随想倶楽部

新しい年がスタートしリフレッシュしたい頃。温泉や各地巡り、地元のおいしいものを食べるのもまた、心身に活力を与えてくれる。しかし、家族と水入らずでどこかへ外出したいと思いながら高齢者や障害者、手術痕が気になる人など、外出を諦めている人も多いのではないだろうか。当社はバリアフリーのお出かけを後押ししようと、民間救急と共に高齢者や体の不自由な人も外出できる乗務を行っている。
ある日、こんな連絡があった。「車イスの本人と家族揃って、観光に行きたい。皆が行ける時に、福祉タクシーに乗っていろんな所を見てみたいのです」。その一言に私もも温かいものを感じ、目的地でどのように過ごしたいのか理解できた。
「要介護者のQOL(生活の質)の向上と、介護者のやすらぎ」の両立。これまで双方を同時に満たすのは難しかったが、近年、一部の観光地でバリアフリーの整備を行い、積極的に車イスユーザーを招き入れようという動きも出ている。県も、「日本一のバリアフリー推進県」を提唱している。
2016年に大手旅行会社が実施した調査によると、「要介護の方、またはその家族の方に対し、旅行をしたいですか?という問いに、92%もの人が「可能であれば行きたい」と答えている。
一方で「実際に要介護者と旅行したことがある」と答えた人は、30%にも満たないという結果が出ており、要介護、車イスでも外出したいという人が年々多くなっているにもかかわらず、70%以上の人は要介護者との旅行に不安を抱えている現状だ。福祉タクシーへ乗車する人に、常に「車イスやからといって、じっとしてたら足がもっと動かんようになるよ。外出をあきらめないで、楽しい時間をつくろう」と話してきた。それに対し、返る言葉が「そんなの、私には無理や」と言うので、「そうじゃないよ。お出かけをすればおいしいものや、いろんな人と会話もできる。元気も出るんや。それを手伝うのが私の仕事」。
理解してもらうのも大変だが、我々も観光やバリアフリー情報に精通し提供できれば、利用者も安心して乗車できるし、新たなスポットを発見できる。宿泊もできれば、私自身もよりバリアフリーの勉強ができる。
今回の行程は車イス1台、家族4人が乗車し、高速道路で北上。ホテルを起点に一泊して主要な観光地を巡ることになった。移動その他を除いて、家族が車イス介助を行うという。何が何でも福祉タクシーにお任せ一辺倒でない立派な考えだ。  運転中も、車内は和やか。ふだんはできない会話に、花が咲いている。コースも自分たちが決めているので出発時間の焦りもなく、ゆっくり観光できたのが今回の特徴。階段など、家族が難しい所は私が介助して、スムースに進んだ。
ただ、主要な所はバリアフリーも成されていたが、障害者マークの駐車場へ一般車が停車している光景には、乗車中の家族も苦言を呈した。これからも公共、民間共に、障害を持つ人にも施設が使い易く改良されるであろう。しかし。機器類の改良だけで解決されるものではない。現実はまだ、モラルに欠けている。
車イスや障害を持つ乗客を乗せて各地を巡り感じることは、要介護者本人と家族皆の支援もあって、はじめて実現できるということ。「次は、どこへ行こうかな」と、期待が膨らむ。心と体が一致する瞬間だ。
我々の仕事は安全、安心はもちろんだが、外へ出てみると案外いろんな課題や提案を発見する。 「いい日旅立ち」。その言葉どおり、お出かけは新しい出会い、新しい自分に会える。交通弱者、家族もどんどん出かけよう。体の調子も、すこぶる快調になるかもしれない。(民間救急  はあと福祉タクシー代表)

初冬の訪れを知らせる木枯一番の声を聞き、思わずコートの襟を立てる季節になってまいりました。
紅葉も色あせて寂しくなり、花の少ないこの季節にツワブキの鮮やかな黄色と千両の赤い実が心を和ませてくれます。気づけば年内も余すところわずかになりました。

今回は、吹く風も寒く、一段と身にしむ頃にふさわしい、江戸小唄「木枯」と歌舞伎小唄の中から、「冬編笠」の二曲をご紹介したいと思います。

木枯

木枯の吹く夜は物を  思うかな
涙の露の菊襲 重ね  る夜着も一人寝の
更けて寝ぬ身ぞ
やるせなや

明治中期に作られた上方調の江戸小唄で、作者は不詳です。
木枯は凩とも書き、初冬に吹く強い風で、木を吹き枯らすということから来た言葉です。
「菊襲」は重ね夜着のことで、表が白、裏が蘇芳色(黒味をおびた赤)の物をいいます。
木枯の吹く寒い初冬の夜に、意中に人を待っていたのに、とうとう来なかったので、一人淋しく寝る冬の夜の、待ちぼうけのやるせなさを面白くあらわした唄です。

