随想倶楽部

「また地震!今度はどこ?」ニュース速報で流れる緊急放送に思わずドキッとしてしまう。東海、東南海、南海地震が連動して発生したのは一六〇五年、一七〇七年のこと。一七〇七年は宝永地震といわれ富士山が噴火し宝永山ができた。
その二年後に谷川士清が生まれていることから、しっかりと覚えた。
日本は火山帯の上に位置しているから火山の噴火や地震はいつ起こるかわからない。両者の関係を武蔵野学院大学特任教授、島村英紀氏が次のようにコメントされていた。「過去に大地震がおきると地震の一日後から五年くらい後までに半径六〇〇~一〇〇〇キロ以内の複数の火山が噴火しています。これは本州が覆われるような範囲で、これからも日本列島のどこで火山件の噴火件が起きても不思議ではない」。
記憶に新しい火山噴火は二〇一四年九月二七日の御嶽山(長野県)で山頂付近にいた登山客がまきこまれた。他には、二〇一五年五月二九日に口永良部島(鹿児島県)新岳が噴火し全島民が屋久島に避難した。同年六月一九日には浅間山が噴火している。
活火山の代表、阿蘇山に私は数多く思い出がある。最初に訪れたのは津校生であったときの修学旅行。恐る恐る火口をのぞきこみ、友と雄大な景色をバックに笑顔で写真に収まった。
高校教師になってからは、二年の担任になる度に訪れ、他の場所より神経を使って生徒を引率した。初年度、事前調査もしていたのに、幼児期に軽い喘息になった生徒が発作をおこし、クラスは副担任に任せ保健の先生と病院へかけこんだ。幸い発作は収まったが、その後、軽い喘息でも経験者は待機するよう規則を厳しくした。草千里で寝そべって流れる雲を見るなんて完全に夢であった。退職してからやっとのんびり阿蘇を訪れ、火山国の恩恵、温泉へと足を運んだ。
日本人は何度も大噴火や大地震にあいながらも、生活を建て直し美しい景色を取り戻す努力をするすばらしい底力を持つ民族と言える。火力発電を地震国日本に作るとは自然をあまりに甘く見ている。
さて、わが敬愛する谷川士清は日本で初めて五十音順に並んだ辞書『和訓栞』を書いた人で一七〇九~一七七六年に生きている。その間大地震や火山の大噴火はなかったようだが、『和訓栞』に次のように記してあった。
あさま…絶頂に大坑あり径十町はかり常に煙立のぼりて硫黄の気あり大焼の時八五七里か間鳴動し茶碗皿鉢の類も響きて破るる事あるといへり…
あそ…この阿蘇ハ肥後の阿蘇山也桓武紀に肥後言阿蘇山神霊池水涸甘餘丈と見ゆ…
おんだけ…俗に木曾の御嶽をかくいへり富士浅間にならふ高山なり…
『和訓栞』は全九三巻を前編・中編・後編に分け、それぞれ「アからオ(ヲ)」まで載せてある。前編は古言と雅語中心、中編は雅語中心、後編は方言、俗語、外来語が中心である。「あそ」は前編に、「あさま」と「おんだけ」は中編に載っていた。
当時は出版費用が非常に高く、士清は自分が死んだあと、子孫の人たちがお金の工面がしやすいようにと配慮したのであろう。
子孫は百十年かけ、すべての財産をつぎ込んで明治二十年に全巻を出版し終えた。谷川士清旧宅は津市教育委員会が管理し、月曜日休館、入場料無料で公開している。ぜひ訪れて郷土の偉人の業績を知っていただきたい。旧宅☎059・225・4346
(谷川士清の会顧問)

