国道165号を遡る

大村神社(伊賀市阿保)

大村神社(伊賀市阿保)

息速別命の陵墓(伊賀市阿保)

息速別命の陵墓(伊賀市阿保)

まずは拝殿の前で道中の安全を祈る。その後、拝殿の脇に置かれている帳面に目を通すと、参拝者の名前と住所が並んでいる。近隣の人以外には、大阪や兵庫など、関西方面の人もチラホラ。阪神大震災で大きな被害を受け、誰よりも地震の恐ろしさを知っているからこそ、関係しているかもしれない。拝殿の脇にある社の中に祀られている要石は鹿島神宮(茨城県)の祭神・武甕槌命(たけみかづちのみこと)と香取神宮(千葉県)の祭神・経津主命(ふつぬしのみこと)が関東から三笠山(奈良県)に向かう途中で、この地で休息した際に授かったという縁起が残っている。葦原中国を平定した両武神の力が宿る要石は大地のナマズをしっかり抑え、地震から人々を守っているといわれている。ナマズはこの神社のシンボルにもなっており、境内に石像がある他、絵馬に描かれていたり、可愛い願掛けの置物なども参拝者の人気を博している。また、拝殿横の極彩色に彩られた宝殿は、安土桃山時代の建築物で国の重要文化財にも指定されている。興味深いものが沢山あるので、ゆっくりと散策したいところだが、後の行程が控えているため、足早に神社を後にする。

そこで後日、改めて、神社に立ち寄り金山修宮司から色々なお話を聞かせて頂いた。境内の隣地を整備した丘から、初瀬街道沿いの重要な宿場町であった旧阿保宿を見下ろす。街道からもほど近いことから、伊勢神宮をめざす旅人の多くが訪れており、菅笠日記の中でも、本居宣長も立ち寄った時の様子を記している。そして、遠くに目をやれば、神々が住まう奈良県の山々まで見渡すことができる。今でも関西方面から国道を165号を通って伊勢神宮をめざす人たちの参拝は多く、街道の歴史はひそかに受け継がれているのだ。
この素晴らしいロケーションや境内の貴重な建物もさることながら、お話の中で感動したのは、氏子たちの信仰心の篤さだ。境内には、各町内の氏子の名前が書かれた寄進札が並んでおり、中には結婚などで遠くで暮らす人の名前も。草一つ生えていない美しい境内は婦人会の定期的な清掃活動の賜物という。また、金山宮司も、自ら地元の子供たちが参加するボーイスカウトで子供たちに様々な体験をする機会を提供するなど、決して押し付けない自然な形で神社との接点を見出していることにも感銘を受けた。
神社から少し離れた場所にはなるが、祭神である息速別命(阿保親王)の陵墓と伝わる古墳があり、宮内庁の所管となっている。田畑の真ん中に、木々が生い茂る陵墓が綺麗に残されている様子にロマンを掻き立てられる。実際に息速別命がここに眠っているかどうかは、考古学的に諸説あるようだが、息速別命は今も親王さんと呼ばれ、地元の人たちから親しまれている。息速別命の領民への惜しみない愛情が、地域の誇りを育み、今も神社の信仰を支えていることは疑うべくもない。久遠の思いが信仰を紡いでいるのだ。(本紙報道部長・麻生純矢)

ガードレールと草に埋もれる本居宣長の歌碑

ガードレールと草に埋もれる本居宣長の歌碑

初瀬街道を照らした伊勢路宿の常夜灯(伊賀市伊勢路)

初瀬街道を照らした伊勢路宿の常夜灯(伊賀市伊勢路)

この辺りの地名は伊賀市伊勢路。まさに関西方面から伊勢国に向かう国道165号のルーツである初瀬街道を示している。「一生に一度お伊勢さん」と日本中の誰もが思い、徒歩で神宮をめざした江戸時代から明治時代。青山峠を越えれば、いよいよ伊勢国に入る。そんな期待も入り混じった名前のように思える。

国道は木津川の支流である青山川に沿って谷間を走っている。しばらく進み、国道から旧道に入ると、お伊勢参りの参拝客で賑わった宿場町の伊勢路宿。最盛期には20軒以上の宿屋や商店が立ち並んでいた。街並みには往時の風情が残っており、宿屋だった家の軒先には行灯なども置かれている。街角にたたずむ常夜灯は、街道を行き来する数多の旅人たちの安全を見守ってきた。
時の流れと共に、青山峠を越える鉄道の開通やモータリゼーションの台頭など交通事情は変化し、宿場町としての役割は終えている。しかし、徒歩で旅をすると、ここに宿場町があった理由がよく分かる。難所・青山峠を越えて疲れ果てたところに、この宿の灯が見えた時、どれほど心強かったことだろう。舗装された道路を歩いてきた私ですら、そう思うのだから、当時の人の心情は計り知れない。道を通じて過去と心を通わせる瞬間にも、この旅の醍醐味を感じる。飛行機や新幹線を使えば、わずかな時間で遥か彼方まで移動できる。でも、だからこそ、あえて自分の足で気ままに歩く時間が最高に贅沢なのだ。

