未来に残す戦争の記憶(後半)

 戦争研究家・雲井保夫さん執筆の本稿で当時を追体験する「津大空襲」。後半となる今回は貴重な証言と共に、当時の新聞報道、空襲を受けて壊滅し地図から消滅した「津市玉置町」の記録などを辿りながら、空爆の実態を出来る限り詳しく解説する。(写真は太田金典氏が撮影)

 

空襲で焼け野原になった津市内 終戦直後(1945年頃)パノラマ写真の一部

②B29の爆撃と戦闘機による機銃掃射の体験の証言を次に述べる。

 ▼伊東としさん、大正9年生まれ。
 
 「当時、丸之内南町に住んでいました。昭和20年7月24日の朝から、空襲警報の知らせが流れるやいなや、サイレンが鳴り、まもなくB29の響きが腹のしんまでとどろきわたる様な、不気味な音をたて、津上空を旋回し始め(注1)、主人と子どもと私の3人で家の床下に掘った防空壕の中で身をひそめていました。
 周りが薄暗くなり、蒸気機関車が目の前を通りすぎる様な音とともに、瞬間、爆弾の破裂。家はものすごい音をたてて壊れ、防空壕の入り口にガラス棚が倒れ込み、出口をふさいでしまいました。しかし、B29の爆弾の音は止みません。随分たった思いがしました。
 そのうちにB29の音も遠ざかり、表の方で附属小学校(注2)から火が出たから早く逃げろとの声が聞こえてきたので、無我夢中で、かき分けて外へ出て見ると、隣近所もみな壊れ、附属小学校の運動場(現在の法務局)の南西角に1トン爆弾(注3)の大きな穴ができていました。
 その穴からは道路を挟んで、南側の家は、柱1本も残らず吹き飛ばされてしまい、そのお宅の方はとうとう見つけ出すことができませんでした。 私の組内も5人ほど生き埋めになられ、掘り出された時には、白蝋のような顔でした。
 養正国民学校の運動場(現在のNTT丸之内ビル、津市丸の内28─38)に、次々と遺体が並べられていました。
 私は子供を連れ、殿村にある親戚へ行くために、新町通りを西へ向かいました。踏み切りの東にさなだ内科があり、そこでは、土の上にそのまま傷ついた人が血を流して寝かされ、足の踏み場もありませんでした。
 西へと、子供2人で足を運んでいくほどに、今の自動車学校の手前で低空飛行してきた小型機の機銃掃射に狙われ、家の陰に身をひそめ、通り過ぎるのを待ちました」〔参考文献『私たちの戦時・戦後』津歴史散歩会・1995年7月〕
 〔注1…B29の爆撃の仕方は爆撃目標地で全弾投下の一斉爆撃をする。爆撃後は直ちに離脱飛行する。この日は爆撃後右旋回し伊勢湾から太平洋に抜けている〕
 〔注2…「附属小学校」は昭和18年当時、丸ノ内殿町、現在は津市西丸之内23番地の津市役所、津リージョンプラザのある場所に国立三重師範学校男子部国民学校として存在した〕
 〔注3…この日の爆撃には250㎏と2トン爆弾の2種類の爆弾のみ投下されている。1トン爆弾は投下されていない〕
 ▼石井昭さん

