随想倶楽部

今から40年くらい前、津市で見かける外国の人といえば、教会の神父さま、シスター、牧師さま、日本鋼管で働く技術者くらいだった。今では海外からの留学生、英語教育指導助手、英会話学校の先生や旅行者で随分と様変わりしました。また海外から日本に働きに来ている人々も多くなりました。また定住してしまった多くの人々がいます。

そのようなことで、困っている外国の人々に出くわすことも多くなりました。
ある夏の夜のことです。仕事の帰りに「津駅」の東改札口を出て、切符売り場まで来ますと、白人の若い男女のバック・パッカーが駅員と何やら話していた。どうも要領を得ない様子。駅員が私に「すみません、あなた英語がわかりますか」と尋ねた。「はい、少しなら」。そういうわけで、その男女に用件を聴いてみると、どこかこの辺りでキャンプしたくて、その場所を探していることがわかった。ドイツのハンブルグ大学の学生ということも判った。津偕楽公園ではキャンプはできないので、拙宅の近くの海岸まで二人を連れて行くことにした。明日は何処に行くのかと尋ねたら「伊勢」に行くという。この二人が「お伊勢参り?」。それはともかく、三交バスのワンマンバスに乗った。最寄りの停留所で3人分のバス料金を私が支払い浜辺に案内した。そこは月明かりと潮騒の静かの音が聞こえるところだった。
「明日午前7時にここに迎えきます。それでは」と言いかけたら「時計を持っていません」という返事が返ってきた。それで私の腕時計を渡した。その夜二人はそこで何を語り合い、どんな夢を見たのだろうか。 翌朝、浜辺に迎えに行くと、二人は出発の用意をすでに終えていた。またバスに乗り津駅に向かった。
「朝ごはんは食べましたか」と尋ねると「まだです」という返事。それで津駅前のホテルで朝ごはんをご馳走し、伊勢までの切符を手配して二人に手渡した。「さようなら」と私はドイツ語で言うと、ドイツ語で「ありがとう」と二人は礼を言った。後日二人から御礼の絵葉書がドイツから届いた。

ある時、ある銀行のキャシュ・ディスペンサーのところで白人の夫人が何度も何度も画面を操作しているが、一向に埒が明かない様子。銀行の案内係りの女性も傍にいるのだが、どうもこれまた要領を得ない。
件の銀行の係員の女性が私の方を向き「英語できますか」と尋ねた。「はい、少し」と私。その婦人に色々尋ねてみると「70万円を引き出したのだが、何度試みても一向にお金が出てこないので困っている」という。よく注意書きを読んでみると、「一回に引き出せる金額は50万円」ということが判った。
それで、その婦人に事情を説明し「先ず、50万円を引き出し、その後で20万円を引き出せばうまくいきますよ」とアドバイスしてあげた。婦人はそのとおりにして、首尾よく70万を手にすることができた。
ご婦人は「ありがとう、有難う」と御礼を言った。これくらいお安い御用。人助けができてよかった。困っている時はお互い様ですよね。

これもある銀行での出来事。白人男性が窓口で何やら行員とやり取りしている。これも一向に埒が明かず双方ともに困り顔。私は「何かお手伝いしましょうか」と声をかけた。その男性によく話を聞いてみると「東京の友人の銀行口座に振り込み送金したい」ということだった。
それで行員に事情を説明し、振込用紙をいただき、男性に必要事項を記入してもらった。その用紙に現金を添えてうまく振り込むことができた。男性は安堵の笑みを浮かべた。双方が「ありがとう」と私に言った。「どういたしまして」と私は返事した。

ある時、台風が接近し三重県には暴風警報が出ていた。私は知り合いのアメリカ人の英会話講師のことが心配になった。というのも彼は英会話教室の経営者が用意した木造のアパートに住んでいたからだ。私は心配になり彼のアパートを尋ねてみたが不在だった。それで私は彼の働いている教室に念のため行ってみた。 そうしたら彼は職員の部屋に寝袋を持ち込んで不安な夜を一人で過ごそうとしていた。私は彼を自宅に連れて帰りその夜は我が家の布団で寝てもらった。台風は大過なく無事に通過していった。なぜ英会話の経営者は彼をホテルなどの安全は場所に泊まらせなかったのかと、いささか私は経営者の無神経さと無配慮に怒りを感じた。
彼が帰国した時、「暴風雨時に英会話教室の日本人の経営者は危険な台風から身を守るための援助を何もしてくれなかった」と周りの人に話したら米国の人々は日本人にどのような感情を抱くだろうか。英会話学校の経営者にとって彼は、「使い捨てできるただの労働者」だったのだろうか。外国人を雇用している経営者の国際感覚が疑われても仕方ない出来事の一例だと思った。

