随想倶楽部
この1年を振り返ると、突発の民間救急搬送案件が多かった。ある日の朝も決まったように夜間搬送の後、1本の電話。北海道の民間救急業者からだった。「突然ですが、新千歳空港から中部国際空港まで航空機でまいりますので、そこから三重県内の病院まで患者さんを連携搬送して欲しい」。
道内外の連携搬送の依頼は珍しいことではない。今回はリハビリテーション治療が目的だが、所要時間もかかるため体に負担なく早く搬送できる航空機が選ばれた。しかし、日程が混んでいて当社もフライトの到着予定に合わせるのはなかなか難しい。連携の便利さとスピードは、患者の大きな命綱にもなる。何度も時間をやりくりし、了解を伝えた。
民間救急での連携とは、車両での長時間の移動が困難な患者を、航空機やヘリコプター、新幹線、フェリーなどの航空、鉄道会社と連携して搬送するサービスのこと。消防庁の基準に基づいて「民間患者等搬送事業者」が、緊急性の低い患者の入退院や通院、転院、社会福祉施設への移動手段を提供する。
当日は、北海道の搬送元から看護師も添乗予定。聞くと、札幌は降雪予報らしい。全国を股にかけるが、天気も様々で予定の乱れが悩みの種。
搬送連携にあたっては重症など状況により、一般車両が入れない空港制限区域内に車両を入れることもある。今回は到着ロビーで待機。空模様を心配したが搭乗便は大きな遅れもなく到着。スタッフと共に来た患者の顔は若干の疲れが見られたが、受け答えもはっきりしている。バトンタッチする旨を伝え、当社の車両に乗車。道中伊勢湾岸の流れ行く景色を見ながら、無事三重県内の目的病院へ搬送できた。
北海道に限らず、県庁所在地や地方の中核都市、農山村地域…各地に対応する民間救急の役割は多々。風光明媚な三重県では観光等を目的に他県からバイクや車などで訪れた際、事故や体調不良で入院となり、その後、転院のために県南部から名古屋や関西方面などへ長時間の搬送となるケースが。運転にも配慮が必要だが、患者の病状などによって他社との連携も考慮に入れなければならない。
民間救急は、搬送元から搬送先まで気を抜けず、安全搬送の責任がかかっている。万一のとき、病院や施設から長距離の場合、車両や航空機などを駆使した搬送が必要になり、行政や医療機関、移送サービスの連携が大切だ。救急車の適正利用を促しつつ、全国に展開する民間救急の役割は大きい。(民間救急はあと福祉タクシー代表)
2024年12月5日 AM 4:55
「サロン」ってなんと良い響きでしょう。優雅で洗練された客間や応接間で人々が楽しく語っている姿が想い浮かびます。サロンはフランス語で「客間」の意味。教養ある上流婦人が来客をおもてなしする広間です。
日本では平安時代の華やかな文化サロンとして賀茂斎院・定子サロン・彰子サロンが挙げられます。賀茂斎院は賀茂神社に巫女として奉仕した未婚の内親王の御所で、伊勢神宮の斎宮にならったものです。歌会、絵合わせ、雅楽を行い、人との関係や人と自然への礼節を大切にして知性ある所作のところです。なかでも選子内親王(父第六二代村上天皇、母藤原安子)は五代の天皇に仕えた歌人です。選子内親王は定子、彰子のサロンに影響を与えています。教養(歌を詠む、文字を書く、楽器を奏でる)をもった中流貴族の娘が女房(宮中の女官)として皇后、中宮に仕えました。
定子(父藤原道隆 母高階貴子)のサロンは一条天皇や高級官僚が集い会話や芸術を楽しむ知的なサロンです。『枕草子』の作者清少納言は定子に仕えており、定子の頭がよく、思いやり深く、朗らかな性格に心から崇拝しています。一条天皇と定子皇后の仲睦ましい箇所が『枕草子』の四七段と七七段に書かれています。しかし、定子は父兄の政治失脚で後ろ盾をなくし、悲しみと苦しみの中で死んでしまいました。
