ると、おあつらえ向きとばかりにショーケースの中にプリンが並んでいる。接客してくれた見目麗しい御婦人に全種類を箱に詰めてくれるようにお願いする。どこから来たのかと尋ねられたので、近鉄榛原駅から歩いてきた旨をつげると、彼女は驚きの表情を浮かべる。冷静に考えると、そんなことをわざわざするのは、相当の物好きだけで

あろう。
夕暮れが迫り、門前町に並ぶ土産物屋はどこも店じまいを始めている。無事に目的地にたどり着いた達成感と、妻の機嫌を損ねずに済んだ安堵感で私の心は満たされている。プリンの入ったずっしり重い袋を手にした私は、のんびりと家路についた。(本紙報道部長・麻生純矢)