石山寺で紫式部が源氏物語の着想を得たという伝説から、2024年のNHK大河ドラマ「光る君へ」によって、大津市がにわかに注目を浴びていた。更にそれだけでなく、今私が歩いている膳所が、同年に書店員が「売りたい!」と思う本を選ぶ本屋大賞を受賞した作品の舞台にもなっている。作品の名は、「成瀬は天下を取りにいく」。新潮社刊、宮島未奈著。本屋の店頭で平積みされていることも多かったので、ご存知の方も多いはず。どのような作品か簡単に説明すると…膳所で暮らす主人公の成瀬あかりは頭脳明晰だが、常識にとらわれない発想と行動力、そして深い地元愛を持っている少女(劇中で中学生から高校生へと成長)。そんな成瀬が、小さな頃から慣れ親しんだ西武大津店の閉店にあたり、最後の1カ月間を毎日足を運んで中継に移りこもうとしたり、幼馴染の島崎みゆきと共にМ─1グランプリに出場するなど、様々な目標にチャレンジしていく。劇中では、世間を揺るがすような大事件は起こらず、成瀬や彼女を取り巻く人々の視点から、それぞれの日常が描かれていくが、どんな時にも自分らしく生きる成瀬の姿が多くの読者の共感を呼んでいるのだろう。
 私がこの作品を好きな点は、大津愛に溢れているところである。劇中に登場する施設や店名も実在するものが大部分を占めており、続編の「成瀬は信じた道をいく」で成瀬がアルバイトをしていたスーパーには制服とポップが展示されていたりするなど、成瀬たちがこの膳所で今も暮らしているという実感がわくと同時に、足を運んでみたくなる。
 とりわけ、印象に残っている場所は「ときめき坂」。JR膳所駅及び京阪膳所駅から、今は高層マンションになっている旧西武大津店があった場所までを結んでいるゆるやかな坂道である。駅近くには商店街も形成されており、成瀬の看板も設置されている。地元の人でにぎわう〝ちょうどいい〟活気がたまらない。この名前は平成元年に県が行った道路愛称ネーミング運動によって決められたそうである。私たちが普段見慣れている〝どこにでもありそうな景色〟だが実際には唯一無二である。成瀬シリーズでは、大津がいかに唯一無二であるかが雄弁に語られており、その熱にあてられた私は、すっかりまちに魅了されている。
 そろそろ本筋である旧東海道に話を戻すと、ときめき坂は、旧東海道とも、木曽義仲や松尾芭蕉の墓がある義仲寺の付近で交わっている。恥ずかしながら、三重県民を半世紀近くやってきて、芭蕉の墓が大津にあるとは知らなかった。境内はこじんまりとしているが美しく手入れされており、義仲の墓と彼に最後まで付き従い、この寺のルーツである草庵を結んだと云われる巴御前の塚、そして芭蕉の墓が並んでいる。そのほかにも、朝日の昇るような勢いで快進撃を続けた義仲の通称である朝日将軍にちなんだ本堂・朝日堂、芭蕉や弟子を祀った翁堂、芭蕉も使った無名庵などの建物があり、境内には20余りの句碑も配されている。こういった背景から俳句を愛する人たちの来訪もある。私が訪れた際も、60代くらいの男性が熱心に句碑を眺めていた。
 また、大津市は、2022年の166回直木賞受賞作品の「塞王の楯」(集英社刊、今村翔吾著)の舞台にもなっている。こちらは慶長5年(1600)の関ケ原の戦いの前哨戦に当たる大津城の戦いで、不可侵の楯である石垣を築く石工と、どんな城塞をも打ち砕く矛である鉄砲を生み出す職人との戦いを描いている。大津城については、少し先の回で取り上げたい。
 様々な文学やそれを彩る歴史の舞台になっている地であることも大津を歩く十分な理由になる。
 私は義仲寺から旧東海道を京都方面へ進んでいく。時刻はちょうど12時。旧東海道の終着点である京都三条大橋まで余裕を持って歩ける時間であるが、今日は大津でピリオドを打つことに決めていた。先を急ぐよりも、この地域をもう少しじっくり味わい尽くしたいという気持ちが強くなったからに他ならない。(本紙社長・麻生純矢)