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1月24日13時。私は津市の志登茂川にかかる江戸橋のたもとに居た。いよいよ伊勢別街道で関宿まで行き、東海道を遡る100㎞の旅が始まる。遅めの出発となったのは天気予報のせい。次の日には最強寒波が日本列島を襲い、津市でも積雪が予想されていたため、歩く予定を繰り上げるハメになってしまったというわけだ。今日の行程は、ここから関宿まで伊勢別街道約18㎞。日没は17時過ぎなので、無事にたどり着けるか不安はあるが覚悟は決まっている。経験に裏打ちされた自信というよりは、横着者っぷりが遺憾なく発揮されているに過ぎない。
江戸橋は、江戸時代に参勤交代で江戸へと向かう藩主を見送ったことから、その名がつけられた。ここから伊勢街道と四日市の日永で東海道へと接続する伊勢街道と、関宿で東海道と接続する伊勢別街道に分岐するという形になっている。江戸橋は令和元年に生まれ変わり、立派なコンクリート橋が架かっているが、私にとっての江戸橋といえば先代。今や記録と記憶の中にしか残っていないけれど、昭和32年(1957)から57年間、多くの人たちが行き来してきた。特に三重大学の最寄り駅である近鉄江戸橋駅があるので、多くの若者たちの青春の1ページを彩ってきたに違いない。今とは比べ物にならないくらい頼りなかったが、改修後に付けられた木製の欄干が独特の風情を醸し出しており、好きな津のスポットだった。
鈴鹿市で生まれた私は高校生の頃、初めてこの辺りを訪れた。当時、家庭教師をしてくれていた三重大生の先生の下宿にお邪魔したり、駅前にあったゲームセンターで友達と遊んだ思い出が鮮明に蘇る。どんなゲームを遊んだのかまではっきりと覚えている。私の43年間の人生において、ほんの一瞬に過ぎないが、まばゆい光を放つ大切な思い出。ただし、ノスタルジーを感じるわけでもない。橋を眺める私の胸中にあるのは、あれから30年近い時が流れた今日この瞬間、ここに自分が立っていることの感謝のみ。人間ははかない。年寄りから亡くなる〝順番〟なんてものは、あくまで統計データに基づく希望的観測に過ぎず、〝順番抜かし〟はしばしば起こる。親友を失った時に、それを理解した。
メメント・モリという言葉をご存じだろうか。ラテン語で「いつか自分が死ぬことを忘れるな」という意味だが、本来は「死は誰にでも等しく訪れるが、いつかは誰にも分らないから、今を楽しもう」という明るい意味だったらしい。それを知って以来、死という概念に対する考え方が180度変わった。少なくとも自分の中では、必要以上に恐れるべき存在ではなくなった。終りがあるからこそ、命は貴く、美しい。いつか訪れるその日まで、与えられた生命を全うしようと思う。
命がいつかは失われるように、形あるものもいつかは失われる。先代の橋はもうないし、目の前のこの橋だっていつかは役目を終え、新たな橋がつくられる。でも、心の中であれば、先代の橋の姿を思い浮かべることができる。万物が流転する世界において、酷く脆弱に思える人の心(記憶)こそが、堅牢な建造物以上に確かなものになることもある。だから、この旅の始まりの光景を心に焼き付け、精一杯楽しもうと改めて誓う。
ひとしきり、物思いにふけった後、橋の近くにある常夜灯の前に移動。この立派な常夜灯は、江戸時代後期の安永6年(1777)の建立。伊勢神宮を目指す人々で賑わった時代から、長らく街道を行きかう人々を見守り続けてきた。軽く目を閉じ、今日の旅の無事を祈ると、街道を歩き始めた。(本紙報道部長・麻生純矢)
2023年2月23日 AM 4:55