街道に遊ぶ







私は今、事務所でノートパソコンに向かって、これまでの旅を振り返りつつ、この原稿を書いている。東海道五十三次の最後の宿場町である大津宿まで歩いてきたので、残すは終点の京都の三条大橋を目指すのみとなった。距離にすれば、わずか10㎞ほど。いわば、画竜点睛を残すのみだが、スケジュールと天気が噛み合わず、まだ最後の行程に出られていない。せっかくの機会と開き直って、しっかり紙面を割きながら、これまでの旅を振り返りたいと思っている。
この徒歩旅が始まったのは2023年1月24日。「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也」。ご存知、松尾芭蕉の「奥の細道」の冒頭であるが、年がら年中、様々な場所に出かけては、徒歩を満喫している私にとってこれほどしみいる言葉もない。そもそも、連載企画の原点は、「江戸橋から関宿までの伊勢別街道を一日で歩いてみよう」という軽い気持ちだった。しかし、この初日は、スタートした時間が遅かったこともあり、日暮れまでに関宿にたどり着けず、江戸橋から芸濃町椋本までの18㎞となった。この日、一番思い出に残っているのは、雪が舞うバス停で一緒になった男子高校生。バスで塾にでも行くのだろうかと思っていたら、彼は学校から帰ってくる女子高校生を待っていた。それはサプライズだったらしく、幸せそうな笑顔を浮かべながら雪の中に消えていく二人の姿が脳裏に焼き付いている。2年以上経った今も二人はきっと仲良くしていることだろう。
2日目の行程は同年6月9日、JR亀山駅から関宿の西追分までの18㎞。この旅のルールは、前回のゴール地点まで公共交通機関などで戻り、再び再開するというもの。この日のスタート地点がなぜ亀山駅なのかというと、バスを目の前で乗り過ごしてしまったからである。本来はルートではないが、亀山駅から前回のゴール地点の芸濃町椋本まで戻るという行程を経てから、関宿を目指した。亀山駅からしばらく続くルートは10年以上前に、自転車で津市をめぐる「津ぅるどふるさと」という企画の初日に走った場所なので、その時の記憶が昨日のように蘇ってきた。あの企画は友人と一緒に巡っていたので、現在ののんびり一人旅スタイルとは随分色合いが違うものだったが楽しい思い出がいっぱい。以来、身近な場所に潜む未知を探しつつ、遠くを目指す徒歩旅は私のライフワークとなっている。芸濃町の楠原宿の美しい街並みなどを楽しみながら、伊勢別街道の終点にたどり着いたが、これまで国道163号や165号を終点から始点まで踏破した私にとっては物足りない距離なので、東海道を西に進み、終点の京都三条大橋を目指すことになった。
3日目は関宿から滋賀県甲賀市の近江鉄道水口石橋駅までの34㎞。坂下宿から東海道の難所である鈴鹿峠を徒歩で超えるのは初めて。豊かな緑に彩られた峠道を歩きながら、峠で盗賊がその身を隠したと言われる鏡岩や巨大な万人講灯篭を見たり、田村神社、土山宿、水口宿など街道沿いの名所を巡りながら、歩いた道の行程さも距離もこのトップとなる一日を終えた。特に印象に残ったのは、東海道から見上げた水口岡山城。私が好きな長束正家という戦国武将の居城だったからだ。彼は石田三成らと共に豊臣五奉行に名を連ね、武勇でも智謀でもなく、算術という異色の能力で政権運営に貢献した。1600年の関ヶ原の戦いの後、籠城の末に偽計で捕らえられ、刑場の露と消えている。
4日目の行程は2024年2月27日。水口石橋駅から滋賀県栗東市のJR手原駅までの24㎞。雪がちらつく寒い日だったが、豊かな水をたたえた堀が印象的な水口城に立ち寄り、江戸時代初期に日本の刀工が鍛えたといわれる西洋剣「水口レイピア」のレプリカを見ると、思わず心が踊った。横田の渡し跡には巨大な常夜灯があり、滋賀県を代表する野洲川を船で渡っていた往時をしのんだ。その後、湖南市に入り、明治時代につくられた二つの隧道が今も人々の生活を支えていることや、周囲の平地よりも高い場所を流れる天井川という滋賀県ならではの地理的特性を目の当たりにしながら、木曽義仲の出生を描いた人形浄瑠璃や歌舞伎の演目「源平布引滝」の基となった「手孕伝説」が伝わる地にたどり着いた。