いつの世も、時代は変わっても、長生きしたい、お金が欲しい、幸せになりたい……と人々の願いは同じです。
七福神は室町時代の京で始まった民間信仰で、江戸時代になると庶民も神社仏閣に参詣するようになります。講(例えば伊勢講・冨士講)、観音様、六地蔵、不動(例えば成田不動)、阿弥陀様、霊場四十四ヶ所巡りなどがあり、人々は災害予防や病気平癒、財宝福徳、子孫繁栄など神仏にすがりたい心と共に参詣も一つの行楽となっていきました。
この福神信仰は徳川家康の奨励で盛んになりました。きっかけは家康が天台宗上野寛永寺の開祖である天海僧正に「どうすれば国が栄え、人徳を養えるのだろうか」と尋ねると「仁王経(護国安穏のためには般若波羅蜜経)から『七難即滅、七福即生』という言葉を引用して仏教を大切にし、尊うものです。」と説き、又、「人生に必要な徳は、裕福・威厳・愛敬・人望・寿命・大量・清廉の七つです。」と答えました。
家康は深く感銘して絵師の狩野探幽に七福神を描かせ、この事によって全国各地に七福神を祀る寺社が建てられるようになりました。そして縁起のよい「七福神宝船」の絵は〝福神絵〟と呼ばれ、歌川国貞や国芳らも描いています。
七福神の顔ぶれは、インドに起源をもつ仏教の神は大黒天・毘沙門天・弁財天。中国の神は福禄寿・寿老人・布袋尊です。
唯一、日本の神は恵比寿神で出自は各地、各時代のさまざまな神様です。「大黒天」は裕福、五穀豊穣の神で大きな袋と打ち出の小槌を持っています。
「毘沙門天」は威厳、開運の神で甲冑を着て邪気を祓います。「弁財天」は、愛敬、知恵、音楽の神で琵琶を手に持って羽衣をまとった女神。「福禄寿」は人望、三徳(福、身分、寿命)の神で、白い髭をたくわえています。「寿老人」は寿命、富貴の神で黒頭巾を被り、鹿を従えています。
「布袋尊」は大量、即ち心大きく家庭円満、金運招福の神として信仰が篤く、唯一実在の唐代末期の人物がモデルです。大きな袋にすべての財宝を一杯入れて人を救い歩いた禅僧です。 「恵比寿神」は清廉、商売繁盛の神で日本固有の生業の守り神。狩衣を着て、左脇に鯛、右手に釣ざおを持っています。この七福神が宝船に乗って海の彼方から訪れるのです。いわば福の神の夢の一団です。
さて、福禄寿と寿老人は共に南極星の化身といわれており、よく似ています。見分ける特徴としては福禄寿は長い顔で禿頭。寿老人は黒頭巾を被って杖を持っているところでしょう。
どちらもやさしく親しみのあるお顔です。
江戸時代にお宝売りが下から読んでも上から読んでも同じめでたい歌「なかき夜の遠の眠りの皆めさめ波のり船の音のよきかな」を書いた宝船の絵を持ち、各家ごとに売り歩いていました。
そして七福神詣は宝暦期(1751~1764)に始まり、東京谷中七福神巡りが最も古いものとされ、文化文政期には隅田川七福神巡りがあり、その他神奈川、京の東山などで一気に全国的に流行したのです。 今や五百箇所余りあります。当地の伊勢の津七福神巡り(四天王寺=大黒天、津観音寺=毘沙門天、円光寺=弁財天、結城神社=福禄寿、高山神社=寿老人、榊原の地蔵寺=布袋尊、初馬寺=恵比須神)をする事ができます。私はこれらの場所を訪ねてここち良い時間を過ごしました。
風景や名物を楽しみながら神様に出会うのは本当に幸福感が得られます。歩いて健康、拝んで福徳を、ご利益  を!
