伊勢の津七福神

縁日で賑わう毘沙門天霊場『津観音』

観音堂に祀られている毘沙門天像

 夜半から降り続いた雪が津のまちを白く染めあげた1月18日の10時、毘沙門天霊場の津観音こと恵日山観音寺=津市大門=へ。我が社が入居しているМECビル=津市東丸之内=からはだいたて商店街のアーケードを一直線。徒歩2分ほどで境内に到着する。
 津市で生まれ育った人ならば誰もが知っている『観音さん』。東京浅草の浅草観音(浅草寺)、名古屋の大須観音と共に日本三観音の一つに名を連ねる真言宗の古刹だ。和銅2年(709年)に阿漕浦の漁師の網にかかったという聖観世音菩薩像を本尊として開創。津が伊勢参宮街道の城下町としてにぎわった江戸時代には津藩主の藤堂家と徳川将軍家の祈願所ということもあり、全国に名だたる大寺院として栄華を極めるなど、その歴史は実に1300年以上に及ぶ。
 昭和20年7月の米軍による大空襲で41堂が全て焼失するまで、境内に7つあった塔頭(境内にある子院)の本坊に当たる大宝院の本尊「国府阿弥陀如来」は伊勢神宮の祭神・天照大神の本地仏。両神仏は明治の神仏分離令で神道と仏教が完全に切り離されるまで、日本に根付いていた『神仏習合』の中で光を司る共通の神性から同一的存在として信仰を集めていた。そのため、おかげ参りで津のまちを訪れる旅人たちに「阿弥陀に参らねば片参宮」と言わしめたほど。そういう意味では全国から大勢の人たちが訪れる今年の伊勢神宮の式年遷宮は、津にとって絶好の機会ともいえる。
 実は七福神めぐり専用色紙の朱印はこの前日に捺してもらっている。では、なぜ翌日に再び訪れたかというと毎月18日は観音寺の方の本尊である聖観世音菩薩の縁日ということを思い出したからだ。
 そういう訳で、境内に着くと、まず観音堂の中での法会に参加。その後、本尊の脇に祭られている毘沙門天像を参拝する。毘沙門天は戦国時代きっての名将・上杉謙信が傾倒したことでも知られる軍神。そのことからも伺えると思うがご利益は『必勝』。三十三年の人生を振り返ると、こと勝負事と名のつくものに関しては、からっきしだったように思う。そこで今までの〝負け戦〟を思い出しながら更なる努力を誓い、念入りに手を合わせる。岩鶴密雄住職によると、この像は戦後に作られたものだが、焼失する以前は境内に毘沙門堂もあったそうだ。
 この時もまだ雪がちらついて寒かったが、昨年から毎月この縁日を更に盛り上げようと地元商店主らが出店していることもあり、それなりの人出で賑わっていた。特に人気なのは津観音に伝わる法具「鶏文磬」にちなんだ縁日たまご。法会の際に清められた縁起物で8個入り100円というお値打ち価格もあり、11時頃の販売開始から、すぐに売り切れてしまう。
 七福神めぐりだけを目的に各寺社を巡るのもいいがこういう各寺社独自の仏事・神事・催しと併せて訪れるのも楽しみ方の一つといえる。津観音だと近いところで、この縁日の他、2月3日の節分に毎年行われている「鬼押さえ節分会」もある。境内の特設舞台の上で侍たちが鬼を退治する寸劇や年男や年女たちが掴むと幸運になれるという福豆を景気良くまく。春の訪れを告げる催しとして毎年大勢の人たちが訪れているが今年は日曜日なので例年参加できなかった人にも参加し易いかもしれない。
 この七福神めぐりは、より気軽に、そういった催しにも参加できるきっかけになるかもしれない。(本紙報道部長・麻生純矢)

寿老神霊場「高山神社」

斎館に祀られている寿老神像

 まだ完全に正月気分が抜けきらない1月8日の13時すぎ、津市丸之内のお城公園より新年最初の七福神巡りをスタート。今回の目的地は公園の隣にある寿老神霊場・高山神社だ。
 今までは寺院が続いてきたが神仏習合スタイルのこの七福神巡りらしく初の神社となる。津藩祖・藤堂高虎公を祭神として祀るこの神社は本来、津城内にあったが戦災による焼失などを経て、内堀の埋立地にあたる現在の場所に移転している。高虎公は腕っ節自慢の荒武者から自己変革を重ね32万石を所領とする大名にまで出世。公明正大な人格から諸大名の信頼も篤く、外様ながら家康・秀忠・家光の絶大なる信頼を勝ち得た稀有な存在でもある。江戸幕府の終焉まで藤堂家が転封・取り潰しとは無縁だったのには少なからず、その威光が影響を与えていることは間違いない。津の繁栄の礎を築いた公は藩士や領民にとって神に等しい存在であったことは想像に難くなく、文久3年(1863年)に正式に神として祀られるようになったことも素直に頷ける。
 境内には城山稲荷大神も祀られおり、仕事初めの頃には企業の参拝も多い。7日も過ぎて少し落ち着きを取り戻した境内に入り、まずは本殿を参拝。続いて隣の斎館で色紙に朱印を捺して頂く。その間に館内に祀られている寿老神像を参拝。道教がルーツのこの神は、緯度の関係で日本や中国からの観測が難しいことから、見ると長寿になれると言い伝えられてきた南極星(カノープス)の化身・南極老人がモデルといわれている。長い頭に鹿を従えた姿が一般的だが、この像は鹿の背に腰を下ろしているこぢんまりとした姿と相まってどこか愛らしい。
 そうこうしていると、遍路笠に白装束と、どこかで見覚えのある男性が境内を訪れた。本紙・西田久光会長である。西田会長といえば以前、本紙で連載していた「歩きへんろ夫婦旅」でご存知の読者の方もいらっしゃると思うが、四国霊場八十八ケ所を巡る約1200㎞の道程を徒歩で踏破したほどの健脚の持ち主。この伊勢の津七福神を更に盛り上げるべく、市民目線からの意見を出し合う友の会の会長も務めている。
 先月に一度、全ての霊場を徒歩で巡ったとは聞いていたが、七福神だけに七度巡ってこそ、真の満願成就を迎えられるという。そこで、この日も朝から榊原町にある布袋尊霊場・地蔵寺からここまで前回と少しコースを変えながら歩いてきたそうだ。もちろん、私と会長がここで出会ったのは全く偶然。これも七福神のお導きなのだろう。
 西田会長や多田久美子宮司から色々な話を伺っていると、色紙を手にしたご夫婦が境内へ。声をかけると嬉しいことにこの連載を目にされて霊場巡りをされているそうだ。度重なる七福神のありがたいお導きに感謝をしつつ、西田会長を見送り高山神社を後にする。
 この日は時間的な問題もあり、立ち寄れなかったが参拝後に是非とも味わいたかったのが、神社のすぐ近くにある老舗洋食店・レストラン東洋軒のブラックカレー。見た目のインパクトや深く上品な味わいに加え川喜田半泥子とのやりとりの中で生まれたストーリー性からも津を代表するグルメと呼ぶにふさわしいだろう。この七福神めぐりはこういった美味たちとの出会いも大きな楽しみだ。(本紙報道部長・麻生純矢)

