随想倶楽部

朝、家のまわりを掃除して車庫の前まで行ったら、通りに、ガマガエルが車に轢かれて死んでいました。前日の夕方は見かけなかったので、多分、前夜か早朝にやられたにちがいありません。この炎天下、ほっておけばやがて干からびて土ほこりになって消えてしまうことでしょう。
でも、あわれといえばあわれです。それに車庫の前というのも気になります。そこで、そのガマガエルの亡骸をきれいな白い紙袋におさめて、少し離れた市有の空き地まで持って行き、朝露にぬれた夏草の根元にていねいに葬ってやりました。
たかがこれしきのこと…、です。ところが私にとって、ガマガエルにはいささか因縁めいた思い出があるのです。私の父は、陸軍法務官として支那事変、太平洋戦争に参加し、長く中国各地、ビルマなどを転戦しました。
その間、かの地で得たマラリアが悪化して、終戦の直前に内地の陸軍病院に送還され、終戦を迎えました。終戦後は、郷里(現在の紀北町)に帰ったものの、戦地から持って帰った病が進行して、昭和23年4月に42歳で亡くなりました。私は13歳でした。
母から聞いた話です。帰郷して治療中だった父が頭痛に悩んでいたある日、ガマガエルが父の夢に現われたそうです。ガマガエルが言うには、「おれを殺して黒焼にして飲むがよい、そうしたらお前の頭痛がおさまる」と。
ガマガエルには、目の後ろに細長い耳線があり、有毒な液を分泌することがわかっています。中国では、この耳線からの分泌液を集めて乾燥し、薬として強心、鎮痛、解毒などに用いるそうです。父は、このことを中国にいたころ知って、頭のどこかに残していたのかも知れません。
私には、直接的な父の思い出は薄れてしまってほとんどありません。それなのに、母から聞いていた父が見た夢の話は、数少ない父の思い出の中に残っています。あの日の朝、ガマガエルの哀れな姿を見た時、この夢の話を直ぐに思い出しました。
ついでながら、「ガマの脂」で知られるガマガエルの標準名は「ヒキガエル」です。でも、ガマガエルというほうが何だかとおりがよさそうです。近づいても動じることなく悠然としている姿には、ある種の貫祿を感じてしまいます。年々生息環境が狭くなり、まち中で輪禍にあったりするのは、彼らにとっては気の毒なことと言わねばなりません。
サン・サーンスの作品に「交響詩《オンファールの糸車》」という曲があります。珍しい曲名にひかれてCDを買ってきました。糸車の回る音を巧みに表現した面白い曲です。ところが、あの日の朝以来、私には糸車の回る音がガマガエルの鳴き声に聞こえるのは不思議です。

(元・三重県総合文化センター副総長兼文化会館長)

朝、家のまわりを掃除して車庫の前まで行ったら、通りに、ガマガエルが車に轢かれて死んでいました。前日の夕方は見かけなかったので、多分、前夜か早朝にやられたにちがいありません。この炎天下、ほっておけばやがて干からびて土ほこりになって消えてしまうことでしょう。
でも、あわれといえばあわれです。それに車庫の前というのも気になります。そこで、そのガマガエルの亡骸をきれいな白い紙袋におさめて、少し離れた市有の空き地まで持って行き、朝露にぬれた夏草の根元にていねいに葬ってやりました。
たかがこれしきのこと…、です。ところが私にとって、ガマガエルにはいささか因縁めいた思い出があるのです。私の父は、陸軍法務官として支那事変、太平洋戦争に参加し、長く中国各地、ビルマなどを転戦しました。
その間、かの地で得たマラリアが悪化して、終戦の直前に内地の陸軍病院に送還され、終戦を迎えました。終戦後は、郷里(現在の紀北町)に帰ったものの、戦地から持って帰った病が進行して、昭和23年4月に42歳で亡くなりました。私は13歳でした。
母から聞いた話です。帰郷して治療中だった父が頭痛に悩んでいたある日、ガマガエルが父の夢に現われたそうです。ガマガエルが言うには、「おれを殺して黒焼にして飲むがよい、そうしたらお前の頭痛がおさまる」と。
ガマガエルには、目の後ろに細長い耳線があり、有毒な液を分泌することがわかっています。中国では、この耳線からの分泌液を集めて乾燥し、薬として強心、鎮痛、解毒などに用いるそうです。父は、このことを中国にいたころ知って、頭のどこかに残していたのかも知れません。
私には、直接的な父の思い出は薄れてしまってほとんどありません。それなのに、母から聞いていた父が見た夢の話は、数少ない父の思い出の中に残っています。あの日の朝、ガマガエルの哀れな姿を見た時、この夢の話を直ぐに思い出しました。
ついでながら、「ガマの脂」で知られるガマガエルの標準名は「ヒキガエル」です。でも、ガマガエルというほうが何だかとおりがよさそうです。近づいても動じることなく悠然としている姿には、ある種の貫祿を感じてしまいます。年々生息環境が狭くなり、まち中で輪禍にあったりするのは、彼らにとっては気の毒なことと言わねばなりません。
サン・サーンスの作品に「交響詩《オンファールの糸車》」という曲があります。珍しい曲名にひかれてCDを買ってきました。糸車の回る音を巧みに表現した面白い曲です。ところが、あの日の朝以来、私には糸車の回る音がガマガエルの鳴き声に聞こえるのは不思議です。

