国道165号を遡る

棚機神社の織姫の木と彦星の木(葛城市太田小字七夕)

棚機神社の織姫の木と彦星の木(葛城市太田小字七夕)

三ツ塚古墳群の7号墳(葛城市忍海)

三ツ塚古墳群の7号墳(葛城市忍海)

道の駅かつらぎの脇にある有料道路「南阪奈道(国道165号)」の入り口から分岐する側道を伝って、西へと進んでいく。
山を切り拓いて突き進む国道と並行する細い側道。道に沿って建つ民家や会社も少なく、私のような物好きの余所者どころか、地元の人ですら通る人はほとんどいない。桜井駅からそれなりの距離を歩いてきたため、アップダウンの激しいこの道はかなり堪える。少し歩いては休む、を繰り返しながらスローペースで進んでいく。
時刻は15時前。行程は佳境に入りつつあるはずだが、まだこの日のゴールがはっきりと決まっていない。間も無く大阪府に入るはずなので、体力のことを考えると、その最寄りの駅と言うことになるだろう。このルートから大阪に入ったことがないので、正直どのような場所であるかも見当がつかない。疲労と戦いながら一歩ずつ前へと進んでいく。すると、風にひらめく五色布が飛び込んでくる。布の近くに建てられた看板には「たなばた神社」と書かれている。「そうか、今日は7月6日。明日が本番か」。この神社の正式名称は「棚機神社」。織物の女神である「天棚機姫神」が祀らている。その昔、この一帯には朝廷に献上する布を織る氏族が住んでおり、5世紀頃に渡来人より最新の機織り機と布を織りあげる技術が伝えられた。それと同時に伝えられたのが牽牛と織姫夫婦の物語であり、日本で一番最初に七夕儀式が行われた場所と言われている。この神社は氏子がおらず、荒れ果てていたが30年近く前に地元の有志が保存会を立ち上げ、境内や周辺の手入れや七夕祭りなどを行っているらしい。
境内に立ち寄ると、社は無く、「織姫の木」と「彦星の木」の後ろには小さな祠が建てられているのみ。立地的にも、普段はほとんど人が訪れることのない神社なのは間違いない。境内からは大和平野が一望でき、これまで歩いてきた道のりも伺うことが出来る。一日前とはいえ、この神社が面目躍如の時を迎える時期に立ち寄れたのは僥倖といって良いだろう。徒歩で酔狂な旅をしなければ、一生この神社と出会うことがはなかったのだから。
神社を後にした私は、また側道に戻り、歩いていると、国道の案内看板に「太子」「羽曳野」という文字がかかれている。どうやら、今日の終着点は、その辺りになりそうだ。
また、しばらく進むと同じく側道に面している「三ツ塚古墳群」が見えてくる。南阪奈道の建設に伴い発見された古墳。6~7世紀頃につくられたもので16基の横穴式石室墳で構成される。史跡として保存されており、道路建設のため移設された7号墳を含めた6基を見ることができる。ぽっかりと口を開けた石室の入り口は、静寂が支配する常世に続いているようにも思える。
少し休憩しながら、スマートフォンで現在位置から最寄り駅を調べる。どうやら羽曳野市にある近鉄南大阪線の上ノ太子駅が目的地になるらしい。それなりに距離があるので油断はならないが、ゴールが明確になると一気に気持ちが軽くなる。この先も、まだ未知と出会えそうで心は踊るばかりだ。(本紙報道部長・麻生純矢)

国道165号の側道(大和高田市出付近)

国道165号の側道(大和高田市出付近)

