随想倶楽部

(前号の続き)
翌7月25日、「第四号海防艦」は午前6時から米軍艦載機の猛攻を受けた。
「14時40分、爆弾が爆雷砲台に命中、二番砲より後部爆砕される。伊勢防本体南方五十メートルに座礁する。戦死者二十一名を出す」。

ここに当日「第四号海防艦」に乗船していた機雷長・寺島健次海軍中尉の手記がある。そのまま引用する。

「敵機の激しい空襲にさらされていた七月二十五日のことである。後部砲台で指示しているうちに、また一機が突っ込んできた。すでに砲術士の高橋少尉(一期予備生徒出身)をはじめ、わが四号海防艦は多数の重軽傷者をだしていた。大いそぎで配置にもどるべく旗甲板にかけのぼったとたん、赤黒い爆発とともに私は艦橋のなかに吹き飛ばされた。薄れゆく意識のなかに、まるで映画のスローモーションのように空中をとんでいく数名の兵の姿があった。すごい爆風である。
また、艦橋左側の連装機銃の指揮をしていた本間兵曹(四期出身下士官)が「しまった!」という声を空間にのこして粉砕したのを、耳にたしかに憶えている。
兵が何か怒鳴っている。探信儀の角で背中を強打した私は、しばらく失神していたようである。手足は動く。右大腿部から血が流れているが、大したことはなさそうだ。立ちあがって旗甲板に出てみると、二番砲から後部がなかった。
艦は大きく傾斜しているものの、まだ沈んでいない。(いま俺は応急指揮官だ)という義務感が、私の気力をふたたび支えたくれた。最後まで頑張ろう。しかし、甲板に一歩出てみて、私は言葉がなかった。甲板はまったくの地獄絵であった。
一面に肉塊や肉片、手足がちらばり、兵たちが倒れ伏している。後甲板にまわれば、二番砲に腸がまきつき、誰のか判別できない戦死者の半身があった。まさに血と肉の海である。
しかもその中で、煙がでて誘爆のおそれがある弾薬かごを海中に投棄している兵や、なおも撃ちつづける砲員機銃員がいた。かろうじて浮かんでいる艦の前半分は鋼鉄のスクラップにひとしかった。
これが戦争の実体である。三十数年たったいま、ようやく口にできる言葉はこれのみである」。(注釈:「二番砲とは船体後尾に備え付けられた45口径12㎝単装高角砲を指す。注釈:同海防艦には船体の後尾に三式爆雷投射機×12、爆雷投下軌条×1、二式爆雷及び三式一型爆雷合計120発を装備。グラマンF6Fヘルキャット戦闘機はAN─M69装甲鋼板貫通爆弾1000ポンド(454kg爆弾を2発搭載している)。

元水測員・松永和夫著『心の故郷をたづねて』よりこの日の戦闘部分を抜粋する。

「本艦を発見した敵機は25日早朝より攻撃を開始。0600対空戦闘開始。グラマンF6F約十五機艦首方向2000米に出現、ついで左右後部にも出現。1440頃、敵爆弾後部爆雷砲台に命中、二番砲より後部は爆砕され、瞬時にして戦死22名、重軽傷21名を出す。浸水傾斜するも、応急処置により沈没をまぬがれる。しかし航行不能をなり、錨鎖を切断し、伊勢防備隊本部(真珠島)南方約50米に座礁する。7月26日~27日、戦傷者手当、合戦準備及び戦死者の火葬を行う。陸に近く、戦傷者を迅速に揚陸、伊勢防備隊医務科の尽力で手遅れによる死亡者がなかった事は幸いであった」。

「元海軍中尉 寺島健次 記」の手記の中にある「第四号海防艦」乗組員の戦死・戦傷死名簿」から関係分を抜粋する。
「昭和20年7・25、鳥羽港にて敵機と交戦中戦死。海軍上等兵曹 濱義美・長崎。海軍一等兵曹 石井良一・千葉。同 今村武志・静岡。海軍二等兵曹 田中三二・同。同 渡部銀治・栃木。同 大内三喜・茨木。同 澤村成夫・同。海軍水兵長 佐藤孝三郎・東京。同 田部井新介・同。 同 天野孝三・同。同 渥美房治・静岡。同 石田信逸・同。同 石倉与治・同。同 山田實・神奈川。同 金島富司夫・群馬。同 橋本勲・北海道。同 山口晃・長野。海軍上等水兵 吉川基立・東京。同 長谷部勝夫・埼玉。同 田村勝美・栃木。同 山崎久義・北海道。昭和20・7・26 右戦闘のため戦死。海軍兵曹長 島村忠造・埼玉」。
(第四号海防艦の船体尾部の破壊状況からして、グラマンF6Fヘルキャット戦闘機が放ったAN─M69─454㎏装甲鋼板貫通爆弾が同艦を直撃した。その際に同海防艦の甲板を貫通し船内で大爆発を起こしたと考えられる)。