(元・三重県総合文化センター副総長兼文化会館長)

「また地震!今度はどこ?」ニュース速報で流れる緊急放送に思わずドキッとしてしまう。東海、東南海、南海地震が連動して発生したのは一六〇五年、一七〇七年のこと。一七〇七年は宝永地震といわれ富士山が噴火し宝永山ができた。
その二年後に谷川士清が生まれていることから、しっかりと覚えた。
日本は火山帯の上に位置しているから火山の噴火や地震はいつ起こるかわからない。両者の関係を武蔵野学院大学特任教授、島村英紀氏が次のようにコメントされていた。「過去に大地震がおきると地震の一日後から五年くらい後までに半径六〇〇~一〇〇〇キロ以内の複数の火山が噴火しています。これは本州が覆われるような範囲で、これからも日本列島のどこで火山件の噴火件が起きても不思議ではない」。
記憶に新しい火山噴火は二〇一四年九月二七日の御嶽山(長野県)で山頂付近にいた登山客がまきこまれた。他には、二〇一五年五月二九日に口永良部島(鹿児島県)新岳が噴火し全島民が屋久島に避難した。同年六月一九日には浅間山が噴火している。
活火山の代表、阿蘇山に私は数多く思い出がある。最初に訪れたのは津校生であったときの修学旅行。恐る恐る火口をのぞきこみ、友と雄大な景色をバックに笑顔で写真に収まった。
高校教師になってからは、二年の担任になる度に訪れ、他の場所より神経を使って生徒を引率した。初年度、事前調査もしていたのに、幼児期に軽い喘息になった生徒が発作をおこし、クラスは副担任に任せ保健の先生と病院へかけこんだ。幸い発作は収まったが、その後、軽い喘息でも経験者は待機するよう規則を厳しくした。草千里で寝そべって流れる雲を見るなんて完全に夢であった。退職してからやっとのんびり阿蘇を訪れ、火山国の恩恵、温泉へと足を運んだ。
日本人は何度も大噴火や大地震にあいながらも、生活を建て直し美しい景色を取り戻す努力をするすばらしい底力を持つ民族と言える。火力発電を地震国日本に作るとは自然をあまりに甘く見ている。
さて、わが敬愛する谷川士清は日本で初めて五十音順に並んだ辞書『和訓栞』を書いた人で一七〇九~一七七六年に生きている。その間大地震や火山の大噴火はなかったようだが、『和訓栞』に次のように記してあった。
あさま…絶頂に大坑あり径十町はかり常に煙立のぼりて硫黄の気あり大焼の時八五七里か間鳴動し茶碗皿鉢の類も響きて破るる事あるといへり…
あそ…この阿蘇ハ肥後の阿蘇山也桓武紀に肥後言阿蘇山神霊池水涸甘餘丈と見ゆ…
おんだけ…俗に木曾の御嶽をかくいへり富士浅間にならふ高山なり…
『和訓栞』は全九三巻を前編・中編・後編に分け、それぞれ「アからオ(ヲ)」まで載せてある。前編は古言と雅語中心、中編は雅語中心、後編は方言、俗語、外来語が中心である。「あそ」は前編に、「あさま」と「おんだけ」は中編に載っていた。
当時は出版費用が非常に高く、士清は自分が死んだあと、子孫の人たちがお金の工面がしやすいようにと配慮したのであろう。
子孫は百十年かけ、すべての財産をつぎ込んで明治二十年に全巻を出版し終えた。谷川士清旧宅は津市教育委員会が管理し、月曜日休館、入場料無料で公開している。ぜひ訪れて郷土の偉人の業績を知っていただきたい。旧宅☎059・225・4346
(谷川士清の会顧問)

