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2022年3月
いよいよ奈良県と大阪府の県境を越え、柏原市へ入る。ここも大阪市のベッドタウンで25㎢の市域の多くを山間部が占めており、7万人弱の人々が暮らしている。市に入ってすぐの国道沿いにある近鉄大阪教育大前駅に無事辿り着き、この日はゴールを迎えた。時刻は16時過ぎ。下校時間ということもあり、駅のホームは大学生でいっぱい。到着した電車に乗り込んだ私は、今まで知らなかった柏原市について、スマートフォンでリサーチ。すると有名な戦いの舞台となった場所であることがわかる。
それは、1615年に徳川家康と豊臣秀頼が雌雄を決した大坂夏の陣における激戦の一つ・道明寺の戦い。豊臣方の後藤基次(又兵衛)が寡兵にも関わらず、徳川方を相手に激闘を繰り広げ、壮絶な最期を迎えた場所である。市内各地には古戦場の後を示す碑が建てられており、その主戦場となった付近にある玉手山公園にも基次の奮戦を称える碑と戦没者の供養塔がある。
基次は関ヶ原の戦いで戦功を挙げた黒田長政に仕えていたが、反りが合わず出奔。後に大阪城入りし、日本一の兵と今も語り継がれる真田信繁(幸村)や家康をあと一歩まで追い詰めた毛利勝永らと共に主力として戦った豪勇無双の士である。相対する徳川方の先鋒を率いていたのは水野勝成。明智光秀の官位だったことから避けられていた日向守を自ら欲するほどの豪胆さと、類稀なる武勇から鬼日向と呼ばれた猛将。勝成は家康の従兄弟で、いわばサラブレットだが、短気が災いしたおかげで父に勘当され、若い頃は槍一本を携え、様々な主に仕えた。短い期間だが長政にも仕えていた時期があり、二人は共に戦場に出たこともある間柄。年齢も基次が4歳上と近い。そんな二人が戦国最後の大戦で相まみえるのは運命のいたずらと呼ぶ他ない。
後日、国道から少し北にある玉手山公園を訪れ、慰霊碑の前で基次と勝成がどのような気持ちで戦ったのか、歴史の一幕に思いを巡らせる。「敵の大将は六左衛門(勝成の通称)か。齢五十を超えた今も自らが一番槍とは、いかにもあやつらしいわい」、「流石は又兵衛殿。劣勢にあっても一糸乱れぬ見事な用兵よ。しかし、いつぞやの殿争いと同じく勝つのは儂じゃ」。これはあくまで私の妄想に過ぎないが、現代に生きる私たちには及びもつかない感覚で二人の胸中は満たされていたに違いない。
ちなみにこの戦いから密かに落ち延びた又兵衛が植えたといわれる「又兵衛桜」が、ここから国道165号を津市向きに戻った先の宇陀市にある。ここまで国道を歩いてきたおかげで、この古戦場と桜の位置関係を当時の人たちの感覚でとらえることができる。「もしかしたら…」という伝承が生まれるにはちょうど良い距離感なのだ。
国道に話を戻そう。この旅の最終到達点である大阪市の新道交差点まで凡そ25㎞ほど。次回の行程がおそらく最後になる。どのような旅となるか非常に楽しみだ。(本紙報道部長・麻生純矢)
2022年3月24日 AM 10:09
令和四年(2022)は寅年です。十干(じっかん)十二支の壬寅の年で厳冬を耐え、春に動き出そうとし、花咲くにはじっと実力を養い、自分を磨き、好奇心を持って積極的に行えば大きな成長と成功に繋がるという年です。
420年前の壬寅は慶長七年(1602)。江戸時代成立の前で関ケ原戦や大坂の陣があり、豊臣政権から徳川新時代に移る頃です。方広寺大仏殿火災や鐘銘事件、そして本願寺の分裂がありました。徳川家康はじっと力を蓄えている時です。世の中を戦いのない平和な時代に進めようとしていました。十干(五行を兄と弟に分けたもので甲乙丙丁戊己庚辛壬癸)。十二支(方位・時刻・年月日を表すのに使った動物の名で子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥)にある寅年は大きく成長し動き出す意味を持っています。徳川家康は天文十一年(1542)十二月二十六日寅年生まれです。
変化の時代を読む力と勇気と運を味方にして才知と権威を取り込んでいきます。江戸幕府を開いた家康は古代中国から伝わった思想の一つである地理風水を活用し天台僧南光坊天海に命じて江戸の都市整備を行い世界一のステキな都市の基が作られました。