同年7月28日、「0740対空戦闘開始、以後3回に亘る敵グラマンF6F約50機による攻撃のため、機銃弾痕数百個、至近弾20数発、ロケット弾直撃3発命中。1345軍艦旗降下。1424沈没」(海軍中尉 寺島健次の手記)

「昭和20年7月28日、命中弾2、至近弾8、機銃弾無数をうけたのち、『総員退去』が命じられ、航海科の先任兵曹が泣きながらマストの軍艦旗をおろしている。艦長はふたたび艦橋に入ったが、それを先任将校がひきずり出してきた。
紅顔の太田少尉(1期予備生徒出身)の顔もドス黒く、硝煙で顔がはれあがった砲術長がいる。みな、力のかぎり戦ったのである。そして午後2時半、艦は横転して沈没していった」。(第四号海防艦機雷長・海軍中尉 寺島健次の手記)

同年8月11日、横須賀にて解散式。同年9月15日 除籍。

戦後、昭和23年6月30日に、「第四号海防艦」が沈んでいるこの海域は鳥羽の重要なボラ漁場であり、網入れの邪魔となりボラがとれなくなった。また爆破引き上げ作業は、食料不足のおり大事な魚であり、漁獲が減少することは鳥羽の漁師にとって大損害で、漁期までに早く作業を終了して欲しい旨の陳情書が東海海運局に提出された。
この陳情書は「鳥羽港真珠島附近ニ沈没セル海防艦 引揚作業促進陳情ノ件」という表題で「三重県志摩郡鳥羽町大字鳥羽 鳥羽漁業会 会長 廣野藤右衛門」が陳情したものである。昭和22年2月1日に、行動不能艦艇(特)に定められる。その後、東海サルベージにより浮揚され、昭和23年6月30日に解体を終了した。
終わり
(津市在住)

今も世界のどこかで戦いや暗殺が起こっています。主義主張を論じて命の果てるまで戦っています。戦いは古代から天皇、貴族、武士、天皇と繰り返し繰り返し時代を経て今に繋がっています。
日本の歴史には「乱」「変」「役」「陣」があります。「乱」は時代の権力者に対して反乱を起すが、権力者が勝利した戦い(例えば、島原の乱・壬申の乱等)。「変」は反乱を起した結果、成功して歴史的変動のある戦い(本能寺の変・桜田門外の変等)。「役」は他国の侵略や、対外戦争(元寇の役・文禄の役・慶長の役等)。「陣」は本人の考えとは関係なく権力者の命令によって人々が集められて起された戦い(大坂冬の陣・夏の陣等)があります
来年のNHKの大河ドラマは「西郷隆盛」に決定しましたね。明治維新を導いた「維新の三傑」(西郷隆盛・木戸孝允・大久保利通)の一人、西郷の生き方と西南戦争の事が気になりました。
西郷隆盛は薩摩藩の下級武士の出身です。彼は郷中教育(学びのシステム=判断力・決断力・政治力を養う)を受けて育っています。そして彼を見出したのが第十一代薩摩藩主島津斉彬です。
斉彬は日本の近代化の為に改革を進めており、その人材を登用したのが西郷隆盛です。西郷のたび重なる意見書に注目し、彼を呼び出して言いました。
「薩摩藩は井の中の蛙ではダメだ!井から出て日本の蛙になれ、視野を広げよ」と。
西郷が必ず大物になるだろうと斉彬は見抜いていました。この斉彬のカウンターパンチがよく効いたのでしょう。西郷は期待に応じています。日本の政事状勢(薩長同盟・王政復古・江戸開城・廃藩断行)に尽力し、そして諸国の事情に心を配り、努力しています。
江戸開城は斉彬の計らいで元治元年(1864)九月に大坂城で非公式な「勝海舟・西郷隆盛の会談」で西郷は勝海舟の人となりを見て、お互いに幕府の事よりも日本国を守ろうとする客観的な視野を持つ者同士と思いました。その結果、江戸は無血開城となりました。
また明治天皇は股肱の臣として西郷を信頼されました。当時、外交面では欧米の不平等条約は改正されず、また朝鮮とは絶交状態になっていたので 西郷は明治六年(1873)に征韓論(朝鮮に全権使節を派遣して平和的、友好的に国交を維持しようとする意見書)を提出しますが却下された。
政事に敗れ(明治六年の政変)、下野して薩摩に戻ります。しかし、政府にすべての特権を奪われたと不満を持つ士族に推されて西南戦争を決起し、激しく戦いますがついに破れ、鹿児島の城山で妻の糸子が縫った絹の単衣に白い兵児帯を締めて「もう、ここらでよか」と言い残して自刃します。享年五一歳。
西郷の性格は口数少ないが思いやりがあり、懐の大きな人物でした。存在感はいるだけで相手を説得させるだけの力量の持ち主。
だからこの士族の反乱(西南戦争)では人の為に生き、彼を慕う多くの士族の気持ちを受けいれたのです。
彼は維新の英雄であり、又、逆賊の汚名をすべて背負って幕を引きました。
この明治維新と西南戦争で武士はいなくなりました。しかしながら、礼節、品格、価値観の精神は日本人の心の中に深く繋がれています。
ちなみに西郷と共に活躍した勝海舟は後に西郷の名誉回復と功績をたたえる運動をし、西郷の子供達の面倒を見ています。明治天皇は歌会で「西郷隆盛には罪はない。維新の大功者だ。」と明治二二年に賊名を除き、正三位を追贈しています。
戦争は悲しみの集合です。常に人を慈しむ心を持っていたいですね。
鹿児島をこよなく愛し、誠実で心大きな西郷さんの銅像が東京上野公園に建てられています。彼の目は未来のすばらしい日本の幸せを願ってくれているように感じました。

