旧東海道を大津市方面へと進んでいくと、小さな祠を見つけた。中を覗くと、顔を白く塗られた地蔵が祀られている。近くの案内看板によると、これは「子守地蔵」と呼ばれるもので、江戸時代、参勤交代の大名行列を乱した親子が斬られた場所につくられたものらしい。地元の町内会が経緯をより詳しくまとめたエピソードをインターネットで公開していたので読んでみた。内容はこうだ。肥後(熊本県)の大名行列が通過する際、沿道で平伏していた母親と子供の目の前にカブトムシが飛んできた。子供が、それを捕まえようとして列を乱した結果、親子共々、無礼討ちにされた――そのような内容の民話を起源としているという。以来、毎年8月の地蔵盆には近所の人々が集まり、この地蔵に化粧を施し、供養を行っている。
この話を読んだとき、胸が締め付けられる思いがした。小さな親子が命を落としたことへの悲しみもあるが、それ以上に「自分がその当事者だったかもしれない」と感じたからだ。正確には、私の先祖がその場にいたかもしれないと想像したのである。
 少し前にも触れたことがあるが、私の母方の祖母は肥後を治めた細川氏の家臣の家の生まれ。一方、祖父は鈴鹿市の東海道沿いの田舎町で生まれ育ったが、百姓のまま人生を終えるのを良しとせず、裸一貫で満州に渡った。そして土木作業などの肉体労働をしながら勉強を続け、南満州鉄道(満鉄)の試験に合格した経歴の持ち主だ。祖母とのなれそめはというと、満鉄の先輩社員だった祖母の兄が、祖父の気骨に惚れ込み、自分の妹(祖母)との縁談を勧めたという話だ。
 時代劇などで参勤交代の行列が通る場面では、沿道の庶民が行列が通過するまで、平伏し続けているイメージが強いが、実際にはもっと緩やかなものだったという。行列が通る際、道を譲っていれば問題なく、むしろ華美な大名行列を見物するのは庶民にとって娯楽の一つで、大名側も権威を示すために行列をきらびやかなものにしていた側面がある。一方で、列を乱したり前を横切る行為は無礼とされ、厳しい処分の対象になった。しかし、他国の領民を斬れば外交問題に発展する恐れもあり、無礼討ちに至る例は稀だったようだ。
 この子守地蔵にまつわる民話が、どの程度史実と重なるかはわからない。ただ、ここが西国大名の参勤交代の行列が頻繁に通った東海道沿いの地であることを考えると、民話の信憑性も感じられる。前述の通り無礼討ちが稀だったからこそ、悲劇性が際立ち、語り継がれている可能があるためである。とはいえ、当時のルールを現代の価値観で「残酷」「野蛮」と批判する気にはなれない。その当時の社会秩序を守るために必要だったルールであり、歴史を振り返る上では、当時の価値観に則って物事を考える姿勢が求められるからである。この地蔵の話を聞いて私の胸が締め付けられるのは、自分の先祖が行列に加わっていた可能性を想像してしまった非常に私的な感傷に過ぎない。スピリチュアルな話には興味がない私ですら、海の向こうで結ばれた縁が自分を今ここへ導いたのではないかと考えさせられる。
 子守地蔵を後にして旧東海道を南西に進むと、小川が流れる公園のような場所にたどり着く。そこには東屋が整備されており、椅子に腰を下ろして一息つく。ここは平安時代に「野路(萩)の玉川」として知られ、湧き出る清水と美しい萩の花が旅人の心を打ち、多くの歌に詠まれた地だ。鎌倉時代には宿駅が置かれ、上洛した源頼朝がこの地に逗留したという記録もある。特筆すべきは、江戸時代から現代に至るまで、地元の人々がこの場所の保存に尽力してきた点だ。今も美しい状態が保たれているのは、その弛まぬ努力の賜物だろう。時代の流れとともに、かつて歌に詠まれた名勝としての景色は姿を消してしまったが、それでも現代でできる形で後世に伝えようとする地元の人々の姿勢には頭が下がる。形あるものや命はいつか滅びるが、人の思いは不滅である。連綿と受け継がれてきた思いのおかげで、とめどなく湧き出る清らかな水を見ながら、疲れを癒すことができる。
 10分ほど体を休めた私は、再び旧東海道に戻る。しばらく進むと、また面白そうな場所を見つけて足を止める。ヒシの葉がびっしり水面を覆う池に浮かぶ小島に向かって石橋が伸びている。橋の脇の石碑には「浄財弁財天」と書かれているので、どうやら神社のようだ。小島の周囲は木々が生い茂っているため、岸辺からは社らしきものを見ることはできない。少し勇気を出して石橋を渡って境内に入ると、草も生えておらず、手入れが行き届いており、氏子たちの信仰の篤さを感じる。弁財天はとても面白い神である。芸術や水をつかさどる神で七福神の一柱として信仰を集めているが、ヒンドゥー教の女神サラスヴァティがルーツで、仏教の神として日本に入ってきた。長らく日本では、仏教と神道が混ざり合い、それぞれの神や仏を同一視する神仏習合というスタイルが自然な信仰の形だった。明治の廃仏毀釈によって仏教と神道は切り離されたが、広く信仰を集めていた弁財天は今も寺院と神社の双方で祭られる稀有な神となっている。神前で残りの道中の安全を願うと小島を後にするといよいよ大津市。(本紙社長・麻生純矢)