四天王寺の南門

四天王寺の南門

大都会の真ん中にそびえ立つ伽藍…。聖徳太子が建立したといわれる四天王寺は、1500年以上の歴史を持ち、蘇我氏が建立した飛鳥寺と並ぶ本格的な日本最古の仏教寺院。現在は和宗の総本山。所在する天王寺区の名前も当然この寺に由来する。津市の四天王寺は、この寺と時を同じく聖徳太子が各地に建立した4つの四天王寺の一つという言い伝えを持つ。
国道から最も近い南門から境内へ入ると一直線上に中門、五重塔、金堂、講堂が南北一直線に並び、それを回廊が囲んでいる「四天王寺式伽藍配置」が非常に印象的。6~7世紀の朝鮮半島

国道沿いにある「真田幸村戦没地」の碑

国道沿いにある「真田幸村戦没地」の碑

や中国の建築様式を模したものと言われている。
昭和20年のアメリカ軍による無差別爆撃により、境内にあった建造物のほぼ全てが灰になってしまったが、後に多くの人々の協力を得て復興し、今に至る。この寺の歴史を振り返ると、戦国時代の戦火や落雷などで何度も焼失しているが、そのたびに人々の協力を得て蘇っている。古より受け継がれる建造物の歴史的な価値は計り知れないのは当然だが、何度焼け落ちても蘇り続けるこの寺の歴史には勝るとも劣らない価値がある。
四天王寺を後にして、西へと進むと歩道沿いに「真田幸村戦没地」と刻まれた小さな碑が立っている。この「安居天満宮」は大坂の陣で活躍した真田信繁が戦死した場所。「幸村では?」と疑問が浮かんだ方も多いと思うが、実は幸村という名前は、彼の死後に広まった軍記物や講談を通じて広く知られるようになった名前。この中では信繁で統一することとする。
時代の勝者たる徳川家康を相手に戦い抜く様は薩摩藩祖・島津忠恒(家久)をして「日本一の兵」と称えられた(本人は信繁の戦いぶりを見ていないが)。歴史のターニングポイントで徒花を咲かせた信繁は、判官びいきの語源となった源義経、悲運の名将・楠木正成と並び、日本人に愛されてきた。ただそういった経緯から、実像とはかけ離れた完全無欠の人物像が独り歩きしているように思う。
見事な最期は史実通りだが、関ヶ原の戦いの後、いわゆる西軍として戦った責任を問われ、紀州の九度山に流された時の話から彼の実像が少しだが伺える。東軍として戦い、必死の思いで父・昌幸と信繁の助命嘆願した兄・信之や家臣に生活費や酒を無心する手紙を送っている。兄や家臣は必至に工面し、献身的に信繁たちを支え続けたが、そんな周りの苦労もどこ吹く風といった呑気さを感じてしまう。この頃には容貌も歯が抜け、髭も白くなっていたそうで、現代人が抱く美男子のイメージとは大きな隔たりがある。その後、信繁は大坂城へ入るが、豊臣家への忠義だけではなく、捲土重来をねらう意図も多分にあっただろう。物語のような綺麗事で語り尽くせるほど、現実は単純明解ではない。
神社は緑に覆われており、境内には信繁の像や碑も建てられている。以前、信繁と共に戦った後藤基次(又兵衛)が最期を迎えた場所を紹介したが、一本の国道を遡るだけで、歴史のスターゆかりの地と出会えるのは非常に面白い。(本紙報道部長・麻生純矢)