 「私は昭和20年当時13歳で新道(しんみち、現在の養正小学校の校舎の北側近く)に住んでいました。7月24日は、あまり顔を見せない友達が遊びに来ていました。そこへB29の爆音がしてきました。すると突然、雷が落ちたような『バリバリ』という轟音がしてきました。私の家には、幅約1m、長さ・深さともに約1・5mで、上に畳2枚を置くようにしてあった防空壕がありましたが、そこへは入らず『早く、早く』とせかして、母と友達と一緒に、隣の家の地下式でなく、地面の上に盛り土をした防空壕に飛び込みました。
 入るが早いか『ドンドン』という音がした瞬間、辺り一面真っ暗闇になりました。爆弾でまわりの家々が破壊され、舞い上がった土ほこりや粉塵が、閉め忘れた防空壕の入り口から流れ込んだのです。
 真っ暗闇になったので、生き埋めになったかと思いました。防空壕の中にいるのが恐ろしくなって外へ飛び出し、塔世西裏へと逃れ、御山荘橋を渡ろうとしましたが、爆弾の直撃を2発受けていて渡れませんでした。
 橋のたもとの所で、爆弾の破片で右腕を付け根から吹き飛ばされた男の人が倒れていました。鮮血が噴出しており『私の頭の手拭で腕を縛って血を止めてくれ』と頼まれましたが、どうすることもできませんでした。
 そうしている間にも、また爆弾が次々と落ちてきました。私と母は電柱の下に身を伏せました。そこから、古河、中新町の方へと逃れましたが、そこにも爆弾が落ちてきました。近くに友達の家の防空壕があったので、入れてもらおうとしましたが、避難して来た人で一杯で入れず、仕方なく、近くの鶏小屋へもぐり込みました。
 このあと河辺まで逃れましたが、ここでグラマン戦闘機が私らに機銃掃射して来ましたので、田んぼのあぜ道にベタッと伏せました。長谷山より低く飛行していました。 それから、西阿漕、柳山へと向かいました。釜屋町と塔世西裏の接点の広場が避難所になっていましたので、そこへ行きました。そこにはたくさんの死体が並べてありました。腸が体外に飛び出し体の回りにまとわりついている死体、目が飛び出した人、爆弾の破片で頭をえぐれた人など。粉塵で体中が真っ白くなった人達が行方不明の家族を捜し求めて死体を一体一体見て回っていました。また家族の遺体のそばで泣き崩れる人などで広場は地獄絵のようになっていました。
 この日の空襲でわが家に遊びに来ていた友達の家族は全員死亡しました。また仲の良かった友達2人も亡くなりました。我が家は瓦礫の山と化しました。
 あの時、我が家の防空壕の中に避難していたら、間違いなく命が無かったと思います〔1995年4月16日、著者聞き書き、石井氏のご自宅にて。その時の録音テープは著者が保管〕。

 ▼大橋喜生氏の手記

 「7月24日は朝から、じっとしていても脂汗の滲み出るような暑い日であった。昼過ぎ突如として空襲警報が発令された。その日に限って誰言うとなく津公園吉田山方面へ待避すべくわれ先にと突っ走った。
 御山荘橋にさしかかった、その時、すでに十数機の機銃掃射を受け、同行した私等はとっさに塔世河畔の人家に逃げ込んだ。それからというもの、ひっきりなしに爆弾が投下される。落下音と、その爆裂音の凄まじさは、その場に居合わした者でなければ想像して頂けまい。
 その恐ろしさに五尺の体〔注・身長約150㎝〕の置き所なく逃げ場を失うとはあのことだろう。しかし追いつめられる身は一ヶ所にじっとしていられるものではない。或る時は水漬、田圃に、腹這い、ある時は吉田山からの排水土管内に潜るなど何十回居所を変え逃げ惑ったか知れない。爆裂音と爆風でよく気を失わなかったことである。
 そのうち一瞬、真暗闇になった。もうこれまでと思った。それは逃げ込んだ家が至近弾でぶっ飛び倒壊したためで、気がついた時は塔世川(安濃川)の砂地であった。
 それは恐らく寸隙をぬって無我夢中で這い出たのであろう。その付近には即死体があっちこっちにころがり、瀕死の重傷者はこの世ならぬ呻き声で文字通り生き地獄であった。
 その日の私の服装は冬の国民服に巻きゲートル、真夏だと言うのに全く冬支度であった。それが爆風で気がついた時は背中は素肌が丸出し、もちろん防空頭巾や眼鏡、そして財布などの持ち物は全て体から吹き飛んでいた。そんな裸同様の姿で爆風をまともに受けるのだから、たまったものではない。逃げるのに懸命で、その時は気がつかなかったが、天保銭大の深傷を太股に、頭と背中に20数ヶ所の火傷、そして爆風による胸痛、それはちょうど乾性肋膜炎の症状で全治するのに数ヶ月を要した。
 いや全くひどい目に遭ったものである。蜂の巣のように落ちた爆弾の中でよくまあ直撃を喰わなかったことだ。逃げ走った場所が3m違っていたら、命は無かったと思う。
 同行した5人中、3人即死、しかもその中の2人の死体は多分直撃弾のため土中深く埋没、その日中には見つからなかった。
 今その当時を思うと、よくまあ、あれくらいのケガですんだことで、五体満足なのが全く奇蹟のように思う。よく世間には雷を極端に怖がる人がいる。他人はその臆病さを笑ったりする。恐らくその人は逃げ場のない広野などで俄かに雷に出遭いこの世ならぬ恐怖感に襲われた経験の持ち主であろう。
 私はあの爆弾の日以来、雷を怖がる人の気持ちがよく理解出来るようになった。
 〔参考文献『津の戦災 記録と回想』津平和のための戦争展実行委員会・1989年7月〕

