2022年7月28日号1面掲載の津城復元応援ライブの日程に誤りがありました。

正しくは9月13日開催です。

お詫びして訂正申し上げます。

大阪北部地震で児童が倒壊したブロック塀の下敷きになって死亡した凄惨な事故から4年が経過。津市でも事故を契機に「ブロック塀等撤去改修事業補助金」で、条件を満たすブロック塀の撤去を年間60~70件ペースで補助している。しかし、市内には老朽化したブロック塀もまだまだ見受けられ、空き家問題とも密接な関係にあることから今後も増加が予想される。対策には市民の当事者意識も求められる。

ブロック塀_表_OL ブロック塀は、宅地開発が盛んだった高度経済成長期頃に、数多く建てられた。しかし、当時から地震などによる倒壊の危険性は認識されており、昭和56年に建築基準法が改正され、設置基準が強化されたという歴史がある。しかし、塀の多くは建築から長い期間が経過しており、老朽化も目立つようになった。
そんな背景の中で近年、全国各地で大地震が発生する毎に、ブロック塀の倒壊が発生。瓦礫で死傷者が発生する危険性があるだけでなく、道路が塞がれて避難がしづらくなったり、緊急車両が通行できなくなる恐れがあることなど、防災上のリスクが認知されつつあった。そんな中、2018年6月に発生した大阪北部地震で小学校のブロック塀の倒壊に巻き込まれた児童の死亡事故を契機に、全国で見直しが進んでいる。
その流れの中、津市も「ブロック塀等撤去改修事業補助金」をつくり、市内の道路に面した高さ1m以上かつブロック2段積み以上のブロック塀などを撤去する工事と、撤去後にフェンス等を設置する工事費の補助を行っている。補助額は塀の撤去及びフェンスの設置にかかる費用と、撤去及び設置する塀及びフェンスの長さ×1万円のどちらか少ない額の2分の1。撤去と設置それぞれ上限10万円の補助が受けられる。今年3月31日現在で211件約2289万円の補助が行われており、内訳は令和元年度73件、令和2年度71件、令和3年度61件。また、市の建築指導課が行っているパトロールで、倒壊の危険性がある塀を発見し、持ち主に改善を呼びかけることもある。
一方、補助金の利用は外構のリフォームに合わせて利用されるケースが中心。災害に対する備えにまとまった出費をするのは二の足を踏むケースも多く、大地震などで倒壊する可能性のあるブロック塀はまだ残っているという現実もある。しかし、倒壊して通行人を死傷させてしまった場合は所有者の責任が問われることもあるため、適正な管理は不可欠。国交省は管理に必要なチェック項目(別表)を発表しているので確認が必要だ。
また、ブロック塀の問題は深刻化している空き家問題とも密接にリンクしているため、今後も増加する可能性は高い。塀も個人の資産である以上、行政の対策だけでは限界があるので、所有者一人ひとりが当事者意識を持って管理を続けていく姿勢も求められる。
補助金の問い合わせは建築指導課☎059・229・3187へ。

 

物部守屋の墓(大阪府八尾市東太子)

物部守屋の墓(大阪府八尾市東太子)

大聖勝軍寺の門前にある古戦場の碑(大阪府八尾市太子堂)

大聖勝軍寺の門前にある古戦場の碑(大阪府八尾市太子堂)

国道165号の八尾市内を順調に進む。人口の多いエリアなので歩道が途切れる心配もなく、安心して歩き続けることができるのが嬉しい。しばらく進むと国道沿いに高さ1・5m程の石柱に囲まれたただならぬ雰囲気の場所が現れる。近づくと石柱には神社の名前が刻まれており、その中には著名な神社も含まれている。土地の奥には一つの小さな墓石が建っている。そう、ここは日本古代史に燦然と輝くとある人物の墓である。その名は物部守屋。
物部氏は元々、鉄器や兵器を扱っており、やがて軍事を司る有力氏族に成長。ヤマト王権の要職・大連を占めており、守屋も権勢を振るった人物である。
守屋がなぜ有名かというと、日本の歴史上、最も人気のある人物と敵対し、破れたからである。その人物とは、皆さんご存じの聖徳太子(厩戸皇子)。没後1400年を迎えた現在、彼がどのような功績を残したか知らない人にすらも親しまれる日本史のトップスターである。その対岸に居た守屋は自ずと敵役というポジションで認知されがちな人物なのだ。
もちろん、実際は勧善懲悪の物語ではない。守屋は、当時大陸より伝わってきた仏教を広めることに強く反対しており、ライバルの大臣・蘇我馬子と対立。二人は用明天皇の後継者問題で争うこととなり、それが587年に発生した丁未の乱へと発展した。
この八尾で両軍は激突し、用明天皇の第二皇子である聖徳太子も当時13歳だったが馬子陣営で参戦。そして、激戦の末に、守屋は敗死した。
その結果、仏教が広く信仰されることとなり、仏教を保護した聖徳太子自身も後の世で信仰を集めることとなる。今に至る絶大な人気はこの戦いの勝利によるところが大きいともいえるだろう。この戦勝を祝して建てられたのが近くにある大聖勝軍寺。以前紹介した「上の太子」こと叡福寺(太子町)や、「中の太子」こと野中寺(羽曳野市)と共に「下の太子」と呼ばれ、信仰を集めている。
戦争は互いが主張する正義のぶつかりで、歴史は勝利した側によって綴られていく。私たちが知る歴史は勝ち組の主張ともいえるだろう。丁未の乱の本質も、守屋と馬子の権力闘争に他ならない。敗北した守屋は逆賊の汚名を背負い聖徳太子に破れる〝悪役〟として語り継がれた。しかし、諸行無常とはよく言ったものである。馬子の息子・入鹿は乙巳の変で天智天皇に暗殺される。更に天智天皇の死後、その肉親によって繰り広げられた壬申の乱…と日本の古代史は正義の名のもとに血の華が咲き乱れた。
守屋の墓石に話を戻そう。逆賊として語り継がれてきた彼が、これほど多くの神社の支持を集めているのは、明治時代に進められた神仏分離と、廃仏毀釈の影響が大きい。それまでは、神道と仏教が融合した神仏習合による信仰が浸透していたが、明治政府によって神道と仏教の分離政策が行われ、やがて寺院の打ちこわしなど過激な廃仏毀釈運動にまで発展した。そういった時代の流れの中で廃仏派の守屋は、神道の守り手と解釈されることになったのであろう。ただし近年、物部氏の遺構からは仏教関係の出土品が発見されていることからも、丁未の乱が仏教の是非を巡る単純な争いではなかったとする説も浮上している。
正義という概念は人の数だけ存在するだけでなく、時の権力者にとって都合よく改竄される酷く虚ろな指標である。死後も虚飾の正義に翻弄され続けてきた守屋当人は「もう好きにやってくれ」と皮肉たっぷりに語りそうな気がする。
一通り思いを巡らせた後、守屋の墓に向かって軽く頭を下げた私は再び国道を歩き出す。(本紙報道部長・麻生純矢)

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