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水口城跡からは旧東海道を西へと進んでいく。今や主要道路としての役割は北を並走する国道1号に譲っており、ロードサイドの店舗も充実している。きっとこの辺りを訪れたことがある人も、そちらのイメージが強いことだろう。一方、街道沿いの風景は「ひなびた」という言葉がぴったり。古い建物はそれほど多くないし、今やこちらの道でも車が主役ではあるものの、多くの旅人が行き来をする中で磨かれてきた地域のアイデンティは静かに息づいている。往時の風景は、ところどころに遺された案内看板や一里塚の跡といった痕跡から想像するしかないが、裏を返せば、想像せずにはいられない。人の少ない平日の午前中に、のんびりと徒歩旅を堪能しているのは役得という他ない。
4㎞ほど進むと野洲川に突き当り、そこには横田の渡し跡がある。鈴鹿山脈の御在所岳を水源とする野洲川は琵琶湖に流れ込む川の中で最大の流域面積(387㎢)を誇っており、明治時代あたりまでは横田川と呼ばれていた。江戸幕府が整備をした東海道には、舟に乗ったり、人夫に背負われて渡河が必要な十三の渡しがあった。横田川の渡河地点で、川幅は300m以上で往時に旅人たちは船賃を支払って渡っていた。明治24年(1891年)に橋が架けられることで渡しは無くなったが、たった130年ほど前と考えると、「つい最近」である。渡しの跡から豊かな水をたたえる野洲川や対岸を眺め、往時の旅人たちの姿を思い浮かべる。この渡しには文政5年(1822)に建てられた高さ8・1mの巨大な常夜灯がある。水運と関わりの深い金毘羅権現の名と共に、多くの寄進者の名前が刻まれている。東海道でも一際大きかったそうで、ドイツ人の医師で植物学者のシーボルトも、江戸への旅路で目にしたこの常夜灯の偉容を記録に残している。彼もきっと今の私と同じで、次から次へと押し寄せる未知との遭遇が楽しくて仕方がなかったに違いない。
このまま、徒歩で野洲川を渡るわけにはいかないので、横田の渡し跡から国道1号へと移動。ほどなく、甲賀市と湖南市の市境。湖南市はその名の通り、琵琶湖の南側にある人口5万人ほどの小さな都市。その名とは裏腹に、琵琶湖に面していないのが意外だが、琵琶湖の南側を指す湖南地方が由来のようだ。国道1号で大津方面へと向かう際、湖南市を通過したことはあるが、じっくり歩くのは初めてなので胸が高鳴る。横田橋で野洲川を渡り、JR草津線の三雲駅で休憩し、スマートフォンの地図アプリでルートを確認。旧東海道と国道1号は野洲川を南北に隔てる形で並走しており、湖南市の市街地は旧東海道に沿って形成されている。つまり、この辺りを味わい尽くすには街道を歩くことが欠かせないという訳である。
時刻は12時過ぎ。駅から少し歩き、ラーメン屋に入る。席に着くと店員さんがラーメンの好みを訪ねてくるので「全部普通で」と伝える。最近は親切に麺のゆで具合やスープの濃さなどを聞いてくれる機会も増えたが「プロのベストが食べたい」というのが私の本音。もちろん、自分好みにして食べたい人が居ることも理解はしている。
ふと、とある有名ラーメン店で働いていた友人から聞いた話が脳裏に浮かんだ。ある日、友人がラーメンのオーダーを取りにいくと、男性から「化調(化学調味料)抜きで!」と言われた。そのようなサービスはやっていないので、困った友人は店主に小声で相談したところ「普段通りにつくるから」とニヤリ。そして、友人は出来上がったラーメンを恐る恐る運んだところ、男性はラーメンのスープを口に入れるなり、何度も深く頷いたという。そんな様子をカウンター越しに見ていた店主は、友人に向けてウィンクしたそうな。結局、男はスープを一滴残らず飲み干して「以前より美味かったよ!」と満足して帰っていった。この話は、客の要望を無視したお店側の対応が不誠実と感じる人も居ると思うが、素人に口を挟まれたくないという店主の気持ちも理解できる。結果として、客を満足させつつ、店主もこだわりを曲げなかったと考えれば、この対応は両者のニーズを満たす正解といえるのかもしれない。「お客様は神様です」という言葉はあくまでサービスを提供する側の心構えに過ぎない。サービスを受ける側も、また提供する側に相応の敬意を払うのが健全なビジネスの在り方であると思う。
カウンターで頬杖をつきながら、そんなことを考えていると、ラーメンが来た。空腹に任せて箸を進めると、あっという間にどんぶりは空になる。店員さんに一礼し、店を後にする。空腹さえ満たされれば、今日はもう恐れるものはない。(本紙報道部長・麻生純矢)
2024年5月9日 AM 4:55