地図から消滅した町「津市玉置町」 町内40軒64名が犠牲に 「北堀端」も同様に復興されず

 ▼澤村〔旧制、廣瀬〕節子さんの証言、手記『無くなった町〔津市玉置町〕』から抜粋。
 
 ヒュルルルルーザザザザザー。何の音だろうと思ったとき、どこからか飛び出してきた母が私達四人姉妹を突き飛ばすように庭先の防空壕に押し込んだ途端、目の前が真っ暗になり何の音も聞こえぬ静寂がおとずれました。
 どのくらいの時間が経ったのか判りません。当時4歳だった一番下の妹の泣き声に、ふと気がつくと、身動き出来ぬまで壕の土が私達の体を押し付けていました。
 1945年7月24日、朝から日差しの暑い日でした。私は4人姉妹の長女で13歳。県立津高等女学校の1年生。母36歳。父は2度目の中国戦線から帰還し県庁の職員として勤務中で、遠からぬ玉置町に住んで居た私達を案じ、駆け付けてくれましたが、辺りはただ瓦礫の山で、見当も付かず、隣家に杉の大木があったのを見当てに、ここぞと思うところを掘ると、左半身を吹き飛ばされた母が居り、まだ息があって、右肺から搾り出すように声を出したそうです。
 私たちはと言えば、身動きもままならず真っ暗な中に、急に頭の上にぽっかりと穴が開いて光が射し、父の声が降ってきたのに声も出せず、ただ呆然とするのみでした。 父は、血塗れで内臓のはみ出た母を背に、瓦礫と、死体の山を踏み越え、救護所に向かいましたが、母は父の背中、当然ながら事切れておりました。

 ▼大西生子さんの証言=20年7月24日。
 
 その日は玉置町におりました。現在の養正小学校の建っているところです。母親は松阪市東黒部の実家に疎開しましたが、私は仕事があるし、父も自治会の班長で家を空けられん。
 空襲は朝の10時ごろ。空襲警報が出ていて家には私一人でした。三重師範学校に「ダーン」と第1発目がおちましたん。あーこわ、と思とるうちにダダダダッとすごかったですわ。うちも台所へ落ちた。8畳ぐらいの穴が開きましてなあ。こけた(倒れた)家から表へ出たら今度は門の下敷きになったんです。
 どうにか逃げ出せたが、また爆風で飛ばされた。九死に一生を得たということは、こういうことですやろなあ。小さい子なんかは影も形もないくらいに飛ばされたといいますしね。前の家の人は、背負っていたリュックが防空壕の入る口に詰まって、そこへパカーンと爆弾が落ちて家族全員即死でした。
 私は裸足、着の身着のままで、頭から血を流し、足に爆弾の破片が刺さって、全身内出血でしたんや。救護所へいっても手足がもげたなどの人が多く、そんなの怪我のうちに入らんと言われ、相手にしてくれませんでした。
 
 当時の玉置町の配置と住人と安否(敬称略)

 玉置町の番地の配置は向かって西、左側から東に下る。玉置町は東西真ん中に道路があった。左側に隣接して北堀端町があった。生垣が両町の境界を分けていた。右側には「新道」と呼ばれる町があった。

 1879番地 朝川順三、内科医 無事
 1882番地 三重県医師会、同医師会の使用人 氏名年齢不明、同町1881番地内の空き地で爆風に吹き飛ばされた遺体で発見。 
 1883番地 長井治、本人徴用中で留守。長井美代(女・31歳)、長井潤吉(男・8歳)、長井正子(女・7歳)、長井恭典(男・1歳)、家族4名爆死。
 1885番地 居住者も生死も詳細不明
 1886番地 信藤準蔵 町内会長(男・70歳)、信藤準蔵の妻(63)、夫婦共に爆死。
 1889番地 鷲尾寿郎 医専附属病院 小児科部長(50歳)、 本人は医専で爆死。鷲尾学(男・15歳)。同居家政婦爆死。西山みえ子(女16歳)、鷲尾小児科の看護婦、爆死。
 鷲尾医師宅の西隣りに住んでいた身寄りの無い老人兄妹が防空壕内で生き埋めとなり死亡。詳細は不明。
 1890番地 廣瀬隆三、三重県庁の職員。 本人は職場にいて無事。その妻36歳が爆死。子供(4人姉妹)を防空壕に押し込んだ途端、至近に落ちた爆弾が炸裂する。本人及び子供たち4名は無事。
 1893番地 居住者名も生死も詳細は不明。
 1894番地 村田えん、華道教師(女・年齢不詳)。その子、その子、その子 家族4名爆死、詳細不明。
 玉置ぢう(女・年齢不明)、玉置喜代(女・年齢不明)家族2名爆死。
 1897番地 山田寛、弁護士、家族5名、自宅敷地内の防空壕に待避、全員無事。自宅は爆撃で全壊。
 1898番地 前田公証人、本人無事。前田友郎(男47歳)、 前田公証人の親戚の人、安東町の人、玉置町に手伝いに来ていて爆死。
 ▼1899番地 居住者名も生死も詳細不明。

