街道に遊ぶ


12月14日10時半、私は愛知県豊橋市の豊橋公園にいる。「滋賀県大津市ではないの?」と訝しむ読者も多いと思うので、経緯を少し説明する。確かに本来であれば、大津市から京都市へ向かう行程を書くことになっていた。ただ、この日は以前から、友人K君と豊橋へ行くことが決まっており、東海道の三十四番目の宿場町である吉田宿があった場所ということで連載とは全くの無関係とはいえないため、筆を取った次第である。また、後述するが、津とも縁がある地ということも、それを後押しした。ちなみにK君は、特定の目的地を決めず、旅先の街を気と足の赴くままに散策していく街ブラを一緒に楽しめる貴重な同好の士である。
愛知県の東三河地方に位置する豊橋市の人口は約36万人。長らく愛知県第二の都市として栄えてきたが、平成の大合併で豊田市などに人口は抜かれてしまっている。とはいえ、静岡県との県境も近いこの地方では経済、交通の中心地として確かな存在感を放っている。吉田宿という名前からもわかるように、古くは吉田と呼ばれていた。
私たちは豊橋公園近くの有料駐車場に車を停めて、まず公園内を散策。この公園は、明治時代に廃城となった吉田城の跡でもあり、公園内には石垣だけでなく、堀や土塁も残されている。本丸、二の丸、三の丸に公園、市役所、美術館などがすっぽり収まる形で配されている。本丸には、実質的に天守扱いをされていたといわれる鉄櫓が模擬で再現されており、中は資料館になっている。戦国時代初期の1505年に築城されたといわれるこの城は、今川氏、徳川氏、武田氏などが熾烈な奪い合いを繰り広げた。1590年に、豊臣秀吉の命で池田輝政が入城すると、15万石を超える大領かつ東海道の重要な防衛拠点を治めるにふさわしい形にすべく、城と城下町に大改修を加えている。
鉄櫓脇に植えられた木がちょうど鮮やかに紅葉しており、モノトーンの城壁とのコントラストがなんとも美しい。城の後背を流れる豊川の江風(かわかぜ)の冷たさに今年が残りわずかであることを改めて感じつつ、K君と共に鉄櫓へと入り、城や城下の歴史や地理を軽く頭に入れる。東海道は、吉田城の外堀と並行する形で城下を走っていることがわかった。ちなみに、私たちにはお馴染みの国道23号は公園の南西にある西八町交差点に起点があり、ここで国道1号に接続している。津から23号を遡ると終着点はこの辺りになる。「23号ばどこへ辿り着くのか」という問いに対する答えを出せるのもよかった。
公園から東海道に向かう豊橋の町並みで最も印象的なのは、主要道路の道幅の広さ。その理由は道路の中心を豊橋電鉄の路面電車の上下の線路が走っているからである。路面電車が身近でなかった環境で育ったこともあり、憧憬のような感情を抱いているせいもあるのかもしれない。ただ、広い道のおかげで街の雰囲気がすっきり開放的に見えるのは間違いないだろう。私とK君は、街並みを楽しみながら、東海道へ向かう。
この街を走っている東海道の区間は片側1車線の広い道路となっていることにまず驚いた。私がこれまで歩いてきた区間は、国道1号との重複区間を除けば、いかにも旧道といった佇まいをした地元の人の生活道路が中心だった。戦災復興の中で拡幅されたことも予想されるが、飲食店をはじめとする様々な個人店も東海道に沿って散在しているのも魅力である。
東海道の一角に「吉田宿本陣跡」と書かれた小さな碑が建っているのみである。本陣とは、大名など身分の高い人物が使用した宿舎を指す。先述の通り、市街地が戦災で灰となってしまったこともあり、今はこの場所はうなぎ店となっているが、津藩祖・藤堂高虎の有名なエピソードで、講談や浪曲などで語り継がれる「出世の白餅」に深く関わっている場所でもある。
高虎は主君を7回変えたという言葉ばかりが独り歩きしているが、その多くは10代後半の若気の至りであった。主人に恵まれないことを嘆いた高虎は、故郷である近江を飛び出し、吉田宿にたどり着いた。しかし、その頃には路銀は底をついており、空腹に耐えかねた高虎は餅屋で無銭飲食をしてしまう。正直に店主に謝罪したところ、怒るどころか路銀を渡して故郷に帰るよう諭された。高虎はこの時の恩を忘れないように、丸餅3つを旗指物に描き、大名として出世を果たした後には東海道の吉田宿を通るたびに、この餅屋に立ち寄って文字通りの〝出世払い〟で旧恩に報いたという内容である。本紙・西田久光会長が過去に記した『「出世の白餅」考』では、このエピソードは藤堂藩の公式資料には一切記録がなく、虚実が入り混じったものという推論を立てている。