ノウゼンカズラの花

ノウゼンカズラの花

自動車専用道で高架化している国道165号を見上げる形で側道を歩き続ける。最初は不満を感じていた私も、いつの間にか心が和らぎ、気付けば歩くことを楽しんでいる。なぜなら、徒歩旅の醍醐味は旅先の日常に触れることだからだ。のどかな田園風景の中で、埋もれた遺跡の発掘を行っていたりと、土地柄も感じる。私たちが旅先に選ぶことの多い観光地はいわば非日常を楽しむ場所である。地域のアイデンティティを濃縮してある分、うがった見方をすれば、よそ行きの顔が前面に押し出されている。一方、現在周囲に広がっているのは、肩の力が抜けた日常。ところ変われば、それを取り巻く日常も変化する。車なら一瞬で通り過ぎてしまうこのような景色もじっくり咀嚼すればそれは味わい深いものである。
国道に沿った側道はずっとまっすぐというわけでもない。例えば川がある場所の場合は、橋に向かって道が伸びていくし、大きな道路を横断する箇所でも側道が途切れて、いわゆる地元道を歩くことになったりと、文字通り右往左往させられる。それに、歩き疲れたら住宅街の何の変哲もない公園のベンチに腰掛けて休む。これがまた楽しいのだ。交通量が少なく危険な思いをすることもないので、側道の旅は想像以上に快適なことも特筆すべきポイントだろう。
側道を歩いているうちに、気付くと橿原市から大和高田市へ入っていた。市境を示すプレートも見かけなかったので、いつの間にか市境を越えていたようだ。日本を代表するような名所旧跡スポットが数多ひしめく奈良県内にあって、有名な観光地というわけでもないため、三重県に住んでいる人たちには、あまり馴染みのない地名かもしれないが、大阪都市圏のベッドタウンで奈良県内でも指折りの人口密度を誇っている街。観光を目的に旅をすると、通過点になってしまうことも少なくない街とふれあい、思い出を刻んでいくことに高揚感を覚える。
側道沿いの民家に目をやると、赤い花が力強い生命力を示すように咲き誇っている。夏を代表する花の一つであるノウゼンカズラだ。よく庭先や公園などに植えられているので、一度は目にしたこともあるかもしれない。花木にも疎い私が、なぜこの花の名前がすぐわかったかというと大好きな曲に登場するためである。その曲というのが、安藤裕子の「のうぜんかつら」。彼女の祖母が、祖父が亡くなった際に書いた詩が基になっている。愛しい人と過ごした甘い思い出が残る街を彩る赤い花。最後まで愛し合っていた祖母と祖父の姿に、上手くはいかない自らの恋を重ね合わせ、しっとりと歌い上げている。
「そして 赤い花 空に舞う度に あたしと つないだ手と手 道で揺らして このまま二人つづくと言って」(安藤裕子 のうぜんかつら 2006年より引用)
なんだか国道を愛しているのに、思い通りには歩かせてもらえない私の境遇にも重なるような気もする。国道を歩けないまま、側道の旅はまだまだ続いていく。(本紙報道部長・麻生純矢)

香久山を越えてしばらく。国道165号の北側に香久山・畝傍山と共に大和三山と称される耳成山が見える。この山は、少しいびつな香久山と比べるととても美しい円錐形をしている。万葉集には中大兄皇子、後の天智天皇が大和三山を詠んだ歌がある。
香久山は 畝傍ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし古へも 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき
要約すると、神代に香久山と耳成山は、愛しい畝傍山を巡って争った。だからこそ、今の世の中でも(人々は)妻を取り合って争うのだ。
といったところだろうか。
後世の人たちがこの歌を巡って様々な想像を巡らせ議論も交わされてきたが、ここではそれにはふれない。
私の率直な感想を述べると香久山と比べると耳成山は、ずいぶんと美形だ。人間に例えるなら均整の取れた肉体に甘いマスク。逆に整いすぎていることに違和感すら覚える。今の世間でも見目麗しい芸能人に対して、整形疑惑というものがかけられ、根も葉もない話が喧伝されるといったことは、そう珍しくもない。実はこの山にも、整形疑惑がかけられている。
正確には整形というより、この山が人の手でつくられたものではないかという疑惑である。そんな噂話が出た一つめの原因は、余りに山容が整いすぎていること。山裾の左右がほぼ対称で、いかにも山のお手本のような形。自然の産物であることを疑う人がいることにもうなづける。標高は140mで最も高い畝傍山(標高199m)、ライバルの香久山(152m)と近いサイズであることも、なんとも、おあつらえ向きに思える。
もう一つは大和三山の位置関係。畝傍山を頂点に耳成山と香久山を結ぶと藤原京をすっぽりと囲む綺麗な二等辺三角形が出来上がる。今でこそ、ほとんど聞かなくなったが、ひと昔前に流行ったピラミッドパワーをおぼえているだろうか。ピラミッド形の物体内部では、疲れが取れやすくなったり、食べ物が腐りにくくなるといった効果があると騒がれた。藤原京の配置も、三つの山が描く三角形から受ける呪術的な恩恵を考慮していたなどと意識し始めると、空想はどんどん膨らんでいく。
そういった話が積み重なって、耳成山が人工的に作られた山であるという説が古くから根強く存在している。完全に人工ではなく、とりわけ天然の山を古墳として改造した山であるという話は、文字通りの「整形疑惑」である。
ロマンは感じるものの、にわかには鵜呑みにしづらい話だが、私は強い否定も肯定もしたくないタイプの人間である。出鱈目を流布するつもりは毛頭ないが、歴史の余白を楽しむくらいの余裕は欲しい。古代ギリシアの詩人ホメロスの叙事詩イリアスに魅せられ、伝説の都市トロイアを発掘したハインリッヒ・シュリーマンのような先例もあるではないか。嘘を嘘と、実を実と決めつけることほど、真理の探究という至上命題からほど遠い考え方は無い。
私はもう一度、耳成山を一瞥し、再び目的地である大阪方面をめざして国道を歩き始めた。(本紙報道部長・麻生純矢)R165_210909

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