ある病院の待合室は診察を待つ患者ですごく混んでいた。その中に一人にとても気分が悪そうな白人の男性が順番を待っていた。私はこの人の様子が少しおかしいと直感した。「どうしたのですか」と英語で尋ねた。「熱があります」とその男性。すぐに看護師さんにその旨を告げ、体温計を持ってきてもらい、男性に体温を計ってもらった。その結果39度近くの高熱だ。 看護師さんにそれを告げると同時に「すぐに先生に診てもらうように手続きしてあげて下さい」と頼んだところ、ほどなく診察室に呼ばれた。あとで看護師さんにその男性のことを尋ねたら「入院されました」との返事だった。外国で病気になると、とても不安ですものね。私にも覚えがあります。

知り合いの外国人を津市内の「銭湯」に誘った。初めは皆の前で裸になるのをとても恥ずかしがっていたが、「銭湯」の入り方の基本の基本である「かけ湯」の仕方も教えた。陰部もきちんと洗うように、また浴槽内でタオルは絶対に使ってはいけないとも教えた。 洗い場で私は彼の背中を流してあげた。彼もそれを見習って私の背中を流してくれた。それ以来、彼は「銭湯」が大好きになって、私に「銭湯に行こう」とよく誘うようになった。これこそ裸の付き合いです。彼はもう母国に帰りましたが、時々日本の「銭湯」を懐かしく思い出しているのではないでしょうか。

スイスまで一人旅をしました。インターラーケンのホテルに投宿して、そこを基点にしてスイスのあちこちを旅していました。ベルンの町角で一人の東洋系の若い男性を見かけました。よく見てみるとどこか寂しげで表情が暗かった。
私は彼が「相当な困りごとを抱えている」と判断し、その若者に近づき英語で「あなたと一緒にお茶を飲みたいのですが、先を急いでいます。これでお茶でも飲んでください」と何がしかのお金を手渡した。すると彼は一瞬表情が明るくなり笑みを浮かべて何度も「ありがとう、ありがとう」と言った。彼の話す英語の発音から日本人でないことは十分に判った。彼は私のことを「日本人」と気づいてくれただろうか。ヨーロッパまで来て彼は何かの事情でお金に困っていたのかもしれない。そう考えると「もっと多くのお金を上げたほうが良かったのではないか。いや彼にも誇りというものがあってかえって傷をつけたかもしれない」といまだに私自身の心の整理がつかない。

これらのの話は、私なりのささやかな「民間外交」の実践例です。私と接した外国人は私を通して日本人や日本という国の印象やイメージを持つかも知れません。そう考えると慎重に接するように自然となります。「日本に来てよかった」、「日本人は良くしてくれた」、そのように思ってくれる「日本ファン」「日本人ファン」の外国人を一人でも多く増やしたいと心から思っています。小さなことからコツコツとできることからしていくしかありません。

政治には友好や対立が絶えずあります。しかし言語、文化や宗教が違っていても「草の根交流」ならばそこは「人」と「人」、私は「誠実」「思いやり」「親切」は世界共通で相通じるのではないかと思っています。それで自分の中心にこれら三つの原則を置き「国際親善」に微力ながら役に立ちたいと思い、日ごろの生活をするうえでの「行動原則」にしています。
(津市在住)