冬編笠(田屋)

うらぶれし吾身な  がらも恥かしき
人目を包む編笠や   紙衣一重の肌寒き
師走の風を袖屏風   ところ新町田屋の  門にしょんぼり
伊左衛門

「郭文章」田屋は、近松門左衛門の作で、名優坂田藤十郎のために、
「夕霧名残の正月」など元禄歌舞伎の名作を書き評判となりました。

この「冬編笠」(田屋)」の小唄は、河上渓介作詞、清元栄次郎作曲、昭和10年に作られた上方歌舞伎小唄の名曲です。
芝居の内容としては、扇屋の夕霧太夫と馴染を重ね、大尽遊びをつくした揚句、親に勘当され、七百貫目の借金を背負った藤屋伊左衛門、深編笠に紙衣のいで立ち、身をやつし落ちぶれた姿で、しょんぼり田屋の門口に立つ様子を唄ったものです。
紙衣とは厚紙に柿渋を塗って造った貧しい人が着る衣服のことをいいます。
数多い上方狂言の中でも特別な存在の演目で、心中ものが多い狂言の中、この芝居は勘当が許され、夕霧の身請金が届き、二人は一足先に楽しい初春を迎えるという話になっております。

この名曲は上方芝居小唄の再現として好評を博し、今日まで盛んに唄われています。
小唄 土筆派家元

「小唄の楽しみちんとんしゃん」も今回で9回目を迎え、18曲をご紹介いたしました。
実際にお聴きになりたい方、稽古場は「料亭ヤマニ」になっております。三味線や小唄を習いたい方、お気軽にご連絡下さい。又、中日文化センターで講師も務めております。
稽古場「料亭ヤマニ」☎059・228・3590。

(前号の続き)
翌7月25日、「第四号海防艦」は午前6時から米軍艦載機の猛攻を受けた。
「14時40分、爆弾が爆雷砲台に命中、二番砲より後部爆砕される。伊勢防本体南方五十メートルに座礁する。戦死者二十一名を出す」。

ここに当日「第四号海防艦」に乗船していた機雷長・寺島健次海軍中尉の手記がある。そのまま引用する。

「敵機の激しい空襲にさらされていた七月二十五日のことである。後部砲台で指示しているうちに、また一機が突っ込んできた。すでに砲術士の高橋少尉(一期予備生徒出身)をはじめ、わが四号海防艦は多数の重軽傷者をだしていた。大いそぎで配置にもどるべく旗甲板にかけのぼったとたん、赤黒い爆発とともに私は艦橋のなかに吹き飛ばされた。薄れゆく意識のなかに、まるで映画のスローモーションのように空中をとんでいく数名の兵の姿があった。すごい爆風である。
また、艦橋左側の連装機銃の指揮をしていた本間兵曹(四期出身下士官)が「しまった!」という声を空間にのこして粉砕したのを、耳にたしかに憶えている。
兵が何か怒鳴っている。探信儀の角で背中を強打した私は、しばらく失神していたようである。手足は動く。右大腿部から血が流れているが、大したことはなさそうだ。立ちあがって旗甲板に出てみると、二番砲から後部がなかった。
艦は大きく傾斜しているものの、まだ沈んでいない。(いま俺は応急指揮官だ)という義務感が、私の気力をふたたび支えたくれた。最後まで頑張ろう。しかし、甲板に一歩出てみて、私は言葉がなかった。甲板はまったくの地獄絵であった。
一面に肉塊や肉片、手足がちらばり、兵たちが倒れ伏している。後甲板にまわれば、二番砲に腸がまきつき、誰のか判別できない戦死者の半身があった。まさに血と肉の海である。
しかもその中で、煙がでて誘爆のおそれがある弾薬かごを海中に投棄している兵や、なおも撃ちつづける砲員機銃員がいた。かろうじて浮かんでいる艦の前半分は鋼鉄のスクラップにひとしかった。
これが戦争の実体である。三十数年たったいま、ようやく口にできる言葉はこれのみである」。(注釈:「二番砲とは船体後尾に備え付けられた45口径12㎝単装高角砲を指す。注釈:同海防艦には船体の後尾に三式爆雷投射機×12、爆雷投下軌条×1、二式爆雷及び三式一型爆雷合計120発を装備。グラマンF6Fヘルキャット戦闘機はAN─M69装甲鋼板貫通爆弾1000ポンド(454kg爆弾を2発搭載している)。