実の部分としては、江戸時代に藤堂家の家老が書き記した日記に、高虎以来、吉田宿の本陣に立ち寄ると主人がついた餅を食べるのが通例となっていたことが記されている。ただ、本陣の主人であった中西家当主は元々、織田信長に仕える武士であり、吉田に流れてきて商人となったのも、1682年の本能寺の変以降である。この頃の高虎は秀吉の弟・秀長の下で活躍し、相応の地位を得ているため、出世の白餅が生まれる余地はない。旗指物も史実と照らし合わせると、関連性は望み薄だそうだ。
旗指物に描かれた餅と吉田宿に立ち寄るたびに餅を食べるという藤堂家の習わしを知った庶民が、虚を含んだ噂話を面白おかしく語り継ぐ中で成立したのかもしれない。いい加減な私の推論だが現代社会でも、ネット上での噂話は同様のプロセスで生まれている。とはいえ、豊橋と津のつながりを感じる貴重なエピソードといえる。
K君と私は、国道23号沿いに復元された西惣門まで景色を愛でながら東海道を歩く。惣門とは、城や城下町の周囲に張り巡らせた堀や土塁による惣構(総構え)と街道の結節点に設けられた門である。短いとはいえ、街道を巡る旅はしっかりとこなすのは職業病といえるかもしれない。
昼食は、地元で人気のラーメン店とあんかけスパゲッティ店のどちらに行くかを迷った挙句、順番にはしごするという健啖ぶりを発揮。豊橋駅方面にまで足を伸ばしながら、レトロな商店街や地元の人が集うスーパーなどを散策しつつ〝市場調査〟。すると、同じ愛知県内でも、名古屋とは全く趣が異なる魅力を持っていることに気づかされる。もちろん、お土産には豊橋のソウルフードであるピレーネを購入し、大満足でK君と私は帰路に就く。次回こそは、大津市から京都市の三条大橋を目指す行程になる。
(本紙社長・麻生純矢)
2025年1月28日 PM 1:53



いよいよ大津市に入る。津市を出発し、伊勢別街道をたどり、亀山市・甲賀市・湖南市・栗東市・草津市を経て、ついに7つ目の市となる。残るは大津市と京都市のみ。大津市は滋賀県の県庁所在地で、人口は約34万人。市域は滋賀県のシンボルである琵琶湖の南部に接し、琵琶湖から流れる瀬田川を挟んでL字型に広がっている。この瀬田川は、大阪湾に注ぐ淀川の上流部分であり、川を下るにつれて宇治川、淀川と名前を変えていく。
「天下分け目」という言葉を聞くと、多くの人が真っ先に岐阜県の関ヶ原を思い浮かべるだろう。しかし、それに劣らず有名な「天下分け目」がここにもある。それが瀬田川に架かる瀬田の唐橋だ。この橋は、あの有名なことわざ「急がば回れ」の由来にもなっている。「もののふの 矢橋の舟は速けれど 急がば回れ 瀬田の長橋」という歌がその元ネタと言われている。この歌の意味は、(草津の)矢橋から船で琵琶湖を渡るのは速いが、風が強く危険が伴うため、急ぎたいなら安全な瀬田の唐橋を回ったほうがよい、というものだ。今でこそ、大津市内に琵琶湖大橋が掛かっており、わずかな料金を支払えば、安全かつ簡単に湖の上を行き来できるようになったが、昔はスピードの代償に相応のリスクを支払う必要があったというわけである。命と安全を天秤にかけたらどちらが大事かは自明の理である。
大津市の市域に入ってしばらく進むと、瀬田の唐橋が見えてくる。この橋は、古来より軍事・交通の要衝として重要な役割を果たしてきた。東海道や中山道を京都へ入る際、この橋を渡らなければ、琵琶湖を船で横断するか、大きく南北に迂回する必要があったためだ。また、名所としても知られ、先述の歌や歌川広重の「近江八景」にもその姿が描かれている。現在架かっている橋は鉄筋コンクリート製で、長さは172メートル。擬宝珠を配した欄干や装飾された橋桁など、往時を彷彿とさせるデザインとなっている。
