随想倶楽部

羽根を休めて少し寛いだので、次は伊賀国を訪ねて見よう―と。ソーレ!
伊賀街道(津─伊賀上野50㎞)は、ほぼ現在の国道163号線になるのでその上を飛んで行こう。伊賀国は四方を山に囲まれた盆地、忍者の里です。忍者と言えば今では世界中の人が知っています。江戸時代に伊賀伊勢津藩祖藤堂高虎は伊賀上野から津に至る街道を二つ作っています。伊勢別街道と伊賀街道です。今日はあの伊賀越えの傍をね。この街道は参宮の旅行は勿論のこと水産物、塩、綿や種油が往来し、経済と生活に大きな役割を持っていました。
伊勢湾から吹いてくる風と太陽の光が私を伊賀国に運んでくれます。迷路のように入りくんだ複雑な谷と里山の丘陵が見えてきました。あっ、前方に甲賀の飯道山が現れ、この下に765mの霊山があります。飯道山は甲賀忍者の祖役小角が不動明王を本尊としているお寺があります。霊山はかつては最澄が創建したお寺がありました。伊賀忍者の修行の地です
古来より豪族の末裔の武士、修験者(山伏)、渡来人たちの教養と情報集めと採鉱冶金術を持つ技術集団が住み着いた地です。伊賀は元々は東大寺の荘園でしたがやがて荘園領主(寺院、貴族)に対抗する悪党(自力で国をおさめる共和制の自治体)が技術集団と結び付き、独自の山岳ゲリラ術(忍術)を身につけます。ある者は地侍となり、ある者は忍者となって行きます。火を巧みに操り、薬草の知識や剣術を持ちました。すご~いなあ。伊賀は「惣国一揆」(自治共同体)、甲賀は「郡中惣」(自治体)の組織を作って大名に対抗しました。伊賀忍者の大親分は服部半蔵です。織田信長の天正の乱(1579年)で忍者達はこてんこてんにやられて全国に散らばりました。信長が天正十年(1582年)に本能寺の変で自害すると堺見物をしていた徳川家康は伊賀と甲賀の忍者二百人に守られて世にいう生涯最大の苦難〝伊賀越え〟で助けられています。江戸時代に家康はこの忍者達に感謝して甲賀与力、伊賀同心にしています。服部半蔵正成は「鬼」と呼ばれるほど活躍し、徳川家の天下統一に貢献しています。当時のはやり歌に「徳川殿はよい人持ちよ。服部半蔵は鬼半蔵、渡辺半蔵は槍半蔵」と唄われたそうです。
忍者の仕事はあらゆる分野に通じて各地からの情報収集をする事です。火を操って合図の狼煙、鉄砲、火玉、火矢を作り出します。普段は農民と同じく野良着で山里で田畑を耕しています。午前中は家業を行い、午後は技を磨きます。忍者は心の安定と恐怖心を取り除く為に自分は大丈夫という呪文「オンアニチマリシェイソワカ」を心の中で唱えて印を結びます。忍者のトラベルグッズは編み笠、鉤縄、石筆、三尺手拭い、打ち竹、針を常に持って出かけます。そして甲賀伊賀の地は薬草の宝庫です。病気や傷を治す薬を作り、薬の行商人などに姿を変えて各地に情報集めに出かけます。甲賀は薬品の発祥の地。現在は甲良町付近に良い製薬会社が沢山建っています。
さて、田畑の広がった場所に着きました。黄金色の稲穂がびっしり。ブランド品の伊賀米です。伊賀の田圃は独特で、粘土質の泥田から美味しいお米が実ります。元は400万年前の琵琶湖の底の土地から出来ています。琵琶湖は三重県西部の上野盆地に誕生した窪地(大山田湖)で幾多の断層活動等によってこの窪地はやがて大きくなって約40万年前に今の琵琶湖になりましたが、今もなお移動中。琵琶湖も旅行中です。
伊賀の国を訪ねて、今の平和な日本の中で生きる意義を知り、自分を見つめ直す機会をもらったように思いました。
さあー、もう周りはすっかり暗くなり、忍者の姿も見えないし分からなくなりました。もう お家に帰ろうーと。
(全国歴史研究会、三重歴史研究会、ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)

