随想倶楽部

〽虫の音を止めて嬉しき庭づたい
開くる柴折戸桐一葉 えぇ憎らしい秋の空
月はしょんぼり雲がくれ

虫たちの声が涼しさを運び、やっと夏の暑さから解放され、庭の秋草も色めいて、秋の気配を感じる季節になりました。
私は小唄と三味線を教えさせていただいておりますが、秋の季節がまいりますと、この虫の音をどなたかにお教えしたくなります。 小唄は俳句と同様、大変季節を大切にいたします。この唄は明治中期に作られた代表的な江戸小唄の一つで、歌詞も作曲も整った小唄ですが、作詞、作曲者は共に不明です。
秋の夜、庭づたいに、たずねてゆく、色気のある情景が、まことに調子よく、歌詞にも曲にもあらわれております。秋虫の音は、鈴虫、松虫、くつわ虫、こおろぎでしょうか、庭草に涼しく集く虫の音を、止めさせないように、静かに草むらをよけて、庭石づたいに歩いてゆくと、そこに柴折戸があって、そっと開くと同時に、桐の一葉がはらりと落ちるあたり、秋の夜の情景が遺憾なくこの小唄にあらわれております。折角忍び足でたずねていっても、主は不在だったのでしょうか、「えぇ憎らしい秋の空、月はしょんぼり雲がくれ」と結んで、淋しい落葉の秋にことよせた恋の唄でございます。
次に江戸時代初期に作られました、東海道の鈴鹿峠(三重県と滋賀県に跨がる)を往来する馬士達によってこの地に、古くから唄われております鈴鹿馬士唄を御紹介いたします。

〽坂は照る照る 鈴鹿は曇る
間の土山 雨が降る
この「坂はてるれる」の坂は鈴鹿峠の南麓の坂ではなく、土山に次の宿「松尾の坂」だといわれております。当時、松尾の坂から土山へは、下り坂になっていたので、馬士達は京都の客を水口から、松尾の坂を下って、土山にかかり、それから鈴鹿峠へとかかる所を唄ったものだと思われます。
そしてこの唄の意味は、松尾の坂を下る時は、かんかんに晴れていても、鈴鹿峠はいつも曇っていて、その間にある土山は雨の名所といわれる名の通り、雨が多いという唄でございます。この馬士唄は芝居小唄の中や、人形浄瑠璃、地唄にも多くとり入れられ、唄われております。
小唄の内容には、季節を唄ったもの、恋心、男女の機微を唄ったもの、田舎唄など様々でございます。一分から四分位の楽曲として、表現されており、短い曲の中に、伝統的な邦楽のエッセンスがギュッと凝縮して入っております。
私はこれから少しでも、多くの皆様が小唄に興味をお持ちいただけるよう、お役に立てればと願いながら、大好きな小唄を伝えていきたいと思っております。
(小唄土筆派三代目家元)