この橋は日本史上、何度も「天下分け目」となる舞台となった。有名な例として挙げられる筆頭は、672年に発生した「壬申の乱」。天智天皇の弟・大海人皇子(後の天武天皇)と、天智天皇の御子である大友皇子との争いが、この地で決着した。このほかにも、764年の藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱、1221年の承久の乱など、数えきれない戦いの趨勢を決した場所がこの橋なのである。また、伝説ではあるが、平将門を討ったことでも知られる藤原秀郷(俵藤太)の大ムカデ退治の舞台としても広く知られてる。
そんな中でも、私が特に印象深いのは戦国時代の「本能寺の変」における瀬田の唐橋の役割だ。1582年、明智光秀が謀反を起こし、織田信長と信忠親子を討ったこの事件の後、光秀は織田家の本拠地である安土城を目指した。しかし、瀬田城主・山岡景隆は信長への忠義が篤かったこともあり、唐橋を落として明智軍を足止めした。この行動により、光秀は仮橋を架けるのに3日を費やすこととなり、「中国大返し」で畿内へと迅速に兵を勧めた羽柴秀吉と準備不足のまま相対することなったという。そして、山崎の戦いで光秀は敗北し、権力を握った秀吉が、天下人への道を歩む契機となった。一方、景隆はこの時の功績で出世し、子孫が栄えたかというと、そう単純な話でもなく、後に秀吉と敵対したため、所領を没収されて隠遁を余儀なくされた。この話からも、歴史や人生には、見える形でも見えない形でも、無数の「天下分け目」(ターニングポイント)が存在していると実感させられる。
唐橋のたもとの川べりに下り、日陰で休憩を取る。琵琶湖から吹く風は涼やかで、暑さを和らげてくれる。この地に刻まれた無数のドラマに思いを馳せながら、北方に広がる琵琶湖を見つめる。ちなみに琵琶湖はもともと三重県にあったことをご存じだろうか。約400万年前、伊賀盆地(現在の大山田)に形成された「古琵琶湖」が、地殻変動により長い年月をかけて北方に移動し、現在の形になったのだ。三重県伊賀市のせせらぎ運動公園には、琵琶湖のルーツを記したモニュメントが設置されており、草津市にある琵琶湖博物館にもこの事実が紹介されている。
瀬田の唐橋を渡ると、いよいよ京都は目と鼻の先。橋の西側から南へ1キロほど進むと、東寺真言宗の大本山・石山寺がある。紫式部が『源氏物語』を執筆した場所としても有名で、文学や歴史好きにはたまらない名所。また、「びわ湖大河ドラマ館」も設置されている。
橋を渡り、北へ進むとJR石山駅に到着する。この駅周辺は想像以上に栄えていて驚かされる。飲食店や多くの店舗が立ち並び、活気にあふれている。調べてみると、大正時代末期から大型工場が進出し、現在も東レの工場があり、1日2万人が利用している。新名神高速道路の開通により、滋賀県が京都への通過点として認識されがちだが、実際に歩いてみると、京都に負けないくらい魅力的な場所がいくらでもある。「百聞は一見に如かず」とはまさにこのこと。
さて、この旅もいよいよ大詰め。次回は大津から京都へ向かう行程。どんな旅路になるのか、私自身が一番楽しみにしている。(本紙社長・麻生純矢)
いつも「街道に遊ぶ」をご愛読頂きありがとうございます。以前より読者の方から「どこを歩いているのかわかり難いので、地図を掲載してほしい」というご意見を頂いていたので、旧伊勢別街道と旧東海道で京都をめざす旅が終盤に差し掛かった機会に、地図と共に振り返っていきます。
この徒歩旅のルールは各街道を私が一日で歩ける範囲で分割し、次回は前回のゴール地点から歩き始めるというものです。その道中でのネタを使い切ると、再び次の行程へという流れとなっています。これまで5日間で計108㎞を歩いてきた。内訳は以下。
1日目は2023年1月24日。旧伊勢別街道の始点である津市の江戸橋~芸濃町椋本の18㎞。
2日目は2023年6月9日。椋本~関宿までの14㎞(亀山駅から椋本まで歩いた距離含む)。
3日目は2023年10月2日。関宿~滋賀県甲賀市の近江鉄道水口石橋駅までの34㎞。
4日目は2024年2月27日。水口石橋駅から栗東市のJR手原駅までの24㎞。
5日目2024年1は手原駅~大津市のJR石山駅までの18㎞。
残る行程は石山駅~京都市の三条大橋の16㎞を残すのみ。近日中にまとまった時間を取って歩く予定を立てています。ただし、ここから先は、見所も多いはずなので、一気に最後まで歩くかを思案しているところです。乞うご期待!

