随想倶楽部

 三多気の桜は大洞山(標高985m)の麓に鎮座する真福院の参道から集落に至る沿道の両側に植えられた山桜である。
私が子供の頃から、1942年(昭和17年)文部省指定の名勝三多気の桜は、村の象徴とも言うべき存在である。
その当時、記念碑と共に桜の由来を記した案内板が、国道368号線沿いから三多気へ通ずる、三重交通の杉平バス停の左角地に設置されていた。
良く目立つ場所だったが、道路の拡幅工事に伴い、今は伊勢地川に架かる三多気橋を渡った前方の正面に移設され、ひっそりと昔の記憶を今に留めている。
旧伊勢地村の当時は余り騒がれる事もなく、地元の人や、町へ出ている人達が花見に帰ってきて、賑わう程度のものであった。
合併前の竹原、八知、下ノ川、多気、八幡、伊勢地、太郎生の七カ村が合併して美杉村になったのである。その後、日本さくら名所100選にも選ばれ、全国的にその知名度を高め、毎年多くの人の目を楽しませている。
私が中学の頃、八幡村と伊勢地村は合併していた時期がある。その頃、八幡中学は本校で伊勢地中学は分校であった。
そんな頃、三多気の桜を「貧乏桜」と、地元の大人達の間で囁かれていた。子供の頃、その訳を聞いたことがある。
それは、町へ出て行った我が子供や、親戚縁者などは、盆や正月は決まって生まれ故郷に里帰りをする習慣がある。桜の花が咲く頃も同じように、桜まつりを楽しみに帰ってくる。
そのため精一杯のもてなしをするのが田舎の風習であった。帰ってくる人たちは、実家の懐具合を知ってか知らずか、花見を楽しみ、親や親戚の温もりを満喫して、満足して帰ってゆくのが常である。
そんな、長年の習慣が何時しか家計を圧迫したのであろうか、戦後の混乱期でもあり、物やお金も無い、貧乏な時代である。つい本音を語りあったのである。なるほどと子供心に納得したものである。
さて、現在紹介されている多くの写真の中で、代表的なものは、水を張った棚田の上に満開の桜が咲いている写真で、良くみかける。
桜と共に、茅葺屋根が昔を忍ばせてくれる。とてもレトロで素晴らしい。
その前方に広がる学能堂山(標高1022m)の山並みもまた美しく、感激もひとしおである。桜の花に気をとられがちで余り関心を持たれていないが、学能堂山の全景は、濃い緑の樹林に覆われ、観る人の心を魅了する。
学能堂山に連なる稜線は、右側と左側からとが頂上を目指し、手前からの小高い山も学能堂山の頂上へと幾重にも伸びている。じっと目を凝らせば、微かな濃淡が遠近を表現しているのが感じられる。それが一体となって大自然を形成しているのである。
一歩足を踏み入れると、想像もつかない危険が潜んでいても、遠くから眺める山岳は美しいの一言につきる。そして、学能堂山に至る山々は、その裾野を棚田や集落へと広げ、自然の造形を奏でているようである。
想えば、野良仕事を手伝うために祖父に連れられて行った棚田の畦道に腰を降ろし、お袋が作ってくれた蕗の葉に包んだおにぎりを頬張ったあの日、丸太小屋に泊まって猪を追ったあの夜が朧気に蘇る。
時には、雨上がりに立ち込める山間の靄(もや)は、まるで墨絵のような絵画に似て、神秘の世界が、そこに浮き上がったようだった。
また時には、霧雨に射し込む薄日の悪戯が、七色の虹を描いてファンタジックな世界を演出していた。圧巻は、濃い緑の杉林を紫に似た陽炎が覆う情景で、まるで樹海であった。
見事な散り際の桜とは対照的に、静なる学能堂山は、時としてその表情を変えて神秘の世界へと観る人を誘う。これらは何物にも代え難い自然の贈り物であり、桜に勝るとも劣らない名勝である。
伊勢の海に面した津市には、三多気の桜だけに限らず、君ヶ野ダムや、雲出川沿いの亀ヶ広の桜並木、或いは榊原、錫杖湖、偕楽公園の桜、長徳寺の龍王桜など、多くの桜の名所が点在している。
実に山紫水明の自然豊かな街であることを改めて感じる。
 (日本作詩家協会会員)
 津なぎさまちは、中部国際空港セントレアへの海上アクセスとして開港された、言わば空の玄関口である。確か平成17年2月頃と記憶している。「なぎさ港」は、その1年後に私の散歩コースの中で書いた詩である。
たまたま、歌の月刊誌に投稿したところ、審査員の中で、あるメジャーの先生から詩の構成が良いと褒められ、「マイソングとして大事にしなさい」とアドバイスをうけたのである。それを私が調子に乗って曲をお願いしていた。
するとある日、作曲家の先生から歌わせたい人がいて、その娘がレコーディングをするので東京へ行って欲しいとの電話があった。
