時刻は15時半を過ぎ、日没まであと二時間しかない。朝から酷使している足は鉛のように重く、ゴールと定めた近江鉄道の水口石橋駅までの距離もかなりある。必ず着けるという確証はないが、必ず着けるという確信はある。それはこれまで徒歩旅を続けてきた自信に裏打ちされた感覚というよりも「なんとかなるさ」という生来の楽天思考に由来する。要するに私はどこまで行っても『お気楽』なのである。
 宿場町として賑わった往時の風情が漂う土山宿を西へと進むとやがて、国道1号との交差地点。国道をまたぎ、旧東海道を北へと進んでいくと「松尾川の渡し」があった場所付近に辿り着く。渡しとは、主要河川の橋の掛かっていない場所で、渡し賃を支払って人力や船で渡らなければならなかった。東海道で最も有名な渡しは宮(現在の名古屋市熱田区)と桑名を結んだ七里の渡しだが、こちらは川ではなく海路を結ぶ例外的な存在である。この地にも鈴鹿山脈の御在所岳を源流とする野洲川が流れており、一帯の流域は松尾川と呼ばれていた。今では主要河川には便利な場所に橋がかけられているが、江戸時代には橋が架けられる場所が幕府に規制されており、同時に渡河していい場所も決められていた。松尾川の渡しでも、旅人たちは渡し賃を支払い、人足に肩車をしてもらったり、輩台を担いでもらって川を渡った。渡し賃は水量によって変化していた。こうすることで関所と同じくヒトとモノの流れを制限することが、長きにわたる太平の世が守られていた要因の一つにもなっていたと思うが、近場でも自由に行き来できなかったということは現代人の私からすると、いささか窮屈に感じる。
 かつて松尾川の渡しがあった場所は行き止まりとなっており、付近にその旨を記した案内板が立っている。後日改めて現地を訪れ、清流を眺めながら人足に肩車されて対岸へと渡っていく人々など往時に思いを馳せた。
 現在は渡しがあった場所の少し南の国道1号に自動車が通れる立派な白川橋、更に南に並行して歌声橋という歩行者と自転車専用の小さな橋が架かっている。徒歩旅の趣旨的には、歌声橋を渡るべきなのだが、とにかくゴールにたどり着くことに夢中で完全に見逃しており、存在には後で気付いたため、こちらも後日に改めて渡った。
 白川橋にも歩道があり、徒歩で渡るには全く問題ないため、なぜもう一本近くに橋があるのかと考えたが、朝に歌声橋を訪れて疑問は氷解した。自転車に乗った中学生たちが通学に利用していたからだ。主に彼らの安全に配慮して架けられた橋なのだろう。自由に橋が架けられず、渡河に制限があった昔と、目的に合わせた二本の橋が架けられて自由に行き来できる現代を比べると、たった160年でとてつもない変化を遂げている。気ままな徒歩旅ができる時代に生まれたことに感謝しかない。(本紙報道部長・麻生純矢)