国道165号を遡る

青山トンネル

青山トンネル

時刻はちょうど17時。ようやく青山峠のランドマークの一つ白山トンネルへ。車で登れば、峠のふもとからここまで10分もかからないが1時間半以上かかっている。左足裏の痛みも疲労も限界に近いので、文字通り力を振り絞りながら、一歩ずつ進んでいく。このトンネルを歩いて渡るのは初めてだが、両脇に歩道が設けられているので、ここまでの道のりよりも遥かに安全に歩くことができる。日が落ちかかって薄暗い山中にあって、更に暗いトンネル内の雰囲気は不気味に思う人も多いと思うが、私は安堵すら感じている。
このトンネルや、もう少し先にある青山トンネルは心霊スポットとして取り扱われることもあるが、私は、昭和46年(1971)に起こった「近鉄大阪線列車衝突事故(青山トンネル事故)」が起こった旧青山トンネル及び旧総谷トンネルと混同されているのではないかと思っている。この事故は、近鉄大阪線の旧西青山駅と旧東青山駅の間にあったトンネル内で起こった大事故で未だに謎が残っている。当時同線は複線化が進んでいたが、険しい青山峠を越えるこの辺りはトンネルがいくつも連なる難所で単線のままだった。同年10月25日、大阪上本町から発車した特急電車が、旧青山トンネル内で自動列車停止装置の故障が原因で急停止。乗客を乗せたまま、立ち往生した。運転士は様々なことを試したがブレーキが解除できず、急こう配であったため、車両を輪止めで固定した後にブレーキのシリンダーから空気を抜くという非常措置を講じた。ここまでは緊急停止時の正しい対処法だった。謎に包まれているのは、この後である。東青山駅から駆け付けた助役は、現場に駆け付けるとなぜか輪止めを外してしまい、運転室に戻った運転士がブレーキを解除する。車両はブレーキが利かない状態で急こう配を下り始め推定速度120㎞で暴走し始めた。そのまま総谷トンネルの手前で脱線し、3両目以降はトンネル入口に激突して停止したが、1・2両目は横転したままトンネルに突入。賢島発京都・大阪難波行の特急と正面衝突した。その結果、両列車の運転士と車掌、及び東青山駅の助役の5名と上本町発特急の乗客20名の計25名が亡くなる大惨事になった。
なぜこのような事故が起きたかの詳細は、運転士と助役が共に亡くなっているので闇の中である。この事故の影響で、近鉄は新青山トンネルを完成させるなど、同線を全線複線化し、西青山駅と東青山駅を現在の場所に移転させている。
私は青山トンネルをくぐりながら、痛ましい列車事故の記憶が、同じ名前を関する国道のトンネルと混同され、形を変えて今に語り継がれているのではないかと想像を膨らませる。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言うではないか。
夕暮れ時に、暗いトンネル内部を歩いている物好きなどいるとは思わないだろう。今ここで私の姿を見た人が、幽霊と誤認し、都市伝説として語り継がれる可能性も否定はできない。全てがそうとは思わないが、都市伝説の多くがそのような類ではないかと邪推する。(本紙報道部長・麻生純矢)

青山高校の入り口付近(津市白山町八対野)

青山高校の入り口付近(津市白山町八対野)

山林に投げ捨てられたゴミ

山林に投げ捨てられたゴミ

国道165号白山町垣内交差点から、青山峠に向かって伸びる坂道を上り始める。車では何度も通ったことがある道だが、歩いて上るのは初めて。時刻は15時半前、目的地のJR西青山駅まで約10㎞。ちなみにここまで歩いた距離は15㎞。普段運動なんてしない私にとっては、体力が尽きかけているここからが本番。「でも、きっと大丈夫」と高を括る。もちろん、根拠なんて微塵もないが、やってやれないことなんて、人生にそう多くはないのだから。
この辺りの国道は、歩道が無いばかりか路側帯も狭い。大型車の往来も少なくないので、退避所などでやり過ごしながら、ゆっくりと進んでいく。何度も繰り返しになるが、私の真似をして国道を歩こうなんて考えてはいけない。私の身一つでこと足りるこの旅にお金はかかっていないが、危険と隣り合わせなのは否定できない。もちろん、細心の注意を払かなければならない。
左足裏の痛みは、広く深くなっており、大地を踏むたびに痛みが走る。間違いなく水ぶくれが十円玉大まで膨らんでおり、それが派手に潰れたのだろう。延々と続く坂道は、そんな事情などお構いなしに疲労の溜まった足を容赦なく責め立てる。これまでの道のりと比べると大幅にペースダウンしている。
やがて、私立青山高校の入り口が見える。敷地内にある休園中の日生学園付属幼稚園は非常に思い出深い場所である。園長だったY先生には駆け出しの頃からしばらく、とてもお世話になった。思い返すと若気の至りのようなつまらない悩みにも、真摯に耳を傾けて頂いた。今の私がこの仕事を続けられているのも先生のおかげ。非常に向学心のある方で、小学校教諭を定年退職されてから、幼児教育の世界に飛び込み、海外での日本語教育にも尽力されていた。勉強以上に大切なことを教わった私の人生における恩師と呼べる方の一人である。立ち止まってゆっくりと思い出に浸っている訳にはいかないが、一歩踏み出す度に色々な思い出が蘇る。過去から積み上げてきた一歩の延長線上に、現在の私がいるのだと思うと身体の底から力が湧いてくる気がする。
峠道を登り始めてここまで約30分。思ったより順調かもしれない。ふと、ガードレールの向こう側に目をやると、投げ捨てられた無数のゴミが山林に散らばっている。きっと車窓から投げ捨てられたものばかりだろう。これは歩かないと絶対に気づくことができない。だからこそ、ここにゴミを投げ捨てるのだ。私がこの旅の醍醐味として掲げている『既知の向こうにある未知』は、美しいものばかりを指すわけではない。むしろ、こういった人の醜さや業を、白日の下に晒すことこそ、その本質と言える。だから、私はこのゴミを捨てた人たちを非難するつもりは毛頭ない。人間誰しもが、光と影を抱えているからだ。
ここにゴミを投げ捨てた人たちも、普段は間違いなく善良な市民として生きているはず。人は自分にも影が存在していることを忘れ、人の影を執拗に責め立てようとする。しかし、影と光は表裏一体。どちらかを否定すれば、もう片方の存在も揺らぐ。凄惨な事件を起こした犯人について近隣住民が「あんな良い人が信じられない」とコメントをする光景を見たことがないだろうか。まさに光と影の存在を示す象徴的な事例だろう。このゴミは誰の心にも存在する影が具現化した姿に過ぎない。目を反らさずに受け止めて心に刻もう。これは私の影でもあり、あなたの影でもあるのだから…。(本紙報道部長・麻生純矢)

