国道165号を遡る

ガードレールと草に埋もれる本居宣長の歌碑

ガードレールと草に埋もれる本居宣長の歌碑

初瀬街道を照らした伊勢路宿の常夜灯(伊賀市伊勢路)

初瀬街道を照らした伊勢路宿の常夜灯(伊賀市伊勢路)

この辺りの地名は伊賀市伊勢路。まさに関西方面から伊勢国に向かう国道165号のルーツである初瀬街道を示している。「一生に一度お伊勢さん」と日本中の誰もが思い、徒歩で神宮をめざした江戸時代から明治時代。青山峠を越えれば、いよいよ伊勢国に入る。そんな期待も入り混じった名前のように思える。

国道は木津川の支流である青山川に沿って谷間を走っている。しばらく進み、国道から旧道に入ると、お伊勢参りの参拝客で賑わった宿場町の伊勢路宿。最盛期には20軒以上の宿屋や商店が立ち並んでいた。街並みには往時の風情が残っており、宿屋だった家の軒先には行灯なども置かれている。街角にたたずむ常夜灯は、街道を行き来する数多の旅人たちの安全を見守ってきた。
時の流れと共に、青山峠を越える鉄道の開通やモータリゼーションの台頭など交通事情は変化し、宿場町としての役割は終えている。しかし、徒歩で旅をすると、ここに宿場町があった理由がよく分かる。難所・青山峠を越えて疲れ果てたところに、この宿の灯が見えた時、どれほど心強かったことだろう。舗装された道路を歩いてきた私ですら、そう思うのだから、当時の人の心情は計り知れない。道を通じて過去と心を通わせる瞬間にも、この旅の醍醐味を感じる。飛行機や新幹線を使えば、わずかな時間で遥か彼方まで移動できる。でも、だからこそ、あえて自分の足で気ままに歩く時間が最高に贅沢なのだ。

木津川にかかる中山橋と中山トンネル(伊賀市岡田)

木津川にかかる中山橋と中山トンネル(伊賀市岡田)

その後、私は青山川が合流した木津川に沿って進んでいく。やがて、本居宣長が菅笠日記の中にも記した伊賀の中山。今、中山橋がかかっているこの場所は、かつては木津川の水が氾濫し、板橋がすぐに流失するため、宣長も橋の無い状態の川を歩いて渡った。そして、中山と呼ばれる小山を迂回する形で旅人たちは川沿いの道を歩いた。当時は景勝地であり、宣長も美しい景色を見て通り過ぎるのが名残惜しいという気持ちを歌に詠んで遺したほどである。しかし、今では、そんな歴史を知る者も少なく、中山を貫通する中山トンネルがあるので、一瞬で通過する人しかいない。トンネルができる前に使われていた旧道沿いには、宣長の歌碑が建てられているが、ガードレールと草に埋もれて、なんとも寂しい姿に…。
道の流れは人の流れを変える。人の流れが変われば、道沿いの景色も変わる。宣長が感動した往時の美しさを想像しながら、私はトンネルの中を進んでいく。
(三重ふるさと新聞報道部長・麻生純矢)

スタート地点の近鉄西青山駅前

スタート地点の近鉄西青山駅前

6月9日9時過ぎ。気持ちの良い快晴。近鉄西青山駅からスタート。今日の目的地は、近鉄名張駅。距離にすると17㎞ほど。前回と比べると、かなり楽な道のりになると思う。
2月末だった前回と比べると、国道沿いも初夏の様相。ガードレールの足元から青葉が生い茂り、その葉は勢いよく天を仰いでいる。したたかに降り注ぐ日差しを浴びながら、しっかりとした足取りで私は国道を歩き

近鉄大阪線の鉄橋の下にある祠(仮)

近鉄大阪線の鉄橋の下にある祠(仮)