 玉置町、西側から向かって右側から東に下る。

 1880番地 村瀬 隆、無事。
 1881番地 空き地〔勧業銀行所有地〕
 1884番地 日本基督教団津教会及び附設美良幼稚園、野村はつえ(女42歳)、野村弘(男・2歳)、母子共に同教会の防空壕で爆死。
 教会の小使いさん(男・氏名年齢不明)、幼稚園の先生(女・氏名年齢不明)、矢頭まさ(女・70歳)、同防空壕内で爆死。
 1887番地 居住者名も生死も詳細不明。
 1888番地 居住者名も生死も詳細不明。 
 1891番地 丹羽 信一、無事。
 1892番地 大西春之助、町内会班長、養正国民学校第十一代校長。岡本春之助氏と妻は前日に郷里の親戚へ荷物を疎開しに運送屋さんに行って留守のため無事。自宅に直撃弾をうける。自宅は全壊。娘さんの多賀さんは勤務先の新町国民学校に行っていて無事。自宅にいた娘さんの生子さんは奇跡的に九死に一生を得る。
 1895番地 今井通医師。今井妻(45歳)。今井新男(23歳)、今井晴子(18歳)。今井家の門長屋に居住の東京からの疎開者、村木正幹男(54歳)、村木美代子(28歳)、村木玉枝(8歳)、糸井しだれ(タカラ・ジェンヌ、親戚の叔父の村木正幹を頼り大阪から疎開、本名・宮田光子(28歳)。全員爆死。
 1896番地 岡本米店、岡本利生の妻、岡本いく(37歳)、岡本富美子(12歳)、岡本利生の母(年齢不詳)、岡本文子、岡本利生の妹(年齢不詳)、岡本利生を除く一家4名爆死。
 1991番地 米本清判事、無事。
 1990番地 沢井、無事

 約40軒あった玉置町内で68名が死亡。この日の爆撃で「玉置町」と左側に隣接する町「北堀端」は戦後も再興されず地図上から町名は消滅した。現在の「玉置町公園」がそのよすがとなっている。
 この日の爆撃で犠牲者は1千200名、負傷者は2千名以上と言われているが、正確な数はわからないまま。
 この日の空襲は、一連の津空襲で最大の犠牲者をだした。4日後の7月28日、津市は新型焼夷弾M74の実験場となり、11万922発のこの新型焼夷弾により津市の市街地は灰燼に帰した。

「防空壕を整備せよ」  新聞報道は危機感をあらわに

 ▼B29爆撃機による爆撃時間は次のとおり。

 ◆第313爆撃航空団=午前10時27分~10時54分、27分間の爆撃。
 ◆第314爆撃航空団=午前10時38分~10時54分、19分間の爆撃。
 両航空団合わせて1千276名のB29の搭乗員が津市上空を通過していったことになる。

▼新聞による報道

 『伊勢新聞』昭和20年7月26日付。「小型機で注意奪ひ 突如B29が爆弾 津の戦訓」
 
 公園や堤防待避は危険

 「24日の津市の爆撃は市民が小型機に気をとられていた中に突如として見舞われただけに犠牲者の数も亦決して少なくはなかった。四日市や桑名市の爆撃時の戦訓のみでなく幾度となく油断は禁物だと指摘されていたにも拘らず再びこの悔いが繰り返されたことは返す返す残念だ。以下は当日の罹災現場で拾った戦訓の一端であるが、次期爆撃に備える貴重な資料として熟読体得すべきである」。