国道165号の青山峠のふもと(白山町垣内)

国道165号の青山峠のふもと(白山町垣内)

時刻はちょうど12時頃。三ケ野の集落の入り口を過ぎ、足裏の痛みも気になっていたので、どこかで昼食をとりながら、しばらく休みたいと思っているところに、ザ・昭和な外観のレストランを発見。ドアを開けると、ちょうどお昼時なこともあり、店にぎわっう店内。私はカウンターの端に腰掛ける。
店内は昭和の古き良き町のレストランという雰囲気。私の席の真正面に当たるカウンター内の壁には、ジミ・ヘンドリクスやランディ・ローズといった往年のロックスターのポスターなどが所狭しと飾られている。お店の方がきっと音楽好きなのだろう。しばらく、眺めている内に思わずオーダーするのを忘れそうになってしまう。慌てて、メニューを手に取り、ハンバーグがメインのランチを注文。
左足裏に鈍い痛みが走り続けているが、食事をしている人たちが周囲にたくさんいる手前、靴を脱いで状態を確かめるわけにもいかない。幸い高椅子なので、足裏へ負担がかからないのはありがたい。足をぶらつかせて気を紛らわしながら、再びカウンターの壁面に視線を戻し、そこで繰り広げられる豪華スターの競演に妄想を膨らませる。
少し待つと注文したランチが到着。至福のひと時だが、混んでいるので長居はすまいと、手早く食べ終えてレジで支払いをする。奥の厨房をのぞき込んでみると、とても忙しそうな様子。「ごちそうさまでした」と声を掛けると「ありがとうございました」。心も腹も満たされた私は上機嫌で店を後にする。
12時半頃。再び国道へ戻り、歩き始めると非情な現実がたちはだかる。左足裏には一歩歩くごとに痛みが走る。少し進むと近鉄大阪線の高架。今から数時間後には青山峠を越え、この路線で無事に帰ってくることができるだろうか。未だ遠くにそびえる青山高原の方へ目を向けると少し弱気になってしまう。なんとか気力を振り絞り、そこからは無心で国道を進む。
休んでは進むを繰り返し、歩くこと3時間。疲労困憊の状態で、なんとか白山町垣内の青山峠の麓までたどり着くことができた。安全な場所にへたりこみ、体を休める。後はいよいよ最後の大仕事である峠越えをするのみ。ただ西青山駅まではまだ約10㎞もある。峠へと続く長い上り坂をぼんやりと眺めながら、脳裏には本居宣長の「菅笠日記」のことは思い浮かんでいる。宣長は吉野の桜を見るため、早朝に松阪を出発。途中、二本木宿で食事休憩をし、初瀬街道を通って青山高原の向こうの阿保宿まで一日で歩いているのだ。初瀬街道は国道165号のルーツであることは以前お話した通り。今日の私は多少の差異はあれど、途中からは宣長とほぼ同じ行程を歩んでいるのだ。
当たり前の話だが当時の街道は舗装なんてされていないし、履物だって私が履いているランニングシューズとは比較にならないぐらい性能は悪かったはず。冷静に考えると、当時43歳だった宣長の健脚ぶりにはただただ驚かされるばかりだ。
今から歩く峠道だってそうだ。昔はトンネルなどないので山を丸ごと越えるしかない。松阪からここまで歩いたその足で、峠道を歩いて越え、宿を目指すのだ。宣長よりも年下の私としては負けるわけにはいかない。残る力を振り絞って立ち上がり、おぼつかない足取りで峠へと伸びる国道を上り始めた。(本紙報道部長・麻生純矢)

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