江戸時代初期建立の山門から臨む「塔世山四天王寺」

本堂に祀られている三面の大黒天像

 昨年12月25日13時、津駅前での取材があったこともあり、久しぶりに七福神巡りを再開。ここよりしばらくは津市中心部にある寺社を巡ることなり、基本的に徒歩での移動ばかり。津駅東口から再び恵比須天霊場・初馬寺の門前まで行き、大黒天霊場・四天王寺に向かって歩き出す。
 両者を直線上で結ぶと1㎞強。次の仕事までに少し時間の余裕もあったので脇道を散策しながら進む。こういう稼業をしていると寄り道しながら得た情報が、ふとした瞬間に役立つことも多い。いつもと違う目線と速さで、じっくり我がまちの『今』を確かめる行為は地方記者の原点。変化を続けるまちの姿を自分の記憶と照合しながら最新の状態へと書き換えていく。
 約20分かけて栄町界隈の散策を終えると、県庁下の坂にある交差点に到着。そこを南に向かって横切ると間もなく眼前に広がるのが曹洞宗の中本山・四天王寺だ。この寺院は推古天皇の勅命により聖徳太子が建立したと伝わる津市随一の古刹。江戸時代には津藩祖・藤堂高虎公を筆頭に歴代藩主からの篤い庇護を受け、伊勢街道沿屈指の大寺院として隆盛を極めた。明治の廃仏毀釈による危機も苦難の末に乗越えたが昭和20年7月、米軍の大空襲で全堂と共に数多の貴重な寺宝が焼失。敗戦から長い時を経て復興がなされ今に至る。
 幸いにも戦火を逃れた山門は江戸初期建立で装飾こそ少ないが古刹にふさわしい威容を誇る。その山門から境内に入るとまっすぐ本堂へ進み、正面より参拝。続けて本堂内に祀られている室町時代作の大黒天像を参拝する。この像は辯才天と毘沙門天が一体となった三面大黒。豊穣の神として知られる大黒天は仏教で富を司ると同時に勇猛な軍神でもあり、この像は織田信長公も祈願したという由緒あるもの。見た目は三面であることと俵が無い事を除けば袋を背負い笑顔を浮かべるお馴染みの姿に近い。 では、護法の軍神がどのような過程を経てあの穏やかな姿になったのかというと…中国から福をもたらす神としての性格を強調された状態で伝わった大黒天が因幡の白兎で有名な国津神・大国主と『だいこく』という読み仮名が共通することから混同される内に習合され、豊穣神として信仰を集めていったことに由来する。他の七福神にも似た様なエピソードがあることからも、宗教・宗派の壁を越えた七福神巡りがいかに日本古来の文化に則っているかを示しているといえる。
 本堂での参拝を終えると、この伊勢の津七福神の発案者である東堂(前住職)の倉島昌行師から寺の歴史などを伺う。私が朱印を集めている専用色紙は、開創法会の前に倉島師より頂いたもので大黒天の朱印もその時、一緒に頂いている。
 その後、本堂から境内の南側に広がる墓地に移動。ここには織田信長の生母・土田御前、高虎公の正妻・久芳院、津藩きっての漢学者・斎藤拙堂、我が国写真術の開祖の一人・堀江鍬次郎など、歴史に名を刻んだ者たちも数多く眠る。その他、境内には津の俳人・菊池二日坊が松尾芭蕉を偲んで建てた『芭蕉翁文塚』などの碑も残っている。
 寺社は信仰の象徴・実践の場であると同時に、移ろいゆくことが常である世の中において不変を旨とする人の記憶とまちの歴史の集積地である。時代に応じてそのあり方は変わっていくのかもしれないが本質的な部分は悠久の時を越えてもなんら変わることはないはず。ある意味では我々、メディアの果たす役割をより大きなスパンで担っているともいえるだろう。
 ふと、そんなことを考えながら四天王寺を後にした私はクリスマスムードに彩られたこのまちの『今』を再び心に刻みながら南へ進む。そして次の霊場に隣接するお城公園に着いた頃にちょうど次の仕事の時間となる。再開は後日だ。(本紙報道部長・麻生純矢)

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