十二支は植物の一生を分かり易くする為に動物に置き換えています。寅=虎で方角は東北東。時間は午前三時から五時(寅の刻)。虎は決断力と知恵のシンボルです。邪悪を避けるといわれています。津藩祖藤堂高虎は弘治二年(一五五六)生まれです。先見力、活動力、負けず嫌いそして視野が広い高虎は良き主君を求めて七回も変えた末に辿り着いた主君が徳川家康です。家康と共に平和な時代を作ったのです。
築城の名人の高虎は江戸城の縄張りや京都二条城の改修などを行い、家康に最も信頼された人物です。
さて、虎はネコ科のヒョウ属の動物です。大昔は日本にも生息していましたが、二万年ほど前の気候変動の寒冷化で絶滅しています。化石がいろんな所で発見されています。でも本物はなかなか見られませんでした。
最古の記録は六世紀の『日本書紀』に欽明六年(545)に食膳職の膳臣巴提便が百済で虎を退治して虎の皮を持ち帰ったとあります。七~八世紀の高松塚古墳やキトラ古墳の壁画に西の方角の守り神として白虎が描かれています。『万葉集』には虎の勇猛さが述べられています。孝徳天皇の時に藤原鎌足の息子定恵(不比等の兄)は僧として唐に渡り、中国の占星術(地理風水)を持ち帰っています。平安時代の寛平二年(890)には宇多天皇に新羅から生きた虎の子二匹が献上され、それを巨勢金岡が写生しました。室町時代には掛け軸、屏風、襖絵に描かれて、絵師は猫をモデルにしたり朝鮮の虎の絵を参考にして努力しています。
何でも努力が大事ですね!加藤清正の虎退治の話は有名です。江戸時代に徳川家康はオランダ人に虎の子二匹をもらっています。大工の左甚五郎は寅年生まれの家康を尊び、彼を祀った日光東照宮に虎の彫り物を奉納しています。
一般庶民が本物の虎を見たのは江戸末期文久元年(1861)十月十六日で舶来の動物としてやって来た時です。絵師の円山応挙や伊藤若冲は虎図を描いており、今は美術館で保管されて私達の目を楽しませてくれます。明治時代になると上野動物園や各地の動物園で飼育されるようになりました。
そして、昭和期の太平洋戦争の始まりの暗号「トラ、トラ、トラ」は日本軍が真珠湾攻撃の奇襲開始を伝えた電信の外交暗号です。
「トラ=突入せよ。ワレ奇襲に成功セリ」。とあります。終戦後の日本は大きく変化し、国民の努力、才知で発展し成長しました。すばらしい道徳観、心意気、知恵をもつ国民です。因みに虎の言葉に関連して大事なものは「虎の子」、解説書は「虎の巻」と呼ばれています。玩具の虎の張り子は人々の気持を和ませ、勇気をくれます。
これからも寅・虎は幸せへと導き、憧れであってくれる事を願っています。
(全国歴史研究会、三重歴史研究会・ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)
2022年3月24日 AM 9:32
知らない河芸を旅してみませんか!
4月14日㈭、道の駅津かわげと観光ボランティアガイド・「河芸『江』の会」のコラボ企画の第8回「春爛漫 河芸名所めぐり」が開かれる。参加者募集中。雨天決行、荒天中止。
名所を同会が案内するもので、毎回好評を博している人気企画。今回は新型コロナウイルス感染拡大防止のため徒歩移動となる(約3㎞)。参加者はマスク着用。申し込み多数の場合は2班に分かれてて別行程になる。
▼集合=道の駅津かわげイベント広場(受付8時半から)
▼コース=1班…同道の駅(9時出発)~彌尼布理神社~北黒田公民館(世だめし粥占い・紙芝居)~黒田城跡~浄光寺~同道の駅で昼食
2班…同道の駅(9時出発)~北黒田公民館(世だめし粥占い・紙芝居)~黒田城跡~浄光寺~彌尼布理神社~~同道の駅で昼食
▼参加費=1000円(昼食代、保険代込み。野菜詰め放題付き)当日支払う。
▼定員先着20名(最少実施人数10名)
▼申し込みは同道の駅レジ又は電話で。締切りは4月7日だが定員になり次第締切。
問い合わせ・申し込みは同道の駅☎059・244・2755。
2022年3月24日 AM 9:30