木津川にかかる中山橋と中山トンネル(伊賀市岡田)

木津川にかかる中山橋と中山トンネル(伊賀市岡田)

その後、私は青山川が合流した木津川に沿って進んでいく。やがて、本居宣長が菅笠日記の中にも記した伊賀の中山。今、中山橋がかかっているこの場所は、かつては木津川の水が氾濫し、板橋がすぐに流失するため、宣長も橋の無い状態の川を歩いて渡った。そして、中山と呼ばれる小山を迂回する形で旅人たちは川沿いの道を歩いた。当時は景勝地であり、宣長も美しい景色を見て通り過ぎるのが名残惜しいという気持ちを歌に詠んで遺したほどである。しかし、今では、そんな歴史を知る者も少なく、中山を貫通する中山トンネルがあるので、一瞬で通過する人しかいない。トンネルができる前に使われていた旧道沿いには、宣長の歌碑が建てられているが、ガードレールと草に埋もれて、なんとも寂しい姿に…。
道の流れは人の流れを変える。人の流れが変われば、道沿いの景色も変わる。宣長が感動した往時の美しさを想像しながら、私はトンネルの中を進んでいく。
(三重ふるさと新聞報道部長・麻生純矢)

スタート地点の近鉄西青山駅前

スタート地点の近鉄西青山駅前

6月9日9時過ぎ。気持ちの良い快晴。近鉄西青山駅からスタート。今日の目的地は、近鉄名張駅。距離にすると17㎞ほど。前回と比べると、かなり楽な道のりになると思う。
2月末だった前回と比べると、国道沿いも初夏の様相。ガードレールの足元から青葉が生い茂り、その葉は勢いよく天を仰いでいる。したたかに降り注ぐ日差しを浴びながら、しっかりとした足取りで私は国道を歩き

近鉄大阪線の鉄橋の下にある祠(仮)

近鉄大阪線の鉄橋の下にある祠(仮)

始める。しばらく歩道がないので、いつものように車をかわすこととなる。もう慣れた事とはいえ、危険と隣り合わせな事には変わりない。気を引き締めていこう。
そんなことを考えていると、遠くに車の影が見えた。ちょうど身をかわせそうなスペースがあったので、やりすごそうとした刹那。その車の後ろから、猛スピードで迫りくる別の車が。見通しの悪い上り坂で無理な追い越しをしようとして対向車とあわや正面衝突しそうになりそうな所を目撃する。たまたま上手くやりすごせたから良かったが、あのスピードはこの道を人が歩いているなんて、全く想定していないのは明白。今、自分がやっている事がどれほど危険かを再認識し、より注意深く国道を歩く。
少し歩くと近鉄大阪線の鉄橋。鉄骨が組まれた足元には、小さな木箱を重ね、その上にトタンを載せた手づくりの祠のようなものがある。これは、ここを歩かないと絶対に気付かない。上まで登ってじっくりと確かめたいが、不用意な寄り道で時間を食われたり、思わぬ怪我をしてはつまらないので泣く泣く通過する。しかし、しばらくの間は、あれが何であるかということで頭がいっぱい。祠(仮)の脇には、線香立てと花生けのようなものがあったことからも、置かれているというより、祀られているという表現が適切だろう。
まず頭に浮かんだのは、あそこで何らかの悲しい事故が起こり、その供養のために置かれているという線。最も妥当なように思えるが、そうであれば、もっとしっかりとしたものを置くような気がする。
次に頭に浮かんだのは、橋の下ならば雨風がしのげるので、ここで暮らす路上生活者が仏壇替わりに祀ったという線。失った家族や仲間を弔うためなのか、はたまた先祖供養かはわからない。孤独な生活の中で、唯一「人」と繋がれる心の拠りどころになっているのかもしれない。だが、人里から少し離れ、往来が危険なここで生活するのは余り効率が良くない気もする。歩を進めるごとに妄想は膨らむばかり。
ただ一つだけ言えるのは、芥川龍之介の名作「藪の中」よろしく、世の中には真実が分からないからこそ、面白いものがあるということ。白黒つけるより余白を楽しむくらいが丁度良い。(本紙報道部長・麻生純矢)

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