国道165号を遡る

大神神社の門前町

大神神社の門前町

藤原京大極殿跡から仰ぎ見る香久山(手前の山)

藤原京大極殿跡から仰ぎ見る香久山(手前の山)

7月6日9時半頃。奈良県桜井市の近鉄桜井駅に降り立った私は前回の中断地点まで戻る。月並みだが、国道165号を終点から始点に向かって遡る旅も思えば遠くまできたものである。旧の国割で考えると伊勢、伊賀、大和の三国にまたがる旅路。ここから先は、今までプライベートでも訪れたことがないため、私にとっては文字通り未知となる。どこまでいけるかは分からないが、肩ひじ張らずいけるところまで行く。要するに「いつも通り」である。できれば奈良と大阪の県境を越えたいと思いながら歩き始める。
建物が密集していた桜井駅近辺から離れるにつれ、田舎の風景が広がる。歩道は途切れ途切れで、交通量はかなり多いため、安全第一で焦らず、車を一台一台やり過ごしながら進む。
少し歩くと桜井市と橿原市へ。その名の通り、最初の天皇である神武天皇をまつった橿原神宮が市のシンボルである。20分ほど歩くと「香久山交番」という看板が立てかけられている。それを見た私は、すぐに周囲を見渡し、それらしき山を探す。香久山といえば、そう百人一首に収められている持統天皇の歌「春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山」でご存じの方も多いはず。耳成山、畝傍山と並び大和三山の一角を成す山である。
どの山かわからなかったため、安全な場所まで移動してスマートフォンの地図アプリで山の場所を確認する。少し見づらいが、それらしき小山が見える。古くから神聖な山として信仰を集め、多くの歌に詠まれた山であるが、平べったい小山で特段見栄えが良いわけでもない。
どうやら、国道からほど近い場所には持統天皇が築き、694年に遷都された藤原京の跡地があるようだ。国道からは少し距離があるので、この日は立ち寄らず、後日改めて訪れてみることに。すると、なぜこの山を持統天皇が歌に詠んだのかが少し理解できた。
持統天皇については以前も少しお話をしたことがあるが、彼女の父である天智天皇、そして夫である天武天皇の時代に、皇族同士の権力闘争が激化。血で血を洗う権力闘争を繰り広げた時代を生き抜いた女性である。彼女が他の女性天皇と一線を画す点は、自身が優れた為政者であったこと。時には非情な判断を下し、権力闘争を勝ち抜いた彼女のことを強く賢い女性と捉えるか、したたかで冷酷な女性と捉えるかは人それぞれである。
藤原京の跡地は史跡として整備はされているが、門のあった場所に柱が建てられているのみで往時の景色は図面と照らし合わせながら想像するしかない。持統天皇が政務を行った大極殿の位置から香久山を仰ぎ見る。なるほど、彼女が毎日見上げていたこの山は、神聖な存在であると同時に、彼女にとって日常の象徴だったのではないかと感じる。深読みさえしなければ、彼女が詠んだ歌の内容は、季節が春から夏へと移り変わる様を香久山に干された白い衣を見て感じるというシンプルなもの。血なまぐさい政争を幾度となく乗り越えた彼女だからこそ、あえて歌に日常の貴さを詠み込んだのかもしれない。耳成山、畝傍山と共に古都を囲む香久山を見ながら、そんなことを考えていた。(本紙報道部長・麻生純矢)