始める。しばらく歩道がないので、いつものように車をかわすこととなる。もう慣れた事とはいえ、危険と隣り合わせな事には変わりない。気を引き締めていこう。
そんなことを考えていると、遠くに車の影が見えた。ちょうど身をかわせそうなスペースがあったので、やりすごそうとした刹那。その車の後ろから、猛スピードで迫りくる別の車が。見通しの悪い上り坂で無理な追い越しをしようとして対向車とあわや正面衝突しそうになりそうな所を目撃する。たまたま上手くやりすごせたから良かったが、あのスピードはこの道を人が歩いているなんて、全く想定していないのは明白。今、自分がやっている事がどれほど危険かを再認識し、より注意深く国道を歩く。
少し歩くと近鉄大阪線の鉄橋。鉄骨が組まれた足元には、小さな木箱を重ね、その上にトタンを載せた手づくりの祠のようなものがある。これは、ここを歩かないと絶対に気付かない。上まで登ってじっくりと確かめたいが、不用意な寄り道で時間を食われたり、思わぬ怪我をしてはつまらないので泣く泣く通過する。しかし、しばらくの間は、あれが何であるかということで頭がいっぱい。祠(仮)の脇には、線香立てと花生けのようなものがあったことからも、置かれているというより、祀られているという表現が適切だろう。
まず頭に浮かんだのは、あそこで何らかの悲しい事故が起こり、その供養のために置かれているという線。最も妥当なように思えるが、そうであれば、もっとしっかりとしたものを置くような気がする。
次に頭に浮かんだのは、橋の下ならば雨風がしのげるので、ここで暮らす路上生活者が仏壇替わりに祀ったという線。失った家族や仲間を弔うためなのか、はたまた先祖供養かはわからない。孤独な生活の中で、唯一「人」と繋がれる心の拠りどころになっているのかもしれない。だが、人里から少し離れ、往来が危険なここで生活するのは余り効率が良くない気もする。歩を進めるごとに妄想は膨らむばかり。
ただ一つだけ言えるのは、芥川龍之介の名作「藪の中」よろしく、世の中には真実が分からないからこそ、面白いものがあるということ。白黒つけるより余白を楽しむくらいが丁度良い。(本紙報道部長・麻生純矢)

青山トンネル

青山トンネル

時刻はちょうど17時。ようやく青山峠のランドマークの一つ白山トンネルへ。車で登れば、峠のふもとからここまで10分もかからないが1時間半以上かかっている。左足裏の痛みも疲労も限界に近いので、文字通り力を振り絞りながら、一歩ずつ進んでいく。このトンネルを歩いて渡るのは初めてだが、両脇に歩道が設けられているので、ここまでの道のりよりも遥かに安全に歩くことができる。日が落ちかかって薄暗い山中にあって、更に暗いトンネル内の雰囲気は不気味に思う人も多いと思うが、私は安堵すら感じている。
このトンネルや、もう少し先にある青山トンネルは心霊スポットとして取り扱われることもあるが、私は、昭和46年(1971)に起こった「近鉄大阪線列車衝突事故(青山トンネル事故)」が起こった旧青山トンネル及び旧総谷トンネルと混同されているのではないかと思っている。この事故は、近鉄大阪線の旧西青山駅と旧東青山駅の間にあったトンネル内で起こった大事故で未だに謎が残っている。当時同線は複線化が進んでいたが、険しい青山峠を越えるこの辺りはトンネルがいくつも連なる難所で単線のままだった。同年10月25日、大阪上本町から発車した特急電車が、旧青山トンネル内で自動列車停止装置の故障が原因で急停止。乗客を乗せたまま、立ち往生した。運転士は様々なことを試したがブレーキが解除できず、急こう配であったため、車両を輪止めで固定した後にブレーキのシリンダーから空気を抜くという非常措置を講じた。ここまでは緊急停止時の正しい対処法だった。謎に包まれているのは、この後である。東青山駅から駆け付けた助役は、現場に駆け付けるとなぜか輪止めを外してしまい、運転室に戻った運転士がブレーキを解除する。車両はブレーキが利かない状態で急こう配を下り始め推定速度120㎞で暴走し始めた。そのまま総谷トンネルの手前で脱線し、3両目以降はトンネル入口に激突して停止したが、1・2両目は横転したままトンネルに突入。賢島発京都・大阪難波行の特急と正面衝突した。その結果、両列車の運転士と車掌、及び東青山駅の助役の5名と上本町発特急の乗客20名の計25名が亡くなる大惨事になった。
なぜこのような事故が起きたかの詳細は、運転士と助役が共に亡くなっているので闇の中である。この事故の影響で、近鉄は新青山トンネルを完成させるなど、同線を全線複線化し、西青山駅と東青山駅を現在の場所に移転させている。
私は青山トンネルをくぐりながら、痛ましい列車事故の記憶が、同じ名前を関する国道のトンネルと混同され、形を変えて今に語り継がれているのではないかと想像を膨らませる。「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言うではないか。
夕暮れ時に、暗いトンネル内部を歩いている物好きなどいるとは思わないだろう。今ここで私の姿を見た人が、幽霊と誤認し、都市伝説として語り継がれる可能性も否定はできない。全てがそうとは思わないが、都市伝説の多くがそのような類ではないかと邪推する。(本紙報道部長・麻生純矢)

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