随想倶楽部

◆三重大学管弦楽団・第57回定期演奏会 12月26日㈰16時から(開場15時)、津市久居アルスプラザときの風ホールで。ドヴォルザーク交響曲第9番「新世界より」、シューベルト交響曲第7番「未完成」、チャイコフスキー・バレエ組曲「眠れる森の美女」よりワルツ。指揮は兼重直文さん。全席指定。前売600円、当日700円、大学生以下600円。

毎日、夕方のニュースで、各県別にその日のコロナ感染者の人数を報道していますが、いつしかそれを見るのが私の日課になってしまいました。このところ、三重県は徐々に減少してきました。
七月中旬に、今年は県外への旅行をやめて、伊勢にでも行こうかと、家族と相談し、昨年と場所を変え、温泉へ一泊旅行に八月中旬にでかけました。
いつものことながら、伊勢へ行くと、士清さんの事が頭に浮かんでしまいます。
伊勢は士清にとっては非常に縁の深い土地です。愛娘八十子が伊勢の御師職、蓬莱尚賢に嫁したことから、何度も伊勢を訪れているようです。
今回は士清の友人、幸田(度会)光隆について述べてみます。
士清は子世子明神の境内に『日本書記通証』『倭訓栞』『勾玉考』の草稿を埋め、反古塚をたてましたが、建碑の所に玉虫が三日間続いて現れたので、吉瑞と喜び、玉虫勧進の歌を募りました。その時、幸田光隆が「題谷川淡斎瘞稿図」を記しました。それには「洞津淡斎先生、日本書紀通証、倭訓栞、紙蔵諸石櫃をいれて碑たてた。三日間緑金蝉が出た」と、書かれていました。
『勾玉考』は奇石、珍石について士清が調べたことをまとめていますが、三輪山とか鈴鹿の長瀬神社、安濃郡長岡町、安濃郡五百野へは、自分で出かけて行っていると思われます。「勾玉考序」を書いたのも幸田光隆です。士清を先生と呼び、「穏やかで重厚、謙虚なお人柄で、まるで玉のようである」と、褒め言葉がつづきます。
光隆は『度会人物誌』によると、「幼児より和漢の学を修め、詩文に長じ、また神典にも通じ、宮崎文庫の講師たりしこと数年、著書に『山田人物誌』『談助篇』等がある」とあります。宮崎文庫は伊勢市にあった伊勢神宮外宮祠官度会氏の文庫で明治時代に内宮文庫の林崎文庫と合併し、神宮文庫と名を改めました。
『日本書紀通証』が出版されたのは宝暦十二年、士清は十三年に宮崎文庫、林崎文庫に献納しており、ちょうど蓬莱尚賢が士清の娘八十子を妻に向かえた時期で、伊勢との行き来があり、士清と光隆の交流が深くなったのだと思われます。
『藤花集』という光隆五十の賀を祝う、諸家の短歌を集めた物にも、谷川士清の名があります。これには河北景楨、平宣長(本居)も寄せています。

度会のぬしの五十を賀してよめる
谷川士清

しき浪の数にをとらんいせの海 よする齢も豊のみや人
(谷川士清の会 顧問)

羽根を休めて少し寛いだので、次は伊賀国を訪ねて見よう―と。ソーレ!
伊賀街道(津─伊賀上野50㎞)は、ほぼ現在の国道163号線になるのでその上を飛んで行こう。伊賀国は四方を山に囲まれた盆地、忍者の里です。忍者と言えば今では世界中の人が知っています。江戸時代に伊賀伊勢津藩祖藤堂高虎は伊賀上野から津に至る街道を二つ作っています。伊勢別街道と伊賀街道です。今日はあの伊賀越えの傍をね。この街道は参宮の旅行は勿論のこと水産物、塩、綿や種油が往来し、経済と生活に大きな役割を持っていました。
伊勢湾から吹いてくる風と太陽の光が私を伊賀国に運んでくれます。迷路のように入りくんだ複雑な谷と里山の丘陵が見えてきました。あっ、前方に甲賀の飯道山が現れ、この下に765mの霊山があります。飯道山は甲賀忍者の祖役小角が不動明王を本尊としているお寺があります。霊山はかつては最澄が創建したお寺がありました。伊賀忍者の修行の地です
古来より豪族の末裔の武士、修験者(山伏)、渡来人たちの教養と情報集めと採鉱冶金術を持つ技術集団が住み着いた地です。伊賀は元々は東大寺の荘園でしたがやがて荘園領主(寺院、貴族)に対抗する悪党(自力で国をおさめる共和制の自治体)が技術集団と結び付き、独自の山岳ゲリラ術(忍術)を身につけます。ある者は地侍となり、ある者は忍者となって行きます。火を巧みに操り、薬草の知識や剣術を持ちました。すご~いなあ。伊賀は「惣国一揆」(自治共同体)、甲賀は「郡中惣」(自治体)の組織を作って大名に対抗しました。伊賀忍者の大親分は服部半蔵です。織田信長の天正の乱(1579年)で忍者達はこてんこてんにやられて全国に散らばりました。信長が天正十年(1582年)に本能寺の変で自害すると堺見物をしていた徳川家康は伊賀と甲賀の忍者二百人に守られて世にいう生涯最大の苦難〝伊賀越え〟で助けられています。江戸時代に家康はこの忍者達に感謝して甲賀与力、伊賀同心にしています。服部半蔵正成は「鬼」と呼ばれるほど活躍し、徳川家の天下統一に貢献しています。当時のはやり歌に「徳川殿はよい人持ちよ。服部半蔵は鬼半蔵、渡辺半蔵は槍半蔵」と唄われたそうです。
忍者の仕事はあらゆる分野に通じて各地からの情報収集をする事です。火を操って合図の狼煙、鉄砲、火玉、火矢を作り出します。普段は農民と同じく野良着で山里で田畑を耕しています。午前中は家業を行い、午後は技を磨きます。忍者は心の安定と恐怖心を取り除く為に自分は大丈夫という呪文「オンアニチマリシェイソワカ」を心の中で唱えて印を結びます。忍者のトラベルグッズは編み笠、鉤縄、石筆、三尺手拭い、打ち竹、針を常に持って出かけます。そして甲賀伊賀の地は薬草の宝庫です。病気や傷を治す薬を作り、薬の行商人などに姿を変えて各地に情報集めに出かけます。甲賀は薬品の発祥の地。現在は甲良町付近に良い製薬会社が沢山建っています。
さて、田畑の広がった場所に着きました。黄金色の稲穂がびっしり。ブランド品の伊賀米です。伊賀の田圃は独特で、粘土質の泥田から美味しいお米が実ります。元は400万年前の琵琶湖の底の土地から出来ています。琵琶湖は三重県西部の上野盆地に誕生した窪地(大山田湖)で幾多の断層活動等によってこの窪地はやがて大きくなって約40万年前に今の琵琶湖になりましたが、今もなお移動中。琵琶湖も旅行中です。
伊賀の国を訪ねて、今の平和な日本の中で生きる意義を知り、自分を見つめ直す機会をもらったように思いました。
さあー、もう周りはすっかり暗くなり、忍者の姿も見えないし分からなくなりました。もう お家に帰ろうーと。
(全国歴史研究会、三重歴史研究会、ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)

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