5日目の行程は2024年7月25日。手原駅から大津市のJR石山駅までの18㎞。猛暑の中での行程となった。手原駅近くにはSLが美しく保管されており、地域の人たちの熱意と愛着を感じたところからスタート。栗東市から草津市にかけては、東海道沿いにも若い母親と子供の姿を平日昼間から頻繁にみかけ、国内でも非常に稀有な人口増加地域である勢いを自分の肌で感じることができた。まさに百聞は一見に如かずである。琵琶湖から流れ出す唯一の河川である瀬田川(淀川)に架かる瀬田の唐橋は、数々の「天下分け目」となってきた場所である。そこから紫式部が源氏物語を起稿したと伝わる石山寺の麓から、大津市内最大の乗降者数を誇る石山駅に到着した。
6日目は2025年1月8日。石山駅から大津宿までの13㎞。琵琶湖湖岸に江戸時代の旅人たちに知られた景勝地を再現した粟津の晴嵐、城づくりの名手である津藩祖・藤堂高虎が手掛けた膳所城跡、木曽義仲と松尾芭蕉が眠る義仲寺、街中に散在する町屋や老舗、小さな石碑を残すのみの大津宿跡と大津城跡。そして、後日取材で琵琶湖に浮かぶ遊覧船ミシガンで南湖のクルーズを楽しんだ。大津市は街に漂う空気も心地良く、この旅で特に思い出に残る場所となり、プライベートでも訪れるようになった。
次回はいよいよ大津宿から東海道終点の京都の三条大橋。スケジュールを調整し、天気予報を注視する日が続く。旅の終わりを前に胸が高鳴る。(本紙社長・麻生純矢)
2025年6月12日 AM 10:38



本日の旧東海道の旅は、大津本陣跡でひとまず終了。時刻はまだ13時前だが、京都を目指すのは次回に持ち越すことにした。本陣跡には建物や遺構は残っておらず、小さな石碑と案内看板があるだけ。隣に建つ明治天皇聖跡碑の立派さが、かえって本陣跡の静けさを引き立てている。
本陣とは、江戸時代の宿場に設けられていた、主に大名など身分の高い者のための宿泊施設。大津宿には二つの本陣があり、ここはその一つで大塚嘉右衛門宅があった場所。往時の本陣は、3階の楼上から琵琶湖が一望できる絶景が楽しめたというが、今では周囲にマンションなどの高い建物が立ち並び、たとえ当時の建物が現存していたとしても、琵琶湖は望めそうにない。
その後、以前から訪れてみたかった京阪・びわ湖浜大津駅近くの大津城跡へ。とはいえ、こちらも残されているのは小さな石碑と推定復元図のみ。大津城は天正14年(1586)、豊臣秀吉の命により浅野長政が現在の浜大津周辺に築いたものだが、膳所城の築城にともない江戸時代初期に廃城となった。縄張りを示す古絵図は現存しておらず、これまでの発掘調査も本丸跡と推定される周辺に限られている。わずかに残る外堀の石垣や、彦根城に移築されたと言われる天守閣などから、その姿や規模を想像するしかない謎多き城である。
大津城が歴史の表舞台に登場したのは、慶長5年(1600)9月7日、関ヶ原の戦いに先立って起こった「大津城の戦い」。西軍の毛利元康を大将とする1万5千の大軍が攻め寄せ、東軍側はわずか3千の兵で籠城することとなった。私が、この戦いにキャッチコピーをつけるなら、迷わず「最強対最弱」とするだろう。
西軍諸将の中でもひときわ異彩を放っていたのが、筑後柳川(現在の福岡県柳川市)の大名・立花宗茂。若いころから数多の戦場を駆け抜け、「生涯無敗」という驚異的な戦績を残した知勇兼備の名将だ。「最強の戦国武将は誰か?」という議論には、必ず名前が挙がる人物である。一方、大津城を守っていた京極高次は、名門・京極氏の御曹司で、祖先には室町幕府創設に関わった佐々木道誉もいる。ただ、高次自身はそれまで目立った戦功もなく、いわば地味な存在だった。たとえば、本能寺の変の際には、明智光秀に与したがために秀吉と敵対することとなり逃亡。後に秀吉の寵愛を受けた妹・竜子のとりなしにより、助命されただけでなく、大名へと返り咲いていく。これには妻が、淀殿(茶々)の妹・初であった影響も大きい。目立った功績のない高次が、周囲の女性の〝七光り〟で高い地位を得ていく様は「蛍大名」と揶揄されることもあった。高次を最弱呼ばわりするのは、いささか忍びないが、天下に勇名を轟かせた宗茂と比較すると、その差は歴然である。
