歴史や変遷などを学び  市民からの意見を集約

三重県指定史跡の津城跡

 10月14日13時~16時、津市大門の津市センターパレスホールで、津城跡のこれからを考えるシンポジウム「津城をたどる」が開かれる。津市のシンボルである津城は近年復元運動が活発で、中心市街地活性化の核としての役割も期待される一方、都市公園として市民の憩いの場として愛されるなど多面的な役割を果たしている。シンポジウムは市民とともに今後の整備の在り方を考えていく場となりそうだ。

 三重県指定史跡の津城跡。津藩祖で築城の名手・藤堂高虎の居城として名高い津城は、公益財団法人日本城郭協会の続日本100名城に選ばれて以降、全国から城好きを中心に観光客が訪れるようになっている。その一方で、現在は本丸と西之丸の石垣と内堀の一部を残すのみとなっているため、在りし日の姿を知らない市民も多い。
 津城の歴史を大まかに紹介すると…この一帯を治めていた長野氏の一族である細野氏が永禄年間(1558年~70年)に築いた城郭がルーツと言われており、伊勢侵攻で伊勢上野城に居城を構えた織田信長の弟・信包がより大規模な安濃津城として改修し、天正8年(1580年)に完成。次に富田信高の居城となるが、慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いの前哨戦の舞台となる。慶長13年(1608)に入府した高虎による大改修を経て、完成に至っている。最大100m幅の堀が囲む城は難攻不落の要塞でありながら、平和な時代を見据えて政庁としても使い易い革新的なつくりであることが特徴。明治時代に廃城となり、建物は棄却され、堀も戦後復興で埋め立てられたが、昭和33年(1958)に市民の寄付などによって、三層の模擬櫓が建てられた。その後、お城公園として整備され、現在は史跡であると同時に市民の憩いの場の都市公園として親しまれている。
 今回のシンポジウム開催のきっかけの一つは、津城復元への気運の高まり。復元は歴史的資料に基づいたものでなければならない大前提があるが、平成18年に当時広島大学の大学院生だった松島悠さんが三重県庁の資料から古図面『御城内御建物作事覚四」を発見。その他、丑寅櫓と戌亥櫓の二つを結ぶ多門櫓の古写真なども見つかっているなど、復元の条件は整っている。そこで市民有志による「津城復元の会」=西田久光会長=は地道な募金活動や復元資金造成のコンサート、ゴルフコンペなどを行い集まった浄財を、津市のふるさと納税制度・津かがやき寄附の使途項目「津城跡の整備」に納め続けている。近年ふるさと納税制度の好調を受け、年間1000万円近い浄財があり、7月末時点で延べ2万9699人から6605万円の復元資金が集まっている。
 これを受け津市では、津城跡に関わる部(公園を管理する建設部、文化財を管理する教育委員会、中心市街地に関わる商工観光部、文化のスポーツ文化部、解体工事が進められることとなる旧社会福祉センターなど津市の施設を管理する財産部、財源の政策財務部)が集まり、多角的な視点から意見を交わす会議を行っている。津市の広報誌でも6月より、「津城かわら版」で情報発信を行っている。
 シンポジウムはこういった経緯を踏まえつつ、より多くの市民の意見を掘り起こし、様々な顔を持つ津城跡の整備のあるべき方向性を考えることを目的に開かれる。
 基調報告は津市文化財保護審議会委員の吉村利男氏による「津城の歴史と変遷」で津城の移り変わりを学ぶ。続く専門学芸員の県内城跡の詳細報告では、津市教育委員会生涯学習課の中村光司氏が津城、松阪市産業文化部文化課の寺嶋昭洋氏が松坂城、玉城町教育委員会生涯教育係の田中孝佳吉氏が田丸城をそれぞれ語る。そして、皇學館大学非常勤講師の竹田憲治氏をコーディネーターに迎え、登壇者が集まって「津城跡の整備と活用」をテーマにトークセッション。その後、参加者の発言を求めたり、意見の聴取やアンケートを実施する。
 申込締切9月29日㈮必着。はがき(宛先〒514─0035 津市西丸之内37─8)、またはファクス(FAX059・229・3257、Eメール (229-3248@city.tsu.lg.jp)で「津城シンポジウム」と明記し、〒、住所、氏名、電話番号を記し、津市教育委員会事務局生涯学習課へ。定員270名(応募多数の場合抽選)
 問い合わせ同生涯学習課☎059・229・3251。