柏原市役所(大阪市柏原市)

柏原市役所(大阪市柏原市)

「中甚兵衛銅像」

「中甚兵衛銅像」

雨に濡れながら大和川沿いの国道を北上。時刻は8時20分頃、国道の歩道には川沿いにある柏原市役所に向かって出勤する職員の姿。足早に急ぐ人、同僚を見つけて挨拶する人…。人の群れとすれ違いながら、あれこれと想像は膨らむ。見知らぬ人たちの日常は私の非日常。それが楽しい。
しばらく進むと国道に沿って細長く整備された公園と、ある人物の銅像が建てられている。その男の名は中甚兵衛。全国的には余り知られていないが、江戸時代に大和川の付け替え運動に尽力した人物である。今でこそ一筋の大河となっている大和川だが、本来は何本もの支流に分かれ、複雑な流れを成す川だった。その支流は土砂が堆積し周囲の土地よりも高い天井川であったため、事あるごとに氾濫し、流域に大きな被害を及ぼしていた。そこで古くは奈良時代より川を付け替える構想があり、治水工事も行われてきた。
ここからがいよいよ甚兵衛のお話。彼は江戸時代中期の1700年頃の河内国河内郡今米村(現東大阪市)の庄屋。私は調べるまで全く知らなかったが、大阪では小学校の授業で彼のことを学ぶらしく、それなりに知られた人物だそうだ。世間に流布しているイメージは大和川付け替え運動のリーダーで、私財を投げ売って工事を成し遂げたというものや、はたまたその熱意が農民たちを盛り上げて、やがて幕府を動かし悲願を達成した英雄といったものらしい。 しかし、これらは彼の実像とは大きくかけ離れている。庄屋である彼が私財を投げ売ったところで大和川の付け替えという大工事が実現するわけもなく工事を行ったのは幕府である。そして、彼の熱意が幕府を動かしたわけでもない。実は付け替え運動は工事が始まる17年前には終息しており、大和川の水の流れを良くする運動にシフトしている。しかし、その運動も年々、下火になり、最終的には参加していた村の数は7分の1にまで減少している。その中で最後まであきらめずに運動を続けていたのが甚兵衛なのだ。つまり、幕府はあくまで治水の意義を感じ、付け替え工事に踏み切ったというのが史実。ただ、その決定に至るまでに地道な活動をつづけた甚兵衛の思いが影響していた可能性も否めない。その証拠に甚兵衛は川の付け替え工事にも関わっている。実像を辿ると英雄的な偉業を成した人物ではなく、地道な活動を続けた〝地に足の着いた〟人物なのである。それが語り継がれるうちに尾ひれがつき、分かりやすい英雄として喧伝されている。そんな話しは世間に溢れている。
その代表格が織田信長だろう。将軍や天皇など旧来の権威に縛られない斬新な手法で周囲の大名を次々と打倒していく型破りな革命児といったイメージを抱く人も多いはず。しかし、研究が進んだ現在導き出されている人物像からは、生真面目で旧来の権威や諸大名との関係を尊重するどちらかといえば保守的な印象を受ける。いわば正反対である。世間に一度広がったイメージは中々、払拭されない。実像とかけ離れた姿で英雄として語り継がれていることに彼らは何を思うのか。はたまた自分の死後、どのように語り継がれていくのだろうなどと考えるとなかなかに面白い。(本紙報道部長・麻生純矢)