ある会社の方とお話ししていて、たまたま「部下の態度を持て余しているが、どうしたらよいか」と尋ねられました。仕事のよくできる二〇代半ばの社員なのだそうですが、例えば、取引先と電話で話している最中に立ち上がって椅子を机の下に蹴り込んだのだそうです。それでその人は、近づいてわざと電話の相手に聞こえる声でそれをたしなめてしまったというのです。普段から、自由奔放な態度が目立ち、このままではいけない、と上司として苦慮していたのでそんなことをしてしまったと、本当に困っている様子です。
私なら、と前置きして、実際に具体的な方法をその人に演じてから、「たしなめるときに、相手のプライドまで傷つけたりしてしまえば逆効果でしょう。できれば自分で気づいてくれるように、そのヒントを示せばいいのではないでしょうか」と言いました。
営業マンとして第一線で活躍しているその人は、そろそろ会社の後輩を育てたいと考えているそうで、「自分は後輩の指導のために引き出しの多い人間になりたいのです」と言います。それを聞いて私は「引き出し、とはよく学校の教師どうしでも使う言葉ですが、私ももちろん若いころから、引き出しをたくさん持ちたいと努力しましたけれど、結局それでは、自分の指導力を磨いてひけらかす、ということだけなので、教育はそれでよいのか、と疑問に思いました。そして、私は引き出しをたくさん持つ努力をしながら、私からではなく、子どもが引き出しを開けに来てくれる存在になりたいと考え、実践できるように努力しました。あなたの場合なら、あなたの背中に引き出しをいっぱいつけて、後輩のみなさんがあなたの背中から学ぶようにすればいいのではないですか」と言いました。
人材教育は、いろんな会社での課題の一つのようです。特に、「ゆとり世代」と呼ばれる二〇代の若者たちについては、上の世代から「常識がない」「何を考えているかわからない」などと見えることもあるようです。機会があれば、双方にとってよい人材教育の方法をお伝えします。
この連載の②では、探究を自分の例を挙げて書きましたので、今回はアクティブ・ラーニングのもう一つの柱である協働を成立させるための見逃されやすい要件は何かを書いています。
大学にいたころ、学生から、ボランティアの放課後教室で、高学年が低学年のことを考えずに遊んでいたので、高学年を厳しく叱ってしまったが、それを苦にしている、どうすればよかったのか、と尋ねられたことがありました。私は「みんなの前で、もしも君が同じことをされたら、反感を持つだけだろう。そして、周囲の目があるときだけ、低学年のことを考えているふりをするだけだろう」と言いました。既にそうなっている、というのでその具体亭な解決策を、私ならこうすると伝えると、しばらくして、その学生が、私の解決策を試してみたら、その後は高学年と学生の関係がよくなり、低学年も含めてみんなで楽しめる遊びを高学年が工夫するようになった、と報告に来てくれました。柔軟な思考と判断、そして表現ができたからこその結果でしょう。
協働の実現は、立場の自覚と関与の仕方にかかっています。学校の場合は、これまでにも書きましたように、教師の資質がアクティブ・ラーニングには大きく係ります。「できた人は周りで困っている人を助けてやってね」と言う人がいます。その言葉で、本当に困っている人は、できない自分が悲しい上に、「助ける」人の優越感を満足させる立場のみじめさをさらに味わうことにしかなりません。ほかにもプリントの配り方、黒板の使い方、掃除用具の整頓の仕方などなど、教師として配慮や工夫できることがたくさんあり、努力が必要です。
出会う教師はさまざまです。学校現場もさまざまです。それなのに、子どもやその家族たちが、学校や先生とは、みんなどこでもこんなもんだ、と思い込んでしまうことが多くあります。そして、勉強がわからないのは、自分のせいだ、我が子のせいだ、我が家のせいだ、と、子どもや家族が教育の課題を一身に背負うのは、本末転倒です。
このたびの教育改革について、その概略と要点を書いてきました。具体的にどうなるのかは、それぞれの学校現場の担当者にかかっていることも書きました。しかしこの改革は、これまでとは違って、保護者も地域も、もちろん子どもたちも、遠慮せずに、「これで五年後はどうなるのか」と学校や塾の先生たちに問いかけて協働しなければ実現しません。
十年後には、人工知能を持ったロボットが家庭にいて、自動に走る車がある可能性はかなり高いです。そんな社会を、子どもたちは生きていくのです。
未来を生きていくための教育になっているのか、これからは受け身ではなく、主体的になって、近未来の創造を目指した能動的な教育の実現を、探究と協働を念頭に入れて、みんなで進めましょう。(伊東教育研究所)