朝、家のまわりを掃除して車庫の前まで行ったら、通りに、ガマガエルが車に轢かれて死んでいました。前日の夕方は見かけなかったので、多分、前夜か早朝にやられたにちがいありません。この炎天下、ほっておけばやがて干からびて土ほこりになって消えてしまうことでしょう。
でも、あわれといえばあわれです。それに車庫の前というのも気になります。そこで、そのガマガエルの亡骸をきれいな白い紙袋におさめて、少し離れた市有の空き地まで持って行き、朝露にぬれた夏草の根元にていねいに葬ってやりました。
たかがこれしきのこと…、です。ところが私にとって、ガマガエルにはいささか因縁めいた思い出があるのです。私の父は、陸軍法務官として支那事変、太平洋戦争に参加し、長く中国各地、ビルマなどを転戦しました。
その間、かの地で得たマラリアが悪化して、終戦の直前に内地の陸軍病院に送還され、終戦を迎えました。終戦後は、郷里(現在の紀北町)に帰ったものの、戦地から持って帰った病が進行して、昭和23年4月に42歳で亡くなりました。私は13歳でした。
母から聞いた話です。帰郷して治療中だった父が頭痛に悩んでいたある日、ガマガエルが父の夢に現われたそうです。ガマガエルが言うには、「おれを殺して黒焼にして飲むがよい、そうしたらお前の頭痛がおさまる」と。
ガマガエルには、目の後ろに細長い耳線があり、有毒な液を分泌することがわかっています。中国では、この耳線からの分泌液を集めて乾燥し、薬として強心、鎮痛、解毒などに用いるそうです。父は、このことを中国にいたころ知って、頭のどこかに残していたのかも知れません。
私には、直接的な父の思い出は薄れてしまってほとんどありません。それなのに、母から聞いていた父が見た夢の話は、数少ない父の思い出の中に残っています。あの日の朝、ガマガエルの哀れな姿を見た時、この夢の話を直ぐに思い出しました。
ついでながら、「ガマの脂」で知られるガマガエルの標準名は「ヒキガエル」です。でも、ガマガエルというほうが何だかとおりがよさそうです。近づいても動じることなく悠然としている姿には、ある種の貫祿を感じてしまいます。年々生息環境が狭くなり、まち中で輪禍にあったりするのは、彼らにとっては気の毒なことと言わねばなりません。
サン・サーンスの作品に「交響詩《オンファールの糸車》」という曲があります。珍しい曲名にひかれてCDを買ってきました。糸車の回る音を巧みに表現した面白い曲です。ところが、あの日の朝以来、私には糸車の回る音がガマガエルの鳴き声に聞こえるのは不思議です。

(元・三重県総合文化センター副総長兼文化会館長)

朝、家のまわりを掃除して車庫の前まで行ったら、通りに、ガマガエルが車に轢かれて死んでいました。前日の夕方は見かけなかったので、多分、前夜か早朝にやられたにちがいありません。この炎天下、ほっておけばやがて干からびて土ほこりになって消えてしまうことでしょう。
でも、あわれといえばあわれです。それに車庫の前というのも気になります。そこで、そのガマガエルの亡骸をきれいな白い紙袋におさめて、少し離れた市有の空き地まで持って行き、朝露にぬれた夏草の根元にていねいに葬ってやりました。
たかがこれしきのこと…、です。ところが私にとって、ガマガエルにはいささか因縁めいた思い出があるのです。私の父は、陸軍法務官として支那事変、太平洋戦争に参加し、長く中国各地、ビルマなどを転戦しました。
その間、かの地で得たマラリアが悪化して、終戦の直前に内地の陸軍病院に送還され、終戦を迎えました。終戦後は、郷里(現在の紀北町)に帰ったものの、戦地から持って帰った病が進行して、昭和23年4月に42歳で亡くなりました。私は13歳でした。
母から聞いた話です。帰郷して治療中だった父が頭痛に悩んでいたある日、ガマガエルが父の夢に現われたそうです。ガマガエルが言うには、「おれを殺して黒焼にして飲むがよい、そうしたらお前の頭痛がおさまる」と。
ガマガエルには、目の後ろに細長い耳線があり、有毒な液を分泌することがわかっています。中国では、この耳線からの分泌液を集めて乾燥し、薬として強心、鎮痛、解毒などに用いるそうです。父は、このことを中国にいたころ知って、頭のどこかに残していたのかも知れません。
私には、直接的な父の思い出は薄れてしまってほとんどありません。それなのに、母から聞いていた父が見た夢の話は、数少ない父の思い出の中に残っています。あの日の朝、ガマガエルの哀れな姿を見た時、この夢の話を直ぐに思い出しました。
ついでながら、「ガマの脂」で知られるガマガエルの標準名は「ヒキガエル」です。でも、ガマガエルというほうが何だかとおりがよさそうです。近づいても動じることなく悠然としている姿には、ある種の貫祿を感じてしまいます。年々生息環境が狭くなり、まち中で輪禍にあったりするのは、彼らにとっては気の毒なことと言わねばなりません。
サン・サーンスの作品に「交響詩《オンファールの糸車》」という曲があります。珍しい曲名にひかれてCDを買ってきました。糸車の回る音を巧みに表現した面白い曲です。ところが、あの日の朝以来、私には糸車の回る音がガマガエルの鳴き声に聞こえるのは不思議です。