まさかの話に戸惑いはあったが、「お願いします」と言って了承した。
何故そうなったのか、事情を聞いてみると、今もテレビなどで活躍しているロス・インディオスの『棚橋静雄と夢のアルバム』と言う企画に、私が書いた詩が使われると言うのである。
歌は藤原和歌子さんで、もう1曲の「東京ベサメ・ムーチョ」の歌は、棚橋静雄さんと藤原和歌子さんのデュエット。この2曲と、旅立ち列車の1曲をレコーディングして発売されると言う。
セントラルレコードが企画したカラオケカップの大会において、彼女が審査員長特別賞を受賞し、副賞にオリジナル曲として「なぎさ港」を贈ったと言うのである。
前日は、新宿の京王プラザホテル2号館で発表会が開かれ、翌日はJR山手線の駅前にある中野プラザホテル地下のスタジオでレコーディングを行うと言う。
忘れもしません、3月11日の東日本大震災が起きた翌翌日の13日の発表会であった。
 発表会の時間に間に合わるため、前日の12日の早朝から東京に向かい、いつも利用していたサンメンバーズ東京新宿に宿泊した。このホテルは高低差のある場所に建っていて、正面玄関の左の石段を何段か降りると、前の道路は青梅街道の入り口付近で街道は緩やかな上り勾配になっている。街道の側道に面していて、人通りが少なく静か場所である。
また、裏通りに通じる裏玄関を出ると、細い路地が左右に伸びていて、前方を見上げると高層ビルが競い合って建っている。その路地を左へ100mほど歩くと、新宿ワシントンホテル本館の正面玄関に通じる広い道路に出る。
ホテルの正面玄関の前の道路はT字路になっていて、左前方の目と鼻の先に丹下健三氏が設計したという高さ240mを超える都庁が威風堂々と聳えている。
その都民広場を挟んで、向かい側に京王プラザホテル本館や2号館も他のビルとともに林立している。東京の副都心である新宿は、他の地域より地盤が固く小高い丘になっているのであろうか、道路や建築物の敷地に高低差があり、街そのものが立体的で重厚な都市空間を演出している。
開催時間に合わせてホテルの玄関に入ると、既に主催者側のディレクターや、作曲家の先生、歌い手の彼女も私を迎えてくれた。会釈を交わして案内され会場に入ると、舞台は華々しくセッティングされており、余震が続いていたにも関わらず、満員の会場は熱気に溢れていた。
そして、レコード会社の代表者の挨拶が終わり、祝辞や余興を交えて、選ばれた歌の発表会が延々と続き、時間の経つのも忘れる程であったが、発表会も終わり、別れの挨拶を交わしてホテルを出る頃には、既に高層ビル群の新宿は静かに夜の帳が降りていた。
 翌日の14日も相変わらず余震が続く中であったが無事レコーディングを終えた。その夜は宿泊先の新宿のホテルに戻り、翌朝、作曲家の先生と歌い手の彼女と朝食をとりながら、その日のスケジュールの調整を行ったが、航空券の予約の関係上、もう一泊すると言う。
しかし、余震が余りにも頻繁に起こるので、なんとなく不安を抱いていたのであろう。一時も早く東京を離れた方が良いと言うことになり、急遽東京を脱出することになったのである
新宿駅のJR山手線のホームへ向かって歩いていると長蛇の列と人で溢れていた。その人ごみを縫って最前列に二人を誘導した。
そして、ホームに到着したばかりの車両に一瞬の隙を見て滑り込んだのである。ドアが閉まる直前にざわめきを感じたのであるが、列車は何事も無かったかのように、ホームを離れたのである。東京駅では博多行きの「のぞみ」にも間に合った。
そして、津波による地獄のような被害の状況が、動画などに配信されるのを見て唖然とした。その後も津波と原発事故による被害の様子をニュースは途切れることなく放送し続けていた。
 さて、話が少し横道に逸れたが、棚橋静雄さんについては、東京での発表会や、藤原和歌子さんの故郷である長崎県の佐世保での新曲発表など、何度かお会いしたが、彼は1978年に発表された「コモエスタ赤坂」「知りすぎたのね」が大ヒット。翌79年には、シルヴィアさんとのデュエット曲「別れても好きな人」が大ブレイク。その後も新曲「涙を残して」、「愛の旅立ち」を発表して、ロス・インディオスの棚橋静雄の名前を欲しいままにした。今も美声は衰えていない。
(一社・日本作詩家協会々員)
 青田をわたる風がさわやかな初夏の季節を迎え、みずみずしい新緑に衣替した庭には、アジサイの花が咲き、辺りでは、夏の訪れを告げる甘い香りの百合の花も咲き始め、雨季の時季が近いことを知らせてくれます。