(全国歴史研究会、三重歴史研究会及びときめき高虎会会員)

ようやく転院が決まり、家族も同乗して早朝に出発した搬送車輌は、順調に走っていた。
この日の患者は高齢者。出庫から目的地、帰路を合わせると丸一日の予定。距離は往復で1000㌔になる。阪神方面へ人工呼吸器装着の患者さんの搬送を終えて間もなく、今回の搬送が決まった。そのため、運行者の体調を戻すのも容易ではない。距離も長く、交代で運転するため2種免許を持つ当社応援の看護師と家族、機器、荷物等で満車。事前の打ち合わせを行い、患者さんの負担が少ない今回の陸上搬送になった。
最近、高速道路の事故も頻繁に発生しているので、渋滞時の患者さんの体調も心配される。そのため、万一の時を考え休憩箇所もポイントを絞った。出発時、搬送元病院の看護師達と挨拶できたのが幸いしたのか、患者さんは車窓を眺める余裕もみられ、車内は比較的落ち着いている。
7月に参加したDMAT(巨大地震等を想定した災害派遣医療チーム)による広域医療搬送の実働訓練では、緊迫した中で医師、看護師、ドライバーが呼吸を合わせて機能を発揮し勉強できたことが今回の搬送にも役立っている。
幸い、出発時刻が早いこともあり、高速道路の車数は少ない。逆に、各車のスピードが速い。我々の後方へ接近してくる者さえいる。これにペースを合わせてしまうと、搬送運転にも力を入れ過ぎて、抜きつ抜かれつの危険な状態になるので、平素の運転以上に慎重さが要求される。
患者さんを「安全」に送り届けるのは、一口で言えば簡単だが、その時々に応じた判断が求められる。
距離が長ければ尚さらで、搬送元病院のカンファレンスが必須。添乗する看護師からも色々な質問があったので綿密に打ち合わせし、提供された医療情報などに基づいて車を進めた。
万一のことがあった時に備えてはいたものの、車内の我々に意外なことがあった。「車の窓は広いのう。外の景色も、横の車もどんどん追い越していく。気持ちがええのう」。概ね体を横にしているとは言え、このような言葉が出るとは、誰もが思っていなかった。ドライバー、看護師も一様に安堵の表情。このまま目的地へ、微笑ましい表情が続くことを願った。
概ね半分の時間が過ぎた頃、光景もようやく家屋の出で立ちが変わってきた。「もうちょっとやで。頑張れ」。家族が励ます。看護師もバイタルのチェックをするが、それも必要ないほど眼差しがはっきりしている様子が車内のミラーからも見て取れる。
ようやくインターチェンジを降りる頃には、車内では会話に花が咲いていた。「もう少しだ、よかった」。正直そう思った。車の揺れや気温も、病院内とは比較にならないが、患者さんも努力したに違いない。
今まで運転したことのない地を走り、搬送先病院へ着いたのは、西日が強くなってきた頃だった。まずは、患者さんを先行して下車させ、院内で看護師から状況を報告して終了した。
毎日行き先、搬送患者の状態は異なるし、長距離や緊迫する時など様々だが、常に安全はもとより「勉強させていただく」の気持ちを忘れずのぞみたい。
到着した時にいつももらう「ありがとう」の言葉が、明日への原動力につながっている。
(日本福祉タクシー協会 ・民間救急はあと福祉タクシー)

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