いつの世も、時代は変わっても、長生きしたい、お金が欲しい、幸せになりたい……と人々の願いは同じです。
七福神は室町時代の京で始まった民間信仰で、江戸時代になると庶民も神社仏閣に参詣するようになります。講(例えば伊勢講・冨士講)、観音様、六地蔵、不動(例えば成田不動)、阿弥陀様、霊場四十四ヶ所巡りなどがあり、人々は災害予防や病気平癒、財宝福徳、子孫繁栄など神仏にすがりたい心と共に参詣も一つの行楽となっていきました。
この福神信仰は徳川家康の奨励で盛んになりました。きっかけは家康が天台宗上野寛永寺の開祖である天海僧正に「どうすれば国が栄え、人徳を養えるのだろうか」と尋ねると「仁王経(護国安穏のためには般若波羅蜜経)から『七難即滅、七福即生』という言葉を引用して仏教を大切にし、尊うものです。」と説き、又、「人生に必要な徳は、裕福・威厳・愛敬・人望・寿命・大量・清廉の七つです。」と答えました。
家康は深く感銘して絵師の狩野探幽に七福神を描かせ、この事によって全国各地に七福神を祀る寺社が建てられるようになりました。そして縁起のよい「七福神宝船」の絵は〝福神絵〟と呼ばれ、歌川国貞や国芳らも描いています。
七福神の顔ぶれは、インドに起源をもつ仏教の神は大黒天・毘沙門天・弁財天。中国の神は福禄寿・寿老人・布袋尊です。
唯一、日本の神は恵比寿神で出自は各地、各時代のさまざまな神様です。「大黒天」は裕福、五穀豊穣の神で大きな袋と打ち出の小槌を持っています。
「毘沙門天」は威厳、開運の神で甲冑を着て邪気を祓います。「弁財天」は、愛敬、知恵、音楽の神で琵琶を手に持って羽衣をまとった女神。「福禄寿」は人望、三徳(福、身分、寿命)の神で、白い髭をたくわえています。「寿老人」は寿命、富貴の神で黒頭巾を被り、鹿を従えています。
「布袋尊」は大量、即ち心大きく家庭円満、金運招福の神として信仰が篤く、唯一実在の唐代末期の人物がモデルです。大きな袋にすべての財宝を一杯入れて人を救い歩いた禅僧です。 「恵比寿神」は清廉、商売繁盛の神で日本固有の生業の守り神。狩衣を着て、左脇に鯛、右手に釣ざおを持っています。この七福神が宝船に乗って海の彼方から訪れるのです。いわば福の神の夢の一団です。
さて、福禄寿と寿老人は共に南極星の化身といわれており、よく似ています。見分ける特徴としては福禄寿は長い顔で禿頭。寿老人は黒頭巾を被って杖を持っているところでしょう。
どちらもやさしく親しみのあるお顔です。
江戸時代にお宝売りが下から読んでも上から読んでも同じめでたい歌「なかき夜の遠の眠りの皆めさめ波のり船の音のよきかな」を書いた宝船の絵を持ち、各家ごとに売り歩いていました。
そして七福神詣は宝暦期(1751~1764)に始まり、東京谷中七福神巡りが最も古いものとされ、文化文政期には隅田川七福神巡りがあり、その他神奈川、京の東山などで一気に全国的に流行したのです。 今や五百箇所余りあります。当地の伊勢の津七福神巡り(四天王寺=大黒天、津観音寺=毘沙門天、円光寺=弁財天、結城神社=福禄寿、高山神社=寿老人、榊原の地蔵寺=布袋尊、初馬寺=恵比須神)をする事ができます。私はこれらの場所を訪ねてここち良い時間を過ごしました。
風景や名物を楽しみながら神様に出会うのは本当に幸福感が得られます。歩いて健康、拝んで福徳を、ご利益  を!
さあ、皆で幸せをいただきましょう。 (全国歴史研究会・三重歴史研究会・ときめき高虎会会員)

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