この暑い昼日中の公園に人影が見えた。十代と見える男の子が二人と女の子が一人。スケートボードの練習をしている。
上半身をひねり両足を左右に振りながら前進する。でも数回でボードから外れ足をつく。再びコンクリートを蹴りながらボードに乗り、体を揺らす。ボードに乗って平面を進むだけでも簡単ではないようだ。
今回のオリンピックでストリートというスケートボード競技の存在を知った。手すりや縁石の上を滑り、その技を競う。街中の道路でやるなら迷惑この上ないだろうが、競技となると面白い。「命がけで遊ぶオモチャ」と表現されるボードを、選手たちは自在に扱う。まるで靴裏にボードが貼りついているかのようだ。
オリンピックでは、男女ともに金メダルを獲得した。こんな若い子が金メダルをとれるなんて。賞金やスポンサー契約など、ボードに乗ることで大金を稼げるなんて。驚くばかりだ。
それもあってスケートボード熱がこんな田舎の公園にまで及んできたのだろうか。不良少年の危ない遊びのイメージが、真昼の公園の健全なスポーツに変わったみたい。
ヘルメットは必要ないのか、熱中症は大丈夫かと聞いてみたくなったが、命がけで遊ぶオモチャだからこそ面白いと返されそうで、それは止めた。私は老婆心の持って行き場がない。
(舞)

あっという間に八月も過ぎて、少し体を動かすだけで汗ばむ季節になりました。今は世界中が新型コロナウイルスに悩まされ、外出も人の集まりも控えるという状況の中、時間の感覚が大きく影響を受け、季節が早く過ぎていくように感じます。
夏の始まりに、楽しみにしている庭のさるすべりの木に、美しいピンク色の花が咲きました。風を受けるたびに花の房が大きくゆれて気持ちが和やかになり、優しい気持ちにさせてくれます。
早くマスクのいらない日常の生活が送れる日を待ち遠しく思うばかりです。
今回は、晩夏の隅田川の夜景を見るような流燈会を唄った江戸小唄「都鳥」と新緑に雨、それに時鳥を配した「梅雨催い」という二曲をご紹介いたします。

都鳥
初代清元菊寿太夫曲
都鳥 流れにつづく燈篭の よるよる風の涼み船 波の綾瀬の水清く 心隅田の楫枕

これは、明治十一年七月に行われた隅田川の流燈会を唄った小唄で、明治期の新作小唄第一号と言われています。これを企画したのは「言間団子」の主人・植佐老人です。隅田堤に茶店を出し、在原業平の故事にちなんで、言間団子と名づけ、明治初年の江戸っ子に賞美され、「長命寺の桜餅」と共に江戸名物となりました。
この茶店を訪ねた当時の文人などに相談し、維新前まで行われていた七月の孟蘭盆に、隅田川の水死人のための川施餓鬼の行事を再興しようと考え、趣向を変えて牛島興福寺の流燈会と名付け、許可を得て明治十一年七月一日から三十日間、水神の森から毎晩、都鳥の形をした燈篭を櫛田川に流しました。
当時は小船から縄を引いて沢山の都鳥形の燈篭をつなぎ、船を漕いで川を上下したもので、高さ一尺、幅一尺五寸に彩色し、蠟を塗り、竹で骨を造り、カンテラを板に取り付けたものです。
百を数える都鳥が波のまにまに流れて淡い影を水に落としました。小唄「都鳥」は、この風景を唄ったもので、作詞者は不明ですが、おそらく後援の文士の作だと思われます。作曲者の初代菊寿太夫は五十九才の円熟した時代のことで、流石に面白く、賑やかな替手もついていて、晩夏の隅田川の夜景を目の当たりに見るような美しく賑やかな曲になっています。

梅雨催い
大槻正二 詞・曲 梅雨催い 傘持つ程もなかりしに 何時降りそめし 五月雨や
軒の玉水音冴えて 雨も乙だよ 葉山の茂り
オヤ時鳥 初音聞かせてなまめかし

これは大正期に作られた江戸小唄です。この小唄に「新緑てりそう山の宿に二人居て」という表題をつけると、はっきりと状景が浮かんできます。「葉山の茂り」は「葉山」という地名のことです。「梅雨催い~五月雨や」までは実にうまい五月雨の描写です。「軒の玉水」は、軒を伝わって落ちる雨だれの音。「初音」は二人がその年に初めて聞いた山ほととぎすの啼声のことです。
作曲も新緑に雨、それに時鳥を配し、時鳥のなまめかしい鳴き声を面白く聞かせる独得の味わいを持った乙な小唄になっています。
新型コロナウイルスという疫病に世界が振り回され、大変な時代を迎えております。自粛生活も長くなり、運動不足になりがちです。お体にはくれぐれも気をつけてお過ごし下さい。
小唄 土筆派家元
参考・木村菊太郎著「江戸小唄」

三味線や小唄に興味のある方、お聴きになりたい方はお気軽にご連絡下さい。また、中日文化センターで講師も務めております。稽古場は「料亭ヤマニ」になっております。電話059・228・3590。

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