今回は、私が大変好きな、初代平岡吟舟(安政2~昭和9)について、御紹介したいと思います。
平岡吟舟は、明治の古典小唄完成期に「清元お葉一派を後援し、最も活躍した大通人で、明治35年には、三味線声曲を集大成して、新歌曲「東明節」を創始し、家元となり、初代吟舟を名乗りました。
「東明節」は派手で上品な家庭音楽を志して、従来の邦楽を集大成し、自ら作詞作曲した三味線音楽の唄ものでした。その傘下で後、活躍したのが、吟甫の名を初めて許された「吉田草紙庵」でした。この派の狙いは、江戸時代の諸流音楽(長唄清元等)の粋を集めて一丸としたところで、家庭音楽として、はずかしくない健全な唄い物であるという点でし。作曲には名流の長所を採り入れ、一曲をなすのを常としていて、その作詞の格外れが、かえって趣きを出し、得がたい作曲であったといわれており、江戸時代から昭和初期まで、吟舟の作品は百曲に及びます。

 引 潮
初代平岡吟舟詞曲

引潮の流れにまかす  舟のうち
月の影さえ朧夜に   浮きつ沈みつ三味線  の
音もやさしき桂川   昔偲ぶや時鳥

 明治29年歌舞伎興行の時、吟舟翁が五代目菊五郎の「魚屋の茶碗」のために作った小唄といわれております。
江戸時代から明治にかけ、大川(隅田川)を利用して、舟遊びがさかんで、この唄は初夏の大川端の情緒を六下りの調子で表しております。
「魚屋と茶碗」とは、古くに支那から渡ってきた底の浅い器で、皿盛に使っていたものを茶人がゆずり受け、それを千利休に見てもらうと、夏茶碗に格好と「魚屋の茶碗」と命名されたと伝えられています。
 真の夜中
初代平岡吟舟詞曲
 真の夜中に 朧の月  を眺むれば
てっぺんかけたかの  一声は
うどんの餡かけ
蕎麦屋のぶっかけ
按摩の駆け足
夜番の拍子木
明けりゃまだまだ一  寝入り
 この小唄は吟舟翁が明治から大正初年にかけて吉原に情緒を回顧して作詞した、昭和初年の初夏に作ったものです。
新吉原遊廓は、当時も午前2時迄は太鼓を入れ、三味線は夜っぴて、ひと晩じゅう弾いて騒いでもかまわない別世界でした。この小唄は、その騒ぎが済んだ妓楼で、泊まりの客がふと眼を覚まして、朧の月の照る廓の風景をながめている様子を唄っております。
「てっぺんかけた」の一声は時鳥の啼き声で、鋭い気迫があり、このように聞こえたのでしょう。
湿度の高い日が多く、どんよりした空模様には気がめいります。くれぐれもお体を大切に。
(小唄 土筆派家元)
 三味線や小唄に興味のある方、お聴きになりたい方、稽古場は「料亭ヤマニ」になっております。お気軽にご連絡下さい。又中日文化センターで講師も務めております。
稽古場「料亭ヤマニ」
☎津228・3590
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