大神神社の拝殿

大神神社の拝殿

大神神社の門前町

大神神社の門前町

ゴールの桜井駅から北上し、大神神社をめざす。距離は約2㎞。余力も残っているので流すには、ちょうど良い距離でもある。
有名な観光地を巡るのも楽しいが、なじみの薄い土地で暮らす人々の営みにふれるのも負けないくらい楽しい。もうゴールには縛られていないので、より純粋に徒歩旅の醍醐味を楽しんでいる。道中には、年季の入った店構えの美容室や、地元の人たちに愛されているであろう飲食店など、街の人々の生活や息遣いを感じる町並み。それは、どこにでもあるようで、ここにしかない景色。車のスピードでは気付かずに通り過ぎてしまう何気ない事物にも目を向け、興味がありそうなものがあれば、少し足を止めて観察する。人生のコンパスともいえる知見を育む最も基本的なやり方である。年を取れば取るほど、ありふれた景色の中に気付きが増えていくのは、幾千、幾万と繰り返してきた知見を育む行為の賜物である。
駅から北上し、大和川を渡ると、より強く歴史的な雰囲気が漂う風景になったような気がする。スマホで調べると、桜井市の景観条例の重点地区に入ったらしい。道沿いにある立派な町家の前に立っている小さな看板を読むと修築して利活用するといったことを行っているようだ。町の風景は、過去の人々の営みを現代に生きる人が受け継ぎ、未来をどうしていくかを考えた結果うまれる。ただし、現代に生きる私たちは目の前のことで精一杯。過去と未来にまで配慮が及ぶ人は少ない。万葉の歌人にも愛された三輪山や大神神社の近くで育まれてきたこの地域のアイデンティティを守るため、長いスパンで物事を考えられる行政がうまくそれをコントロールしていく必要があるのだ。
大神神社が近づくにつれ、町並みもよりそういった色が濃くなっていく。門前町の商店の軒先を眺めながら歩くと、大神神社に到着。
三輪山そのものを本尊とする神社で大和国の一宮。創建は神代にまで遡る日本を代表する古社。伊勢神宮と関係が深いというお話を前回したが、天照大神は大神神社の摂社・檜原神社がある場所に存在した倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)に宮中から移され、祀られて以降、最も理想的な場所を求め、各地を転々として今の場所へとたどり着いた。そのため、元伊勢の地とも呼ばれる。
鳥居をくぐって直進すると、国の重要文化財にも指定されている拝殿がある。三輪山そのものが御神体であるため、本殿は存在しないのがユニークである。神前でまず、今日の旅路も無事に終えることができたことに感謝する。広い境内や周囲には様々な見どころもあるが、流石に少し疲れたので欲張らず、次の機会の楽しみとしよう。その前に、拝殿の前にある小さな鳥居をくぐり、縁結びや夫婦円満に御利益があるという夫婦岩の前へ。私は婚活アドバイザーとの二足のわらじをはいているため、サポートをしている人たちの良縁と、幸せを掴んだ人たちの夫婦円満、ついでに我が家の平穏を祈願。JR三輪駅から帰路へつく。いよいよ、次回からの行程は私の未知の領域に踏み込んでいくこととなる。(本紙報道部長・麻生純矢)

大神神社の標識(奈良県桜井市慈恩寺)

大神神社の標識(奈良県桜井市慈恩寺)

この日のゴールの桜井駅

この日のゴールの桜井駅

大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 大和し美し。
古事記に収められた日本武尊の有名な歌。舞台は、この奈良県桜井市である。私は彼が最期を迎えたという能褒野(現在の亀山市)からほど近い場所で生まれ育ったので、日本武尊はとても馴染み深い存在。幼少期、幾度となく彼の英雄譚に想いを馳せ、大学の卒業論文のテーマにもした。そもそも三重という県名も彼に由来している。
日本武尊からは話がそれるが、実は津市と桜井市の歴史的な縁は深い。江戸時代に津藩の領地が市域の大きな割合を占めていたからだ。津藩の交通政策によって伊勢・伊賀・大和三国を結ぶ道路の整備が行われている。初瀬街道から生まれた国道165号。私のこの旅もある意味、過去から結ばれた縁に従った必然と言えるかもしれない。
本筋に話を戻そう。現在地は国道165号の桜井市慈恩寺付近。目的地と定めた桜井駅まで2・5㎞。何事も無ければ、あっという間に辿り着いてしまうので、いささか物足りない感じはする。逡巡していると、道路標識には「大神神社」の表記。「おおみわじんじゃ」の名の通り、額田王の歌「味酒 三輪の山 あをによし…」などでも有名な三輪山を御神体にした神社。三重県のアイデンティの一つになっている伊勢神宮とも関係が深い。桜井市は何かとご縁を感じることが多い土地であることを改めて実感する。
国道沿いではないが、スマートフォンの地図アプリで桜井駅からの距離を調べてみると徒歩圏内。「よし!ゴールの桜井駅から大神神社に寄っていこう」。心が決まると足取りが羽のように軽くなる。桜井駅に向かう国道沿いには、福岡県宗像市の「宗像大社」と同じく宗像三女神をまつる宗像神社や、国史跡の桜井茶臼山古墳など、歴史ロマンを掻き立てるスポットもある。
私はそれほど歴史に詳しいわけではないし、まして専門的な教育を受けたわけでもない。ただ、年を取ればとるほど、歴史に興味を持つ人たちの気持ちが理解できるようになった。
同じ景色を見ていても、歴史的な背景を理解しているかどうかで一度に手に入る情報量がまるで違うからだ。人の営みは、無数の点が連なって構成される線のようもの。その線を束ねた縄のような存在が歴史である。歳を重ね、自分に与えられた命が短くなればなるほど、情報収集の効率化が求められる。旅先で初めて目にした景色の中でさえ、縄を見出し、手繰ることが出来れば、多くの情報を手に入れることができる。若い頃に一度行った場所に歳を重ねてから訪れると見え方がまるで違う。よく若返りたいという話を聞くが、私は今よりも更に無知だった状態に戻ることが恐ろしい。死という全ての人に等しく約束された幕引きが近づくにつれ、生命を効率的に使う術が自然と身についていることに、神秘性を感じずにはいられない。
眼前に流れる見知らぬ街の見知らぬ景色を愛でながら進むと、ほどなく桜井駅のJR側に到着。今日の行程としては無事にゴールを迎えられたが、エキシビジョンマッチと銘打って、ここから北へ2㎞ほどの大神神社へ向かう。(本紙報道部長・麻生純矢)

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