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本日の旧東海道の旅は、大津本陣跡でひとまず終了。時刻はまだ13時前だが、京都を目指すのは次回に持ち越すことにした。本陣跡には建物や遺構は残っておらず、小さな石碑と案内看板があるだけ。隣に建つ明治天皇聖跡碑の立派さが、かえって本陣跡の静けさを引き立てている。
本陣とは、江戸時代の宿場に設けられていた、主に大名など身分の高い者のための宿泊施設。大津宿には二つの本陣があり、ここはその一つで大塚嘉右衛門宅があった場所。往時の本陣は、3階の楼上から琵琶湖が一望できる絶景が楽しめたというが、今では周囲にマンションなどの高い建物が立ち並び、たとえ当時の建物が現存していたとしても、琵琶湖は望めそうにない。
その後、以前から訪れてみたかった京阪・びわ湖浜大津駅近くの大津城跡へ。とはいえ、こちらも残されているのは小さな石碑と推定復元図のみ。大津城は天正14年(1586)、豊臣秀吉の命により浅野長政が現在の浜大津周辺に築いたものだが、膳所城の築城にともない江戸時代初期に廃城となった。縄張りを示す古絵図は現存しておらず、これまでの発掘調査も本丸跡と推定される周辺に限られている。わずかに残る外堀の石垣や、彦根城に移築されたと言われる天守閣などから、その姿や規模を想像するしかない謎多き城である。
大津城が歴史の表舞台に登場したのは、慶長5年(1600)9月7日、関ヶ原の戦いに先立って起こった「大津城の戦い」。西軍の毛利元康を大将とする1万5千の大軍が攻め寄せ、東軍側はわずか3千の兵で籠城することとなった。私が、この戦いにキャッチコピーをつけるなら、迷わず「最強対最弱」とするだろう。
西軍諸将の中でもひときわ異彩を放っていたのが、筑後柳川(現在の福岡県柳川市)の大名・立花宗茂。若いころから数多の戦場を駆け抜け、「生涯無敗」という驚異的な戦績を残した知勇兼備の名将だ。「最強の戦国武将は誰か?」という議論には、必ず名前が挙がる人物である。一方、大津城を守っていた京極高次は、名門・京極氏の御曹司で、祖先には室町幕府創設に関わった佐々木道誉もいる。ただ、高次自身はそれまで目立った戦功もなく、いわば地味な存在だった。たとえば、本能寺の変の際には、明智光秀に与したがために秀吉と敵対することとなり逃亡。後に秀吉の寵愛を受けた妹・竜子のとりなしにより、助命されただけでなく、大名へと返り咲いていく。これには妻が、淀殿(茶々)の妹・初であった影響も大きい。目立った功績のない高次が、周囲の女性の〝七光り〟で高い地位を得ていく様は「蛍大名」と揶揄されることもあった。高次を最弱呼ばわりするのは、いささか忍びないが、天下に勇名を轟かせた宗茂と比較すると、その差は歴然である。
兵力差5倍。加えて宗茂は、海外から火縄銃がいち早く伝わった九州生まれで火器の扱いに長けている。他の軍勢の3倍と評される速度で銃撃を浴びせ、本丸にも大砲を撃ちこむなど、城への攻撃は苛烈を極めた。ついに城内へと西軍がなだれこみ、本丸に迫ってもなお、高次は徹底抗戦の構えを崩さなかった。しかし、冷静に状況を鑑みると文字通り刀折れ矢尽き、家臣たちは満身創痍。更に竜子も本丸に籠っていたといわれる。死を恐れない「不惜身命」は武士の誉れであるが、あえて命を慈しむ「可惜身命」へと考えを改めた高次は、剃髪した上で降伏。ついに、大津城は9月15日朝に開城したが、西軍は8日間の足止めを余儀なくされた。
この8日間が持つ意味は大きい。というのも、大津城が開城したその日、関ヶ原の戦いが勃発したからだ。この戦いで東軍が勝利し、徳川家康が天下を握る流れが決定づけられたことは、誰もが知るところであるが、大津と関ヶ原はそれほど離れていない。もし大津城が早々に陥落していれば、宗茂たちの参戦が戦局に大きな影響を与えていた可能性がある。それ故に、高次の奮戦は家康に高く評価され、若狭一国(現在の福井県南西部)が与えられた。その子孫たちも、転封を繰り返しながらであるが幕末まで大名として存続している。
「蛍」と揶揄された男が、稀代の名将相手に一世一代の大勝負を仕掛け、自らの真価を示したことは、結果として歴史をも動かした。これほど胸が熱くなる史実もそうそうない。人生は努力の積み重ねで築かれていくが、どこでどう頑張るかによって、その重みも結果も大きく変化する。大津城の戦いは、誰の人生にも必ず存在する「頑張りどころ」を見極める大切さを教えてくれている気がしてならない。
作家・今村翔吾氏の直木賞受賞作「塞王の楯」(集英社刊)は、この大津城の戦いを題材に、城を守る〝楯〟を築く石垣職人と城を攻め落とす〝矛〟を作る鉄砲職人の戦いを描いている。高次も宗茂も非常に魅力的な人物として描かれているため、大津城跡に訪れる前に読んでおくと、小さな石碑の向こう側に広がる壮大な歴史ドラマを楽しめることは請け合いである。
石碑のある場所から少し北へ進めば、目の前には琵琶湖が広がる。そして、その水面に浮かぶのが、琵琶湖汽船の遊覧船「ミシガン」。赤いパドル(外輪)が目印の外輪船で、レトロな雰囲気を漂わせている。滋賀県の姉妹都市・アメリカのミシガン州との国際親善を祈念して命名されたという。
後日、追加取材を兼ねて再び大津市を訪れた際には、このミシガンに乗船し、クルーズを体験した。
デッキからは美しい琵琶湖の景色が楽しめるだけでなく、大きなパドルが水しぶきを立てながら回転する様子は、まさに迫力満点だった。
特に印象に残ったのは、船内ステージでの観光案内とライブ。ミシガンパーサーたちが、琵琶湖やその周辺にまつわるクイズを出題したり、明るく楽しい歌と軽快なトークで場を盛り上げてくれる。琵琶湖の南湖の水深や「油断大敵」の語源といった豆知識を楽しく学べて、観客を上手く巻き込んでいくスタイルは地元愛とホスピタリティに溢れていると感じた。
クイズに回答したご褒美としていただいた「ミシガンステッカー」は、仕事用のノートパソコンに貼ってある。それを見るたび、あの楽しい時間がよみがえる。
こうして、大津市をすっかり満喫。いよいよ次の行程で伊勢別街道から旧東海道をたどってきたこの旅を締めくくることになりそうだ。大津宿から東海道の終着点・京都の三条大橋を目指す。 その前に、ここまでの旅を振り返る場をつくりたいと思っている。(本紙社長・麻生純矢)
2025年6月12日 AM 9:50
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