中宮彰子(父藤原道長母源雅信の娘倫子)がサロンを作っています。赤染衛門、紫式部、和泉式部などが女房として仕えています。高貴なお嬢様の集りの会です。彰子は上品で優しく控えめな性格なのです。父の道長が才能や聡明な人柄の紫式部を探し出して、『源氏物語』を書くのを支援しています。歌会、管弦楽が盛んに行われた事が日記等に書き残しています。
安土桃山時代になると豊臣秀吉の正室寧々がサロンを開いており、大名や禅僧達が集まる文化サロンです。高台寺の圓徳院の名勝「北庭」は時勢の移り行くのをじっと見ていたのでしょう。江戸時代では将軍家の私的なサロンである大奥があります。将軍様しか入れない所です。徳川幕府第三代将軍家光の乳母春日局が作った巨大な女性の居室(ハーレム)。幕末まで続きました。儒学思想を基としての情操教育がなされています。愛憎の深いサロンであったろうと思います。
海外ではフランスのルイ16世とマリー・アントワネットのベルサイユ宮殿や、オーストリアのマリア・テレジアのサロンがあり華やかな舞踏会が行われています。私の好きなナポレオンの皇后ジョゼフィーヌはマルメゾン舘にサロンがあり新しい文化を生み出しています。ジョゼフィーヌは一度だけ着た衣服は女官達に渡したり、化粧の仕方や優雅な言葉は上流階級の婦人達に大きな影響を与えています。「フランス人の皇后閣下」と称され、飾らない朗らかな人柄なので訪れる客人でサロンは一杯です。美しいバラ園の香りが人々の心を満たしています。
さて、サロンには愛玩された猫、犬がいます。日本の猫の起源は6世紀の仏教伝来の頃です。飼育された猫は当時貴重だった紙がネズミに食い荒らされるのを防ぐ為の大切なペット(便利な道具)です。父より譲り受けた黒い猫を一条天皇はまるで宝物のように懐に入れています。平安時代に描かれた『信貴山縁起絵巻』には猫は室内で首輪がつけられてうずくまっており、犬はのびのびと放し飼いです。『源氏物語』の若菜三十四帖には猫は紐で繋がれているシーンがあります。室町時代には臨済宗の東福寺(京都東山区)の吉山明兆(兆殿司)作のもので龍光寺(鈴鹿市)と林性寺(津市榊原町)の涅槃図に猫が描かれています。江戸時代では徳川家康の側室である御奈津の方が増上寺に寄進した涅槃図(狩野芳崖作)に白黒の猫が描かれています。猫には長寿の意味が含まれているからでしょう。
そして犬も猫と共に崇拝された動物です。犬は災いを払いのける力があると言い伝えられています。白い犬は吉兆のしるし=神の使いで幸福をもたらす動物とされていました。日本書紀のヤマトタケルの道案内の白い犬。聖徳太子の犬は白い「雪丸」。藤原道長を呪いから救ったのも白い犬です。平安期は猫のほうが大切にされていましたが、鎌倉期に入ると犬が大切にされるようになり犬も人間の餌として飼われていました。江戸期には「生類憐みの令」の犬公方綱吉は犬を大事にした話は有名ですが、捨て子や病人の保護や弱者の養護に力を入れています。動物愛護の先駆けでしょう。また飼い主の代わりに伊勢参りをする犬もいました。さらに将軍や大奥など室内で飼われた〝狆〟がいます。古代に中国から献上された犬を基にして日本で作り出された小型犬です。
十七~十八世紀のヨーロッパのサロンではパピヨン、コーギー、コリー等を飼っています。
古くからテレビ番組でやっている「トムとジェリー」唱歌の「雪やこんこん」に出てくる猫と犬のシーンが思い出されて楽しい気分になります。猫や犬と一緒にいると癒されると言われます。動物の存在は心の拠りところ、心の安定のためになるのでしょう。「きょうのわんこ」を見ていると何故かおいしそうな名前(例えば、もも、プリン、あずき)が多いように思います。それ程に可愛いのでしょうね。
古代から変わることなく続く人間愛、人と関わりは各サロンの発展となり、また愛玩の猫や犬への心持ちは人を和ませ、心豊かにしてくれるのでしょう。
(全国歴史研究会 三重歴史研究会 ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)