兵力差5倍。加えて宗茂は、海外から火縄銃がいち早く伝わった九州生まれで火器の扱いに長けている。他の軍勢の3倍と評される速度で銃撃を浴びせ、本丸にも大砲を撃ちこむなど、城への攻撃は苛烈を極めた。ついに城内へと西軍がなだれこみ、本丸に迫ってもなお、高次は徹底抗戦の構えを崩さなかった。しかし、冷静に状況を鑑みると文字通り刀折れ矢尽き、家臣たちは満身創痍。更に竜子も本丸に籠っていたといわれる。死を恐れない「不惜身命」は武士の誉れであるが、あえて命を慈しむ「可惜身命」へと考えを改めた高次は、剃髪した上で降伏。ついに、大津城は9月15日朝に開城したが、西軍は8日間の足止めを余儀なくされた。
この8日間が持つ意味は大きい。というのも、大津城が開城したその日、関ヶ原の戦いが勃発したからだ。この戦いで東軍が勝利し、徳川家康が天下を握る流れが決定づけられたことは、誰もが知るところであるが、大津と関ヶ原はそれほど離れていない。もし大津城が早々に陥落していれば、宗茂たちの参戦が戦局に大きな影響を与えていた可能性がある。それ故に、高次の奮戦は家康に高く評価され、若狭一国(現在の福井県南西部)が与えられた。その子孫たちも、転封を繰り返しながらであるが幕末まで大名として存続している。
「蛍」と揶揄された男が、稀代の名将相手に一世一代の大勝負を仕掛け、自らの真価を示したことは、結果として歴史をも動かした。これほど胸が熱くなる史実もそうそうない。人生は努力の積み重ねで築かれていくが、どこでどう頑張るかによって、その重みも結果も大きく変化する。大津城の戦いは、誰の人生にも必ず存在する「頑張りどころ」を見極める大切さを教えてくれている気がしてならない。
作家・今村翔吾氏の直木賞受賞作「塞王の楯」(集英社刊)は、この大津城の戦いを題材に、城を守る〝楯〟を築く石垣職人と城を攻め落とす〝矛〟を作る鉄砲職人の戦いを描いている。高次も宗茂も非常に魅力的な人物として描かれているため、大津城跡に訪れる前に読んでおくと、小さな石碑の向こう側に広がる壮大な歴史ドラマを楽しめることは請け合いである。
石碑のある場所から少し北へ進めば、目の前には琵琶湖が広がる。そして、その水面に浮かぶのが、琵琶湖汽船の遊覧船「ミシガン」。赤いパドル(外輪)が目印の外輪船で、レトロな雰囲気を漂わせている。滋賀県の姉妹都市・アメリカのミシガン州との国際親善を祈念して命名されたという。
後日、追加取材を兼ねて再び大津市を訪れた際には、このミシガンに乗船し、クルーズを体験した。
デッキからは美しい琵琶湖の景色が楽しめるだけでなく、大きなパドルが水しぶきを立てながら回転する様子は、まさに迫力満点だった。
特に印象に残ったのは、船内ステージでの観光案内とライブ。ミシガンパーサーたちが、琵琶湖やその周辺にまつわるクイズを出題したり、明るく楽しい歌と軽快なトークで場を盛り上げてくれる。琵琶湖の南湖の水深や「油断大敵」の語源といった豆知識を楽しく学べて、観客を上手く巻き込んでいくスタイルは地元愛とホスピタリティに溢れていると感じた。
クイズに回答したご褒美としていただいた「ミシガンステッカー」は、仕事用のノートパソコンに貼ってある。それを見るたび、あの楽しい時間がよみがえる。
こうして、大津市をすっかり満喫。いよいよ次の行程で伊勢別街道から旧東海道をたどってきたこの旅を締めくくることになりそうだ。大津宿から東海道の終着点・京都の三条大橋を目指す。 その前に、ここまでの旅を振り返る場をつくりたいと思っている。(本紙社長・麻生純矢)
2025年6月12日 AM 9:50



時刻は12時半、近くの居酒屋で手早くランチを済ませた私は、滋賀県庁の本庁舎の前に立っている。中央にそびえる塔屋、壁面にちりばめられたレリーフ、重厚感がある石畳の車寄せなど、威厳と風格を漂わせるルネサンス様式の建物にしばし心を奪われる。滋賀県を代表する近代建築の一つとして数えられているこの美しい建物は昭和14年(1939)竣工で、設計者は早稲田大学大隈講堂、栃木県庁などを手掛けた佐藤功一。当時の建築界の重鎮として数多くの作品を手掛けた彼は、東京帝国大学卒業後に三重県の技師となったという経歴もあり、少しご縁を感じる。
