国道165号を遡る

山部赤人の墓への道標

山部赤人の墓への道標

ゴールの近鉄榛原駅

ゴールの近鉄榛原駅

時刻は13時過ぎ。この辺りは旧榛原町。榛原駅をめざして後はまっすぐ進んでいくのみ。宇陀市に入ってからここまで、山間の集落という雰囲気が続いていたが、少し変化を感じる。国道沿いの飲食店やドラッグストアなどの店舗が増えているからだ。立ち止まってスマホで調べてみると、榛原駅からは奈良と大阪まで一時間ほどと十分に通勤圏内。国道からほど近い山の上に大きな団地があるのも納得がいく。これが正解かどうかは分からないが、微妙な街並みの変化から推測を巡らせ、自分なりの結論を導き出すのもまた一興。リアルタイムで、その推測に対する一定の答えが導き出せるのも良い時代の変化だ。現代社会において、情報の伝達や浸透は一瞬だが、それが本当であるのかということにまで考えが至らないことも多い。自分の目で見て、足で歩いて、手に入れた情報を基に考える。とても贅沢な時間の使い方をしていると実感する。
ふと路傍に目をやると「山べの赤人」と刻まれた古びた道標がある。どうやら近くにある三十六歌仙・山部赤人の墓への案内らしい。意外なところでのビッグネームとの邂逅も下調べしないぶらり旅ならではの醍醐味。
ほどなく元気の良い若い女性の声がスピーカーを通して聞こえてくる。「次の競技は2年生による〇△です」。どうやら、昼食を食べた食堂で「お子さんの運動会ですか?」と声をかけられたように、近隣にある学校では運動会や体育祭が行われているようである。その時、そう声をかけられて自分が人の親であるように見られたのが嬉しかったのには理由がある。我が家では不妊治療に取り組んでいるからだ。妻は体調管理にも励み、辛いことがあっても前向きに頑張っている。その過程での体験から、子供は簡単に生まれてくるものではないことを実感しているので、そんな大きな試練を乗り越えた存在であると認知されたことに喜びを感じるのだ。例え、自分の子供でなくても、子供たちが貴重な存在であるという知見を得られたことは私の人生を豊かにしてくれる。彼ら、彼女らが競技に興じる様子を想像しながら歩いていると近鉄榛原駅に到着。時刻は14時半過ぎ。
長谷寺まで歩けなくはない時間だが、ここまで歩いた分の足への負担を考えると単純な距離以上に時間がかかってしまう可能性がある。せっかく立ち寄るのであれば、それなりにゆっくり時間をかけて参拝もしたい。というわけで、今日はここでゴールイン。
切符を買って改札に入り、ホームで車が置いてある名張駅方面に向かう電車を待つ。ベンチに座りスマホを見ると、誤操作でしばらく会っていない知り合いにテレビ電話をかけてしまっていたようである。操作ミスであることを伝え、お詫びのメッセージを告げると、ほどなく返信がある。そこから近況など、他愛もない世間話のやり取りが続く。コロナ禍でも、偶然から生まれたコミュニケーションで人と人とが繋がれるのは、技術の革新の素晴らしさだと思う。やがて、電車がホームへ到着。流石に車内は空いている。名張駅までの線路は国道に沿う形で続いているので、車窓からこれまで歩いた風景を振り返るように楽しみつつ帰路へつく。(本紙報道部長・麻生純矢)

三重県と奈良県の県境

三重県と奈良県の県境

国道を歩く人を目で見送る

国道を歩く人を目で見送る

休憩に立ち寄った道の駅「宇陀路室生」

休憩に立ち寄った道の駅「宇陀路室生」

いよいよ三重県と奈良県の県境。この旅も、ここからがようやく本番と言っても良いかもしれない。名張市と接しているのは、奈良県宇陀市の旧室生村にあたる市域。室生と聞くとすぐに思い浮かぶ人も多いと思うが、女人高野として名高い室生寺もある。
宇陀川に沿って走る国道沿いは、のどかな田舎の風景が広がっている。もう慣れたとはいえ、歩道は途切れがちで、大型車の往来も盛んなことから気を引き締めて進んでいく。以前に国道163号を踏破した時も思ったが「こんな無謀なことをしているのは、自分だけだろう」という根拠がない自負があった。165号についてもそうだろうと慢心していた。しかし、県境の少し手前付近で、年の頃では40代半ばの男性が国道を歩いてくるところ目撃した。歩きやすい服装でリュックサックを背負っている。なんらかの事情で、やむを得ず歩いているというよりは、明らかに自分の意志で歩く能動的な意志を感じる。つまり、彼もお仲間ということだ。お互いに軽く会釈を交わし、すれ違う。少し足を止めて、小さくなる彼の背中を見守りながら、ひょっとしたら関西方面から初瀬街道を歩くのが流行っているのかもしれないなどと妄想を膨らませる。確かに、このあたりは近鉄大阪線が国道にそって走っているので行き帰りも容易。おかげさまで帰りの交通手段を心配する必要がない。
そんなことを考えながら、しばらく進むと道の駅「宇陀路室生」。ベンチに腰を下ろし、少し休憩を取る。国道の方に目をやると、先ほどの男性と同じくリュックサックを背負って歩く60代くらいの夫婦を目撃。平日の昼間に同じことをしている人を二組も見かけたのだ。やはり、旧初瀬街道をルーツとするこの国道を歩くことを楽しんでいる人たちが一定数存在している。国道163号を歩いている時は一度も出会わなかったので新鮮な感覚である。
この道を踏み固めてきた数多の故人たちと心を通わせ、未来への思いを新たにする。今、この国道を歩いている人たちとも道を通じて心が繋がっていると思うと、得も言われない感覚がこみあげてくる。疲れも和らいだところで、私はベンチから立ち上がり、再び国道へと戻る。(本紙報道部長・麻生純矢)