(元・三重県総合文化センター副総長兼文化会館長)

「また地震!今度はどこ?」ニュース速報で流れる緊急放送に思わずドキッとしてしまう。東海、東南海、南海地震が連動して発生したのは一六〇五年、一七〇七年のこと。一七〇七年は宝永地震といわれ富士山が噴火し宝永山ができた。
その二年後に谷川士清が生まれていることから、しっかりと覚えた。
日本は火山帯の上に位置しているから火山の噴火や地震はいつ起こるかわからない。両者の関係を武蔵野学院大学特任教授、島村英紀氏が次のようにコメントされていた。「過去に大地震がおきると地震の一日後から五年くらい後までに半径六〇〇~一〇〇〇キロ以内の複数の火山が噴火しています。これは本州が覆われるような範囲で、これからも日本列島のどこで火山件の噴火件が起きても不思議ではない」。
記憶に新しい火山噴火は二〇一四年九月二七日の御嶽山(長野県)で山頂付近にいた登山客がまきこまれた。他には、二〇一五年五月二九日に口永良部島(鹿児島県)新岳が噴火し全島民が屋久島に避難した。同年六月一九日には浅間山が噴火している。
活火山の代表、阿蘇山に私は数多く思い出がある。最初に訪れたのは津校生であったときの修学旅行。恐る恐る火口をのぞきこみ、友と雄大な景色をバックに笑顔で写真に収まった。
高校教師になってからは、二年の担任になる度に訪れ、他の場所より神経を使って生徒を引率した。初年度、事前調査もしていたのに、幼児期に軽い喘息になった生徒が発作をおこし、クラスは副担任に任せ保健の先生と病院へかけこんだ。幸い発作は収まったが、その後、軽い喘息でも経験者は待機するよう規則を厳しくした。草千里で寝そべって流れる雲を見るなんて完全に夢であった。退職してからやっとのんびり阿蘇を訪れ、火山国の恩恵、温泉へと足を運んだ。
日本人は何度も大噴火や大地震にあいながらも、生活を建て直し美しい景色を取り戻す努力をするすばらしい底力を持つ民族と言える。火力発電を地震国日本に作るとは自然をあまりに甘く見ている。
さて、わが敬愛する谷川士清は日本で初めて五十音順に並んだ辞書『和訓栞』を書いた人で一七〇九~一七七六年に生きている。その間大地震や火山の大噴火はなかったようだが、『和訓栞』に次のように記してあった。
あさま…絶頂に大坑あり径十町はかり常に煙立のぼりて硫黄の気あり大焼の時八五七里か間鳴動し茶碗皿鉢の類も響きて破るる事あるといへり…
あそ…この阿蘇ハ肥後の阿蘇山也桓武紀に肥後言阿蘇山神霊池水涸甘餘丈と見ゆ…
おんだけ…俗に木曾の御嶽をかくいへり富士浅間にならふ高山なり…
『和訓栞』は全九三巻を前編・中編・後編に分け、それぞれ「アからオ(ヲ)」まで載せてある。前編は古言と雅語中心、中編は雅語中心、後編は方言、俗語、外来語が中心である。「あそ」は前編に、「あさま」と「おんだけ」は中編に載っていた。
当時は出版費用が非常に高く、士清は自分が死んだあと、子孫の人たちがお金の工面がしやすいようにと配慮したのであろう。
子孫は百十年かけ、すべての財産をつぎ込んで明治二十年に全巻を出版し終えた。谷川士清旧宅は津市教育委員会が管理し、月曜日休館、入場料無料で公開している。ぜひ訪れて郷土の偉人の業績を知っていただきたい。旧宅☎059・225・4346
(谷川士清の会顧問)

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