2024年7月25日 AM 4:55
民間救急の仕事は患者搬送が多いが、それ以外にも遠出の搬送・付き添いの仕事もある。
社会には、介護が必要なために好きな旅行や遠出ができないという人もいる。他の人達に迷惑をかけそうで気が引けたり、同様のことで余計に家に引きこもりがちになる人も多い。このような家族の思いに寄り添うのも我々の大切な仕事なのだ。今回は、それを見事にクリアした家族の思い出旅をご紹介する。
案件は、車椅子を利用している母親を連れて故郷の四国まで二泊三日で連れて行きたいとのこと。大切な親に最高の親孝行をしたい、親が生まれ育った懐かしい地で墓参りをして親戚にも会い、久々の親子水入らずのふるさと帰りを希望している。
今回は介助をしながら安全安心に、慣れない長距離をどのようにするか悩んだらしい。
一本の電話から始まった遠地への墓参介護サポート。緊急時は救護も可能な民間救急として迅速な対応を可能にしているため安心して楽しむことができる。長距離に精通した乗務員を始め我々が積んできた搬送業務の経験は、久々のふるさとの風景の中で新たな喜びを見出だせてもらえると思った。
「母親を念願の故郷の墓参りに連れて行ける」。家族や本人にも期待が溢れ、着々と道中の計画が進んだ。
本人の体調について詳細を聞く。幸い、車外での移動を除いて、車への移乗も介助をすれば可能なようだ。先祖の墓は香川県にある漁港の近く。古い墓石が縦横無尽にあるため、サポートなくては難しいらしい。
三重県から普通に走って4時間弱。途中のトイレ介助や食事などの休憩を入れると、それ以上かかる。いかに休憩を要領よく入れて本人の疲れを減らし、目的地へ着けるかが課題だ。
出発当日は雨模様。それでも何とか乗降でき、母親の緊張した気分も少しほぐれた様子。そのうち、運良く天候も回復した。向かうのは香川県さぬき市。このような遠距離地へ向かうのは、家族と本人の体力、そして搬送業者の「安心感とアドバイス、コミュニケーション」が三位一体にならないと実現できない。
道中、本人の様子を伺うが問題はない。好調に3時間を過ぎた頃、眼前に雄大な明石海峡、次いで渦巻く鳴門海峡が見えた。
「ここ、随分前に主人と一緒に車で来て、見た光景よ」
過去に走った時の思いが甦っているようだ。海の色は見事なコバルトブルー。家族の気持ちも一層華やぐ。出発してから4時間半以上は経った。やっと到着した宿泊予定地は広大な松原で有名。観光客も多いという。凪いだ湾口へ足を延ばして道中の疲れを癒し、翌日に備えた。
ハプニングもあった。2日目は台風1号の北上で四国地方は前線が刺激されて大雨になった。前日の湾内の風景とうって変わって道路から泥土が流れ出すような豪雨と化した。
それでも、予定していた現地の施設に入所している人に久しぶりに会うため、何とか決行したい。ドライバー兼務の私も、ずぶ濡れになりながら乗降介助をした。その夜も宿泊所の窓を雨が強く叩く。それを聞くと最終日に迫った墓参りが不安になった。
しかし、夜が明けて窓を覗くと、小豆島が凪いだ海面の向こう側に見事な姿を見せていた。
「よかった」
自分が呟いた安堵の言葉。漁港近くで特有の砂地に建立された墓地を訪れた。複数の墓石の間を車椅子で進むのは並大抵ではないが、やっと来た念願の墓参りに本人と家族は涙ぐんでいる。青く光る海、さえずる小鳥の鳴き声は、この地特有のもの。
皆で来れたことに感謝して手を合わせた。母親も、やっと満面の笑みを見せる。
「家では見なかった笑顔です。来てよかったです」
小一時間の墓参だったが、本人の想いは随分以前へ遡っているようだ。
帰路の明石海峡はブルーを一層濃くしていた。親子共々「別天地を走るよう。また、来たいね」。民間救急車での幸せのお手伝いがまたひとつ増えた。充実感と達成感を胸に帰路についた。
(民間救急はあと福祉タクシー代表)
2024年6月27日 AM 4:55