風光明媚な赤目四十八滝(名張市赤目町)

風光明媚な赤目四十八滝(名張市赤目町)

「鹿高神社」(名張市安部田)

「鹿高神社」(名張市安部田)

9月24日9時半。空を隈なく覆う雲のヴェール。頬をなでる風は涼やかで秋の訪れを実感する。今回の目的地は、奈良県宇陀市の近鉄榛原駅。距離にして約18㎞。近鉄名張駅付近に車を停めた私は、国道165号まで戻り、宇陀川に沿って西へと進んでいく。
しばらく、歩道が続くので心は安らか。少し歩くと、赤目四十八滝への案内が見える。豊かな緑と清流に連なる滝が織りなす景色が風光明媚な場所である。国道からは距離があるので、立ち寄りはしないが、私も好きな場所なので少しご紹介しよう。古くは山岳信仰を基とする修験道の修行場であり、伊賀忍者も修行したという伝説も残る。特に紅葉のシーズンは多くの人でにぎわう。ただ起伏のある川べりの道をそれなりの距離を歩くので、しっかりとした運動靴で訪れることをオススメする。
話を国道に戻し、しばらくすすむと「鹿高神社」があるので道中の安全を祈り参拝する。国道165号は初瀬街道がルーツだが、この神社の創建のいわれに大きくかかわっているのが、この道を通って、この地に来た天智天皇の弟の大海人皇子、後の天武天皇である。大海人皇子は、天智天皇の息子である大友皇子(弘文天皇)と皇位継承を争って挙兵。この戦いは壬申の乱と呼ばれ、広く知られている。大海人皇子は、隠棲していた吉野を逃れ、伊賀、伊勢、美濃というルートで都のあった近江方面へと攻め入っていく。その途上、この地で宇陀川の氾濫に見舞われ、立往生をしていたところに二頭の神鹿が現れ、その導きによって無事に渡河できた。大友皇子との戦いに勝利した大海人皇子が感謝を込めて、この神社を創建したといわれている。
鳥居をくぐり、しばらく続く神社の石段を登った先にある拝殿で祈りをささげる。壬申の乱の発端については、諸説入り乱れているので、どのような思いで大海人皇子は、この地を訪れたのだろうと、しばし思いを馳せる。学生の頃、歴史の授業で、壬申の乱のことを学んだ時は、正直なところ、大海人皇子の行動が簒奪に見えてしまい、理不尽さを感じていた。ヒーロー然とした中大兄皇子(天智天皇)が中臣(藤原)鎌足と力を合わせ、専横を極めた蘇我蝦夷・入鹿親子を滅ぼした乙巳の変をドラマチックな英雄譚と捉えていたため、その後継者争いの顛末に不条理さを感じたのだろう。
しかし、歴史はそう単純な話ではなく、乙巳の変も、政治の主導権を掌握したい皇族とそれを後押しする豪族の思惑が複雑に交錯する権力闘争の一幕に過ぎない。それを裏付けるように、この時代は、血で血を洗う権力闘争が繰り返され、幾度も権力構造が塗り替えられている。乱の後に即位した天武天皇とその妃の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)は、六人の皇子を集め、異母兄弟で権力闘争をしないよう吉野の盟約を立てたことで有名だが、その願いも空しく皇子の一人である大津皇子には、謀反の疑いをかけられ、自害に追い込まれている。
私たちは、歴史上の人物や出来事ついて、つい白と黒に色分けをして、見てしまいがちだが、それは大きな間違いである。勝てば官軍という言葉がある一方で、判官びいきという言葉もあるからだ。勝者と敗者のどちらに肩入れしすぎても、歴史の実像は見えない。
これは私たちが生きる現代でも同じで、この世に絶対正義も絶対悪も存在しない。白と黒が織りなす灰色の世界で目を凝らし、自らが信じる道を見定め、選択しなければならない。
古代史に燦然と輝く偉大なる統治者・天武天皇の軌跡は、私たちが忘れがちな真理を改めて伝えてくれている。参拝後、再び鳥居をくぐり、国道へ戻ってからも、しばし来し方と行く末に思いを巡らせる。(本紙報道部長・麻生純矢)

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