岩田川下流に掛かる国道23号の岩田橋から西へ向かって300m程の道路沿い(百五銀行本店営業部から三重刑務所間)には10本ほどの柳の木がまばらに植えられている。かつては、見事な柳並木道を形成していたが、寿命を迎えたり台風で折れたりと徐々に数を減らしている。しかし、元々は市民や近隣企業などが一丸となった環境美化活動の産物だった。薄れつつあるまちの記憶にスポットライトを当てていく。

 柳のことを語るには、昭和の終りへと遡る必要がある。当時は下水道が未整備で、岩田川には家庭からの汚れた生活排水が流れ込み、川底にはヘドロが堆積、更に岩田橋付近には、自転車や家電製品などが投げ込まれ、干潮になるとその姿を晒すことから市民からは「自転車の墓場」と呼ばれていた。この惨状に胸を痛めたのが、小さな頃より川を遊び場にしてきた大谷明さん。現在では、伊勢国の特産品である木綿と畳表を組み合わせたヒット商品「足やすめ 安濃津ばき」の開発と販売で知られる大谷さんは、平成元年より単身で自転車の回収を始めた。その活動が地元紙などで報道されたことによって市民、団体、企業、津市なども清掃活動に参加。市民ぐるみの岩田川浄化運動に発展していた。
 翌年には津青年会議所(津JC)の人間開発委員会が岩田川清掃活動に参加すると同時に、ふるさとの川に親しむことを目的に「岩田川筏下り大会」と、観音橋から川に笹飾りを流す「つ七夕笹流し」を始めた。岩田川の浄化活動に継続的に取り組んでいくためにJCの活動から独立し、同委員会の委員長だった加藤広文さんを会長に「岩田川を筏で下る会」を設立。平成6年に「岩田川物語の会」へと改称した。
 その活動の一環として植えられたのが件の柳で、平成10年と11年に植えられたもの。原資は、阿漕浦の友の会との協働で募った市民・企業などから一口5千円の浄財と、三重県環境保全事業団からの助成金10万円を加えたもの。現在の百五銀行本店営業部と三重刑務所間の道路沿いに4m間隔で7年生の柳67本を植えた。夏場の給水、剪定作業、間引きなどは同会が行い、下草刈りなどは天理教津大教会の青年部も協力した。10年間ほど同会が剪定などを行っていたが、地元自治会からの申し出で管理を引き継いでいる。
 10年ほど前までは、河畔を彩る美しい柳並木を形成していたが、2017年の台風で3本が倒れて道路をふさぐなど、近年減り続け、現在は10本までに減っている。
 その理由と考えられているのは、柳の寿命。カミキリムシなどの害虫や病気によって、実質的な寿命は30年ほどと短命で、並木を維持させるためには木を長持ちさせるよりも、定期的な植樹が効果的。また、柳が植えられている場所は堤防と道路までの幅が2~3mほどしかなく根が十分に張れなかったのも倒れた原因と見られる。残った10本のうち2本は既に立ち枯れしており、堤防を管理する県によって伐採される予定。
 いずれ残りの柳も寿命を迎えて姿を消していくことになるため、加藤さんは「とても寂しい」と素直な気持ちを打ち明ける。
 しかし、今やまばらになった柳並木は市民の想いが形になり、岩田川の水質や周辺環境が改善した歴史の証でもある。それは昭和、平成、令和、そしてこれから…。どれだけ時を経ても、変わらないまちづくりの本質を示す道標であり、未来へと受け継がれるべきまちの記憶といえる。