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令和四年(2022)は寅年です。十干(じっかん)十二支の壬寅の年で厳冬を耐え、春に動き出そうとし、花咲くにはじっと実力を養い、自分を磨き、好奇心を持って積極的に行えば大きな成長と成功に繋がるという年です。
420年前の壬寅は慶長七年(1602)。江戸時代成立の前で関ケ原戦や大坂の陣があり、豊臣政権から徳川新時代に移る頃です。方広寺大仏殿火災や鐘銘事件、そして本願寺の分裂がありました。徳川家康はじっと力を蓄えている時です。世の中を戦いのない平和な時代に進めようとしていました。十干(五行を兄と弟に分けたもので甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)。十二支(方位・時刻・年月日を表すのに使った動物の名で子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)にある寅年は大きく成長し動き出す意味を持っています。徳川家康は天文十一年(1542)十二月二十六日寅年生まれです。
変化の時代を読む力と勇気と運を味方にして才知と権威を取り込んでいきます。江戸幕府を開いた家康は古代中国から伝わった思想の一つである地理風水を活用し天台僧南光坊天海に命じて江戸の都市整備を行い世界一のステキな都市の基が作られました。
十二支は植物の一生を分かり易くする為に動物に置き換えています。寅=虎で方角は東北東。時間は午前三時から五時(寅の刻)。虎は決断力と知恵のシンボルです。邪悪を避けるといわれています。津藩祖藤堂高虎は弘治二年(一五五六)生まれです。先見力、活動力、負けず嫌いそして視野が広い高虎は良き主君を求めて七回も変えた末に辿り着いた主君が徳川家康です。家康と共に平和な時代を作ったのです。
築城の名人の高虎は江戸城の縄張りや京都二条城の改修などを行い、家康に最も信頼された人物です。
さて、虎はネコ科のヒョウ属の動物です。大昔は日本にも生息していましたが、二万年ほど前の気候変動の寒冷化で絶滅しています。化石がいろんな所で発見されています。でも本物はなかなか見られませんでした。
最古の記録は六世紀の『日本書紀』に欽明六年(545)に食膳職の膳臣巴提便が百済で虎を退治して虎の皮を持ち帰ったとあります。七~八世紀の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に西の方角の守り神として白虎が描かれています。『万葉集』には虎の勇猛さが述べられています。孝徳天皇の時に藤原鎌足の息子定恵(不比等の兄)は僧として唐に渡り、中国の占星術(地理風水)を持ち帰っています。平安時代の寛平二年(890)には宇多天皇に新羅から生きた虎の子二匹が献上され、それを巨勢金岡が写生しました。室町時代には掛け軸、屏風、襖絵に描かれて、絵師は猫をモデルにしたり朝鮮の虎の絵を参考にして努力しています。
何でも努力が大事ですね!加藤清正の虎退治の話は有名です。江戸時代に徳川家康はオランダ人に虎の子二匹をもらっています。大工の左甚五郎は寅年生まれの家康を尊び、彼を祀った日光東照宮に虎の彫り物を奉納しています。
一般庶民が本物の虎を見たのは江戸末期文久元年(1861)十月十六日で舶来の動物としてやって来た時です。絵師の円山応挙や伊藤若冲は虎図を描いており、今は美術館で保管されて私達の目を楽しませてくれます。明治時代になると上野動物園や各地の動物園で飼育されるようになりました。
そして、昭和期の太平洋戦争の始まりの暗号「トラ、トラ、トラ」は日本軍が真珠湾攻撃の奇襲開始を伝えた電信の外交暗号です。
「トラ=突入せよ。ワレ奇襲に成功セリ」。とあります。終戦後の日本は大きく変化し、国民の努力、才知で発展し成長しました。すばらしい道徳観、心意気、知恵をもつ国民です。因みに虎の言葉に関連して大事なものは「虎の子」、解説書は「虎の巻」と呼ばれています。玩具の虎の張り子は人々の気持を和ませ、勇気をくれます。
これからも寅・虎は幸せへと導き、憧れであってくれる事を願っています。
(全国歴史研究会、三重歴史研究会・ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)
2022年3月24日 AM 9:32
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