 防空壕を整備せよ

 「思わぬ犠牲者を出した原因の一つとして防空壕の不完全が取り上げられる。津市民の防空観念は余りにも甘すぎたかの感がある。これならば大丈夫と保証されるものは全市に僅か三、四十ヶ所といった有様で中には屋内の押入れなどを利用したものもあり、家屋の倒壊や防空壕の崩没で圧死の多かったことは防空壕に対する再検討の要を痛切に教えている」。
 
 周章狼狽は大の禁物

 「次にあげられていることは周章狼狽による犠牲者を出すことだ。片付けに当たった医専の生徒や警防団員が口を揃えて指摘した点は爆弾の破片創によるものや爆風による内出血死亡者が防空壕の入り口や路傍の凹地に多く見受けられたということであった。折角、防空壕で待避していたにもかかわらず、ここは危ないといったような素人考えから前後の判断もなく壕を飛び出し犠牲をだしたものである」。

 警報下に火の用心

 「この日の爆撃は爆弾ばかりであったにも拘らず遂に四ヶ所から火災が発生した、昼間、夜間の別は問わず警報発令と同時に必ず火の始末をしたのち待避すべきで、ここにも周章狼狽のあとが現れる。待避先の明断を期せ公園や浜辺、河川の堤防がただ人家から離れているということだけで安全地帯だと早合点しているものが依然多い、都築津地区憲兵隊長が喝破したように高度よりする被爆圏は相当大きなものである以上、それらへの待避は必ずしも安全でない、小型機だからといっては家のなかへ入り大型機だからといっては公園や海へ待避することはあまりにも防空常識を逸したやり方である、果たして二十四日の爆撃でもこの公園が狙われ若干の犠牲者が出ている」。

 殉職者四隊員に初の義勇隊

 「三重県一志郡雲出村国民義勇隊員大田甚吉〔四八〕辻源吉〔四九〕勝谷弘雄〔五二〕同郡香良洲町近藤義雄〔四七〕の四氏は二四日津市に出動。 疎開資材を運搬中敵B29の大型爆弾のため殉職。懸義勇隊本部では近く全国初の義勇隊葬を執行する」。

 三重医専の二博士殉職

 「三重医専附属病院小児科部長・鷲尾寿郎博士、同婦人科部長・田北慎吉博士は二四日の津空襲で直撃弾を受け殉職した」。

あとがき

 先の戦争は「風化した」とよく言われています。風化は時間の経過と共に自然に風化するものでなく、風化させないための努力を普段からしないから風化すると私は考えています。私は風化させないために、何があったのかということを、詳らかにし、後世に語り継ぐための資料をきちんとした記録文で残すことが必要と考え、史料を渉猟し、粉骨砕身の努力を日々重ね、まとめあげたのがこれです。出来事は歳月の経過とともに矮小化されます。体験者は世を去ります。語り継ぐ人が誰もいなくなります。体験したこと、起こったことが伝わりません。これが風化につながります。
 消滅した町、玉置町住人の方々の安否について実名を公表すべきか、相当考え抜き、悩みました。その結果、実名を記録に留めることが、真の慰霊につながるという思いに至りました。他意はございません。慰霊のためです。犠牲となられた方々はきっと「こんなことは、私達で最後にしてほしい。二度とくりかえさないで」と叫んでいるに違いありません。
 玉置町公園には、何度も出かけ、しばしそこに佇みました。そうすると犠牲となられた方々の声無き声が「そうしてくれ」と、そこを吹く風の音の中から聞こえてくるのです。「そうしてくれと」。

「ほたる草 君は何処に 風の音」拙句
令和5年5月、津市阿漕浦の苫屋にて

【参考文献】
 『米軍資料 日本空襲の全容 マリアナ基地B29部隊』訳者 小山 仁示、1995年4月25日、東方出版。
 『津の戦災 記録と回想』津平和のための戦争展実行委員会、1989年7月。
 『津市戦災爆死者名簿 増補第四版』津平和のための戦争展実行委員会。 2015年7月27日
 『私たちの戦時・戦後』津歴史散歩会発行 1995年7月。
 NHKスペシャル『本土空襲・全記録』2017年8月12日放映。
 『五十年目の戦想』朝日新聞津支局編 平成8年3月十日発行。
 三重県遺族会所蔵の『戦争体験の証言』の録音テープ。
 『21世紀への伝言』三重県戦後50年体験文集発行委員会 平成8年7月。
『名古屋大空襲』毎日新聞社編 昭和四十六年九月十日発行。