さあ、皆で幸せをいただきましょう。 (全国歴史研究会・三重歴史研究会・ときめき高虎会会員)

念願であった日本三大山城の一つ、岐阜恵那の岩村城を訪ねる事ができました。(他には奈良大和の高取城・岡山備中の松山城があります。)日本最高所717mの場所に本丸を構えた〝岐阜のマチュピチュ”で別名〝霧ヶ城”と呼ばれています。
岩村城は源頼朝が最も信頼した武将加藤景廉に文治元年(1185)に東美濃の遠山荘を与えました。その長男景朝がこの地に住み遠山姓を名乗り、子孫は岩村城を本拠としました。城主は幾多も替わりましたが明治維新まで存続する。私は本丸跡に立ち、四方の山々や城下町を一望した時、遠山景任の妻の事が脳裡をよこぎりました。戦国時代の世に悲哀に散った女性の事です。
岩村城は甲斐の武田信玄と尾張の織田信長の戦いのはざまにあり、双方にとっては重要な拠点です。信長にすればこの城を押さえておけば信濃・甲斐を攻めるのによいし、又、信玄にすればここから一挙に美濃に入れる城であります。信玄を恐れていた信長は約385年間遠山氏が守って来た岩村の地に、父信秀に妹である叔母を遠山景任の正室として送り込んだのです。女の意思もなく愛もない政治道具の政略結婚。元亀元年(1570)に武田軍秋山信友(晴近)に攻められ、遠山一族は総出で戦うが敗れました。それから1年余り後に景任は病死。未亡人(修理夫人、おつやの方)は遠山家を出ません。信長とこの城の関係を繫ごうとし、信長の五男で7歳の御坊丸を養子に迎えて、「城主は私がなる」と実権を握りました。天正元年(1573)春、再度秋山信友を将とする武田軍が攻めてきました。女城主は甥の信長に救援を求めていたのですが、信長は都への上洛に動き出した信玄に立ち向かう為に助けに行く余裕はなかったのでしょう。孤立した岩村の女城主は不安の中にあり、見捨てられたと思い、悲しみの心でいました。四ヶ月の籠城の後、秋山信友の和睦案(そなたを妻に迎え、御坊丸を我が子とし、城を保とうぞ)を受け入れ開城しました。そして信友の妻となり、甘い甘い日々を楽しみ、恋する女として生きていました。御坊丸は武田氏の人質として甲斐に送られていたのです。しかし、この敵将秋山との夫婦生活は2年と続かなかったのです。武田信玄は上洛の途中で病気(胃ガン)で死去。後を継いだ信玄の四男勝頼は天正3年(1575)長篠の戦で敗戦。武田と織田の勢力が逆転です。天は信長に味方したのです。
信長の叔母への怒り恨みは深かった。嫡子信忠に岩村城を攻めさせました。籠城5ヶ月、11月21日に秋山は兵や家族の命の保障を条件に降伏したのですが、信長方は条件を守らず木実峠で逃げ惑う兵士・女・赤子のすべてを殺しました。そして信忠は秋山夫妻ら5人を残酷な逆磔にして、後に大将塚に葬られています。「おのれ信長め!織田を祟ってやる。必ず織田を滅ぼしてやる」と絶叫して命果てたと云われています。後に人質となっていた御坊丸は信長の元に帰されて織田勝長と名乗りますが、叔母の呪いだろうか7年後の本能寺の変で信長・信忠が死に、勝長も二条御所で討ち死にしています。女の執念はすごい!
この城は、地下水脈がサイフォン現象を起こしており水が豊富。殿様の食事に使用されました。地形的に霧が発生しやすいので霧ヶ井伝説は有名です。また本丸裏門の石垣は野面積み、打込接ぎ、切込み接ぎの三種の積み方が一度に見られる珍しい場所です。
平和なやさしい心で生きることなく、家のため、国のため生きたのが戦国期の女性なのです。悲哀の女城主の生き方や叫びを歴史の中に尋ねて、今の世に生かされる私達女性は常に国や家の太陽であり、社会との関わり、知識、工夫を持ち、輝き、楽しい日々を過ごしたいと感じました。
(全国歴史研究会・三重歴史研究会・ときめき高虎会会員)

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