二〇二〇年に再び日本でオリンピックが開催されます。前回は一九六四年でしたから、半世紀余りの間をおいての開催ということになります。
一九六四年を振り返ると、今ではおなじみになっているお菓子や雑誌が登場し、「明日があるさ」「幸せなら手をたたこう」「アンコ椿は恋の花」「柔」などの歌がヒットし、ビートルズやボブ・ディランが世界的に活躍しています。
そして、戦後の混乱の中から新しく生まれた日本の教育が、今のような学校制度や内容にようやく落ち着いたのもそのころでした。
前回の東京オリンピックのあと、間もなくして当時のソビエト連邦が人間の乗った宇宙船を飛ばして世界に衝撃を与え、アメリカなどと同じように、日本も教育改革を行いました。
その改革は、知識や技能の重視で、学ぶべきことがぎっしりと詰め込まれました。今の年齢で四十歳から六十歳を中心とした人たちが、いわゆる「詰め込み教育」時代に学校に通っていたことになります。
その後、文部科学省は、過度の知識偏重からの転換を少しずつ始めます。そして生まれたのが「ゆとり教育」時代となります。今の年齢で言えば、二十歳から三十歳の人たちが中心でしょうか。土曜日が休み、「総合的な学習の時間」、「生活科」などを実際に児童や生徒として経験してきた人たちの世代です。
この「ゆとり教育」は、賛否両論がずっとあった上に、実際には大学や高校への進学にはそれまでと変わらない知識偏重の学力が必要とされていたために、学校で「ゆとり」を持たされた分だけ学校外で受験勉強などをしなければならない、という皮肉な負担を子どもや保護者たちに強いるものとなりました。
さらに追い打ちをかけるように、ピサ(PISA)と呼ばれる国際的な学力調査で、日本が相当に順位を落としたことが決定的なものとなり、ふたたび知識や技能を学校で身に着けさせる方向で教育改革が行われました。
そのために、気の毒なことに「ゆとり教育」世代の人たちは、国の政策によってそのような学習内容で成長したにもかかわらず、「自己責任」という言葉を押し付けられて、子どもも保護者も相当に大変な想いや不当な評価に苦しむことになってしまいました。
二〇一一年から、小学校でも英語を授業で取り上げることが話題となった新しい教育改革が本格的に始まり、教育内容は増えるけれども全体の授業時間はそれほど増えないという、子どもたちにも教員にも負担の多い学校の状態になってしまいました。
こうなってくると、これまでは問題点をなんとか修正してきた教育制度も、いよいよ根本的に見直さなければ、きちんとその役割を果たせなくなり、そのことに対してのいろんな立場からの心配もはっきりと出されるようになりました。
戦後の歴史的な移り変わりをバランスよく盛り込みながら、教育制度を根本的に見直さなければならない、というのが、これから目に見えてくる文部科学省の強い考えによる教育改革です。
そこで改革される主なものは、大学入試制度、大学の授業、高校の授業、地域と学校の関係などです。
そのほとんどが、既に基本的な改革の目標と道筋が定められていて、早いものはもう今年にも多くの人が何かを感じ始める、というところまで来ています。
そして、この改革が、誰の目にもはっきりするのが、次の東京オリンピック、つまり二〇二〇年のころ、ということになります。
今回の改革が直接に大きく関係するのは、今年中学校に入学した生徒から下の学年、今の小学生の子どもたちということになります。
もちろん、大学の授業改革は既に本格的な取り組みが始まっていますから、今の大学生も、来年に大学に進学する人たちも、この改革と無縁ではありません。また、高校の授業改革もこれから具体的になりますから、今の高校生や中学生もすぐに何かを感じることになるでしょう。ところが、「詰め込み教育」の世代を祖父母に持ち、「ゆとり教育」世代が保護者になる今の小学生たちは、どうなのでしょうか。本人たちはまだ小学生ですし、ご家族の方々も、大学や高校の進学などはまだまだ先のことだからと、関心や興味を持っている方は多くはないのではないでしょうか。
ひょっとすると、これから教育制度が改革されることさえまだ知らない方も多くいるかも知れません。
それでも、これからの教育改革が、もっとも直接に身の上に降りかかるのは、今の小学生たちなのです。保育園や幼稚園の子どもたちが、高校や大学へ進学するころには、今までとはかなり違った入学テストが行われていると想像する方が、「自己責任」という言葉で子どもたちや保護者のみなさんが苦しまなくてもすむと私は思います。
子どもたちは未来を背負い創造する大切な存在です。次回から具体的なお話をします。
(伊東教育研究所)

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