元水測員・松永和夫著『心の故郷をたづねて』よりこの日の戦闘部分を抜粋する。

「本艦を発見した敵機は25日早朝より攻撃を開始。0600対空戦闘開始。グラマンF6F約十五機艦首方向2000米に出現、ついで左右後部にも出現。1440頃、敵爆弾後部爆雷砲台に命中、二番砲より後部は爆砕され、瞬時にして戦死22名、重軽傷21名を出す。浸水傾斜するも、応急処置により沈没をまぬがれる。しかし航行不能をなり、錨鎖を切断し、伊勢防備隊本部(真珠島)南方約50米に座礁する。7月26日~27日、戦傷者手当、合戦準備及び戦死者の火葬を行う。陸に近く、戦傷者を迅速に揚陸、伊勢防備隊医務科の尽力で手遅れによる死亡者がなかった事は幸いであった」。

「元海軍中尉 寺島健次 記」の手記の中にある「第四号海防艦」乗組員の戦死・戦傷死名簿」から関係分を抜粋する。
「昭和20年7・25、鳥羽港にて敵機と交戦中戦死。海軍上等兵曹 濱義美・長崎。海軍一等兵曹 石井良一・千葉。同 今村武志・静岡。海軍二等兵曹 田中三二・同。同 渡部銀治・栃木。同 大内三喜・茨木。同 澤村成夫・同。海軍水兵長 佐藤孝三郎・東京。同 田部井新介・同。 同 天野孝三・同。同 渥美房治・静岡。同 石田信逸・同。同 石倉与治・同。同 山田實・神奈川。同 金島富司夫・群馬。同 橋本勲・北海道。同 山口晃・長野。海軍上等水兵 吉川基立・東京。同 長谷部勝夫・埼玉。同 田村勝美・栃木。同 山崎久義・北海道。昭和20・7・26 右戦闘のため戦死。海軍兵曹長 島村忠造・埼玉」。
(第四号海防艦の船体尾部の破壊状況からして、グラマンF6Fヘルキャット戦闘機が放ったAN─M69─454㎏装甲鋼板貫通爆弾が同艦を直撃した。その際に同海防艦の甲板を貫通し船内で大爆発を起こしたと考えられる)。

同年7月28日、「0740対空戦闘開始、以後3回に亘る敵グラマンF6F約50機による攻撃のため、機銃弾痕数百個、至近弾20数発、ロケット弾直撃3発命中。1345軍艦旗降下。1424沈没」(海軍中尉 寺島健次の手記)

「昭和20年7月28日、命中弾2、至近弾8、機銃弾無数をうけたのち、『総員退去』が命じられ、航海科の先任兵曹が泣きながらマストの軍艦旗をおろしている。艦長はふたたび艦橋に入ったが、それを先任将校がひきずり出してきた。
紅顔の太田少尉(1期予備生徒出身)の顔もドス黒く、硝煙で顔がはれあがった砲術長がいる。みな、力のかぎり戦ったのである。そして午後2時半、艦は横転して沈没していった」。(第四号海防艦機雷長・海軍中尉 寺島健次の手記)

同年8月11日、横須賀にて解散式。同年9月15日 除籍。

戦後、昭和23年6月30日に、「第四号海防艦」が沈んでいるこの海域は鳥羽の重要なボラ漁場であり、網入れの邪魔となりボラがとれなくなった。また爆破引き上げ作業は、食料不足のおり大事な魚であり、漁獲が減少することは鳥羽の漁師にとって大損害で、漁期までに早く作業を終了して欲しい旨の陳情書が東海海運局に提出された。
この陳情書は「鳥羽港真珠島附近ニ沈没セル海防艦 引揚作業促進陳情ノ件」という表題で「三重県志摩郡鳥羽町大字鳥羽 鳥羽漁業会 会長 廣野藤右衛門」が陳情したものである。昭和22年2月1日に、行動不能艦艇(特)に定められる。その後、東海サルベージにより浮揚され、昭和23年6月30日に解体を終了した。
終わり
(津市在住)

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