時代に沿って公共建築物に求められるものは変化している。この庁舎が建てられた時代には、いわゆる〝お上〟の権威を示す役割も少なからず求められていた気がする。それは、封建社会における城の延長線上にある役割に近いものである。一方、より民主化が進んだ昨今では、公共建築物に求められるのは、親しみ易さ、言い換えると市民の理解である。分かりやすい例を挙げると、機能性に優れた質実剛健な建物などが最たるものだろう。華美さや威厳を演出するためにコストを割いた建物は市民の批判の的になる可能性が出てくるからだ。しかし、そうすると建物は想定した耐用年数での建て替えを前提とした消耗品の域に収まり易くなる側面がある。もちろん、それは耐震性などの安全面や機能性などを考慮すると、理に適った考え方である。この県庁舎も中に入ると、階段のレリーフなど歴史を重ねても色褪せない美しさを感じるものの、近年整備された施設と比べると、年代相応の不便さを感じる場面があることは想像に難くない。
しかし、ほんの一握りでも良いので、この県庁舎のように長きにわたって活用されながら、時代を超えて受け継がれていくシンボル足り得る建物が現代にも生まれて欲しいと感じる。そういったものが集まれば地域の魅力の源泉となるからだ。
滋賀県庁を後にした私は、再び北側の旧東海道に戻る。ここまで歩いてきて、ずっと疑問に思っていたことがある。この大津エリアには、繁華街と呼ばれるほど、人や店舗が集まる場所がないのではないかということである。江戸時代には琵琶湖に沿って東西に広がるこの辺りは「大津百町」と呼ばれ、北国街道にも接続する東海道最後の宿場町である大津宿として栄えただけでなく、琵琶湖水運の港町、三井寺(園城寺)の門前町という3つの顔を持っていた。膳所城が置かれた膳所が防衛や政治を司る地域とすれば、大津は地域経済を担うまちであった。現在、旧東海道は石畳調に整備されている箇所もあり、地域のアイデンティティとして大切にされていることが感じられ、長い歴史を持つ老舗の和菓子屋などが見受けられるが、飲食店はJR大津駅と京阪鉄道のびわ湖浜大津駅の間に散在している形。アーケードのかかった商店街もあるが、繁華街というより近隣の人たちが日常的に買い物などで訪れる場所といった雰囲気。ところどころにシャッターが下りているのも地方都市の日常である。では、このまちに魅力がないのかというと、全くその逆で独自の魅力にあふれている。雄大な琵琶湖が生み出す絶景のロケーションはもちろん、京都と大津を結ぶ路面電車である京阪鉄道の京津線は、大津らしさに溢れた風景の代表格である。大津市は近隣の市と同じく京都や大阪へのアクセスが良いベッドタウンとして人口が増えている地域だけあり、目立った繁華街こそないが、生活に必要な施設や店舗は揃っており、確かな活気が街に漂っている。付近には風情溢れる町屋がたくさん残っており、古くから交通の要衝だった土地ならではの歴史や文化と日常的に接することもできる素晴らしい街であると感じる。
私たちが暮らす津市と大津市の大きな共通点といえば、県庁所在地で名前が似ていること。それぞれ伊勢湾、琵琶湖を代表する港(津)があったことにその名は由来するが、それ以外に面白い共通点がある。それはよく似た名前の大きなビルがあることだ。それが津市のアスト津と大津市の明日都浜大津。アスト津は津駅前にそびえ立つ地上18階の商業施設・オフィス・行政の施設などが入った複合ビルで津市のランドマーク。一方の明日都浜大津は、びわ湖浜大津駅前にある地上17階の複合ビルで保健所・子育て支援センターなど公共施設が多く入居しており、高層階はマンションとなっている。アスト津の名前の由来は、「明日」+「私たち」+「都」の合成語USTに津を付したもの。また、TSU(津)を右から読むとUST(アスト)。前述の意味を当てた明日都津という漢字も命名理由に含まれており、明日都浜大津と類似している。アスト津の竣工は2001年に対して、明日都浜大津の竣工は1998年。建設された経緯などは異なるが、オープンした時期も近いのが面白い。津市と大津市は、距離的には約90㎞。凄く遠いわけでもないが、決して近くもなく、日常的な接点は少ないが、小さな共通点を見出すと一気に精神的な距離が縮まった気がするのは面白い。(本紙社長・麻生純矢)
2025年6月11日 PM 1:45