筆ちどり

横断歩道で信号待ちをする。広い道を渡る時の待ち時間は長いので過ぎて行く車を眺める。運転者を眺める。信号待ちの間の私の習慣だ。
 軽自動車に乗っているのは高齢女性が多い。かわいい車には若い女性が乗っている。豪奢な車でゆったりと進むのは中年の女性で、スポーティーな車でビュンと行くのは中年の男性。若い男性は車に拘らないのだろうか。いや、この時間、若い男性は仕事の車に乗っている。
 一家に二台の車が当たり前になった時代。家々の駐車場は三台分だ。住宅街ウォーキングの時にはそこに止まっている車を眺める。大きい車と小さい車が並んでいることが多い。これは子どもがいる家庭だろうと想像する。大きい車は家族で出かける時、小さい車は塾やお稽古事の送迎に。
 高級外車が二台並んでいる家もあった。子育てが終わった高年の夫婦のお宅だろうと想像する。たぶんすごいお金持ちなのだろう。でも、今どき高級車を並べておくのは不用心だと思ってしまう。闇バイトの素人強盗に狙われるかもしれない。
 私は車種を見分けられないし、新車かどうかも分からないけれど、車観察は面白い。大きく高そうな車の持ち主は承認欲求を満たしたい人だろうか、持ち物に拘らない人の車はこんなのだろうかと考える。家の外から見える持ち物は車だけだから。              (舞)

 台風被害で列車の運行を休止しているJR名松線の一部区間(家城駅~伊勢奥津駅)が、平成27年度中にいよいよ復旧する見込みだ。
 松阪市から津市美杉町に至る同線は利用者が少なく赤字路線だが、沿線地域の学生や、車を運転しない高齢者などにとって生活に欠かせない足。
 しかし私が津市で同線関係の取材をするようになって間もなく、21年に運行休止となり、津市内に位置するこの区間は一時、存続が危ぶまれた。私はそれまで、無意識に「列車が走っているのが当たり前」と思い込んでいたので、虚をつかれたような気がしたのを覚えている。
 その後、津市自治会連合会などによる全線復旧を求める署名活動が行われ23年、JR東海・三重県・津市が全線復旧に向けて協定を締結した。
 以来、美杉町をはじめ沿線では、住民などが、「このままでは復旧しても利用者は少なく、いつか廃線になる」と強い危機感を持ち、復旧後を見据えた同線の活性化策として、地域住民による利用の促進や、観光客誘致に取り組んでいる。
 「名松線を元気にする会」のイベントで、過疎化が深刻で普段はひと気の少ない駅周辺が、大勢の来場者で賑わう様子は壮観だった。また、同線に関わる組織などが、産官民の枠や地域を越えて協力する動きもある。
 これらを取材し、同線の存在は決して「当たり前」ではなく、多くの人の努力なしでは守れないものだと実感した。
 この路線の活性化は容易ではない。だからこそ私は、津市民の一人として、住民の悲願である全線復旧が実現されることにとても感謝している。
 復旧後、その感謝を胸に列車に乗るのが今から楽しみだ。車窓から見えるのはどんな景色だろうか。  (小林真里子)

 親友が亡くなってから一年。長かったような短かったような不思議な感覚。
 彼が命を落としたのは、世間を揺るがす大事故だっただけに、この一年間、事故後の検証も含めて嫌というほど、関連報道を目にしてきた。
 このことを通じて、私が強く感じたのは、マスコミの在り方だ。
 彼の無言の帰宅を迎えた時、葬儀の後、また私の自宅でも報道陣に何度も友人としてのコメントを求められた。私たちが抱える悲しみを多くの人たちに伝えこのような事故が二度と起きないように促すのはマスコミとしての責務。当然、私自身もそれは理解していたが何も話せなかった。
 ただ、それには理由がある。私の前に現れたのは「何が何でもコメントをとってこい」と上からプレッシャーをかけられているのが見ただけで分かる記者ばかりだったからだ。彼らはシナリオ通りの報道をするためのパーツ集めが目的となってしまっており、なぜ報道するかという最も大切な部分が、抜け落ちてしまっていたように見えた。
 これは私にとっての戒めでもある。自分も同じ立場なら、彼らと同じ行動をとっていたのではないか。そんな疑問が胸をよぎる。親友の死という余りに重すぎる現実を受け止めた時に、報道に携わる者としての原点に立ち返れた気がする。
 あれから事故の原因究明が進められてきたが、どのようなことが判明しようと遺された私たちに突き付けられた事実は至ってシンプルで残酷だ。もう彼は帰ってこない。ただそれだけなのだ。
 命日に彼の墓前で手を合わせると、未だ癒えぬ心の傷が疼く。〝ありのまま〟を伝えるのは口にするよりも、遥かに難しいことだ。自分自身が当事者になって初めて見えたものがある。
      (麻生純矢)

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