2024年12月12日 PM 4:05



旧東海道を大津市方面へと進んでいくと、小さな祠を見つけた。中を覗くと、顔を白く塗られた地蔵が祀られている。近くの案内看板によると、これは「子守地蔵」と呼ばれるもので、江戸時代、参勤交代の大名行列を乱した親子が斬られた場所につくられたものらしい。地元の町内会が経緯をより詳しくまとめたエピソードをインターネットで公開していたので読んでみた。内容はこうだ。肥後(熊本県)の大名行列が通過する際、沿道で平伏していた母親と子供の目の前にカブトムシが飛んできた。子供が、それを捕まえようとして列を乱した結果、親子共々、無礼討ちにされた――そのような内容の民話を起源としているという。以来、毎年8月の地蔵盆には近所の人々が集まり、この地蔵に化粧を施し、供養を行っている。
この話を読んだとき、胸が締め付けられる思いがした。小さな親子が命を落としたことへの悲しみもあるが、それ以上に「自分がその当事者だったかもしれない」と感じたからだ。正確には、私の先祖がその場にいたかもしれないと想像したのである。
少し前にも触れたことがあるが、私の母方の祖母は肥後を治めた細川氏の家臣の家の生まれ。一方、祖父は鈴鹿市の東海道沿いの田舎町で生まれ育ったが、百姓のまま人生を終えるのを良しとせず、裸一貫で満州に渡った。そして土木作業などの肉体労働をしながら勉強を続け、南満州鉄道(満鉄)の試験に合格した経歴の持ち主だ。祖母とのなれそめはというと、満鉄の先輩社員だった祖母の兄が、祖父の気骨に惚れ込み、自分の妹(祖母)との縁談を勧めたという話だ。
時代劇などで参勤交代の行列が通る場面では、沿道の庶民が行列が通過するまで、平伏し続けているイメージが強いが、実際にはもっと緩やかなものだったという。行列が通る際、道を譲っていれば問題なく、むしろ華美な大名行列を見物するのは庶民にとって娯楽の一つで、大名側も権威を示すために行列をきらびやかなものにしていた側面がある。一方で、列を乱したり前を横切る行為は無礼とされ、厳しい処分の対象になった。しかし、他国の領民を斬れば外交問題に発展する恐れもあり、無礼討ちに至る例は稀だったようだ。
この子守地蔵にまつわる民話が、どの程度史実と重なるかはわからない。ただ、ここが西国大名の参勤交代の行列が頻繁に通った東海道沿いの地であることを考えると、民話の信憑性も感じられる。前述の通り無礼討ちが稀だったからこそ、悲劇性が際立ち、語り継がれている可能があるためである。とはいえ、当時のルールを現代の価値観で「残酷」「野蛮」と批判する気にはなれない。その当時の社会秩序を守るために必要だったルールであり、歴史を振り返る上では、当時の価値観に則って物事を考える姿勢が求められるからである。この地蔵の話を聞いて私の胸が締め付けられるのは、自分の先祖が行列に加わっていた可能性を想像してしまった非常に私的な感傷に過ぎない。スピリチュアルな話には興味がない私ですら、海の向こうで結ばれた縁が自分を今ここへ導いたのではないかと考えさせられる。
子守地蔵を後にして旧東海道を南西に進むと、小川が流れる公園のような場所にたどり着く。そこには東屋が整備されており、椅子に腰を下ろして一息つく。ここは平安時代に「野路(萩)の玉川」として知られ、湧き出る清水と美しい萩の花が旅人の心を打ち、多くの歌に詠まれた地だ。鎌倉時代には宿駅が置かれ、上洛した源頼朝がこの地に逗留したという記録もある。特筆すべきは、江戸時代から現代に至るまで、地元の人々がこの場所の保存に尽力してきた点だ。今も美しい状態が保たれているのは、その弛まぬ努力の賜物だろう。時代の流れとともに、かつて歌に詠まれた名勝としての景色は姿を消してしまったが、それでも現代でできる形で後世に伝えようとする地元の人々の姿勢には頭が下がる。形あるものや命はいつか滅びるが、人の思いは不滅である。連綿と受け継がれてきた思いのおかげで、とめどなく湧き出る清らかな水を見ながら、疲れを癒すことができる。
10分ほど体を休めた私は、再び旧東海道に戻る。しばらく進むと、また面白そうな場所を見つけて足を止める。ヒシの葉がびっしり水面を覆う池に浮かぶ小島に向かって石橋が伸びている。橋の脇の石碑には「浄財弁財天」と書かれているので、どうやら神社のようだ。小島の周囲は木々が生い茂っているため、岸辺からは社らしきものを見ることはできない。少し勇気を出して石橋を渡って境内に入ると、草も生えておらず、手入れが行き届いており、氏子たちの信仰の篤さを感じる。弁財天はとても面白い神である。芸術や水をつかさどる神で七福神の一柱として信仰を集めているが、ヒンドゥー教の女神サラスヴァティがルーツで、仏教の神として日本に入ってきた。長らく日本では、仏教と神道が混ざり合い、それぞれの神や仏を同一視する神仏習合というスタイルが自然な信仰の形だった。明治の廃仏毀釈によって仏教と神道は切り離されたが、広く信仰を集めていた弁財天は今も寺院と神社の双方で祭られる稀有な神となっている。神前で残りの道中の安全を願うと小島を後にするといよいよ大津市。(本紙社長・麻生純矢)
2024年12月5日 AM 4:55