随想倶楽部

ようやく転院が決まり、家族も同乗して早朝に出発した搬送車輌は、順調に走っていた。
この日の患者は高齢者。出庫から目的地、帰路を合わせると丸一日の予定。距離は往復で1000㌔になる。阪神方面へ人工呼吸器装着の患者さんの搬送を終えて間もなく、今回の搬送が決まった。そのため、運行者の体調を戻すのも容易ではない。距離も長く、交代で運転するため2種免許を持つ当社応援の看護師と家族、機器、荷物等で満車。事前の打ち合わせを行い、患者さんの負担が少ない今回の陸上搬送になった。
最近、高速道路の事故も頻繁に発生しているので、渋滞時の患者さんの体調も心配される。そのため、万一の時を考え休憩箇所もポイントを絞った。出発時、搬送元病院の看護師達と挨拶できたのが幸いしたのか、患者さんは車窓を眺める余裕もみられ、車内は比較的落ち着いている。
7月に参加したDMAT(巨大地震等を想定した災害派遣医療チーム)による広域医療搬送の実働訓練では、緊迫した中で医師、看護師、ドライバーが呼吸を合わせて機能を発揮し勉強できたことが今回の搬送にも役立っている。
幸い、出発時刻が早いこともあり、高速道路の車数は少ない。逆に、各車のスピードが速い。我々の後方へ接近してくる者さえいる。これにペースを合わせてしまうと、搬送運転にも力を入れ過ぎて、抜きつ抜かれつの危険な状態になるので、平素の運転以上に慎重さが要求される。
患者さんを「安全」に送り届けるのは、一口で言えば簡単だが、その時々に応じた判断が求められる。
距離が長ければ尚さらで、搬送元病院のカンファレンスが必須。添乗する看護師からも色々な質問があったので綿密に打ち合わせし、提供された医療情報などに基づいて車を進めた。
万一のことがあった時に備えてはいたものの、車内の我々に意外なことがあった。「車の窓は広いのう。外の景色も、横の車もどんどん追い越していく。気持ちがええのう」。概ね体を横にしているとは言え、このような言葉が出るとは、誰もが思っていなかった。ドライバー、看護師も一様に安堵の表情。このまま目的地へ、微笑ましい表情が続くことを願った。
概ね半分の時間が過ぎた頃、光景もようやく家屋の出で立ちが変わってきた。「もうちょっとやで。頑張れ」。家族が励ます。看護師もバイタルのチェックをするが、それも必要ないほど眼差しがはっきりしている様子が車内のミラーからも見て取れる。
ようやくインターチェンジを降りる頃には、車内では会話に花が咲いていた。「もう少しだ、よかった」。正直そう思った。車の揺れや気温も、病院内とは比較にならないが、患者さんも努力したに違いない。
今まで運転したことのない地を走り、搬送先病院へ着いたのは、西日が強くなってきた頃だった。まずは、患者さんを先行して下車させ、院内で看護師から状況を報告して終了した。
毎日行き先、搬送患者の状態は異なるし、長距離や緊迫する時など様々だが、常に安全はもとより「勉強させていただく」の気持ちを忘れずのぞみたい。
到着した時にいつももらう「ありがとう」の言葉が、明日への原動力につながっている。
(日本福祉タクシー協会 ・民間救急はあと福祉タクシー)

今年度の「親子洞津谷川塾」は、去る七月二十二日、津市内各地より保護者九名、子供十二名の参加により催行された。この塾は、津市が生んだ偉大な国学者、谷川士清翁について知り学ぶ事を目的に平成十一年より津市教育委員会主催、「谷川士清の会」のサポートにより継続されているものである。
「日本書紀通証」三十五巻を著した他、日本で初めての本格的な五十音順の国語辞典「倭訓栞」を著した谷川士清翁は、二十一歳年下の本居宣長翁とも交流があり、宣長翁をして、「国語学の猿田彦(導きの神)」とまで称さしめた偉人であったが、「倭訓の栞」の刊行を待たずに逝去したことや、著作「読大日本史私記」に対し江戸幕府の誤解等があった事で、本格的な評価がなされず、名誉回復が遅れ、残念ながら現在でも、津市に於いてさえも、谷川士清翁の名を知らない市民も多く、また知ってはいても「ことすが」と正しく発音してもらえないのが現実である。
その現実を打破すべく、私達「谷川士清の会」のメンバーは、「親子洞津谷川塾」に協働し、毎年二月には、自ら、「谷川ことすが書道コンクール」を主催し、他にも小学校へ出帳講座に出向いて、紙芝居やビデオで学んでもらったり、最近では、津まつりのみならず、
三重テラスまで出向いて顕彰活動に勤しんでいる所である。そうするうちに少しずつ、テレビや全国版の雑誌でも取り上げられるところとなり、外からの映像や文章で市民の方々に郷土の「宝」を認知して頂ける深みが増している事は望外の喜びであります。
視座を変えますと、谷川士清翁は教育者であり、京都へ遊学して二十六歳で津市八町三丁目へ戻った後は、家業の医業を行い、また、教授しつつ、神学、儒学、国学を藤堂藩の若き藩士や士清を師と仰ぐ多くの弟子に教え導きました。
「洞津谷川塾」の門弟の総数は、記録が無いため不詳ですが、著名人としては、頼又十郎惟清(頼山陽の祖父)、飯田元親(橘守部の父)、宇佐公吉(宇佐八幡宮の大宮司)、中川蔵人(津藩士一五〇〇石)、松本主禮(外宮一禰宜)、藤原安廣(厳島神社祠官)蓬莱尚賢等が門弟として記録されています。
医家であり、神道家、国学者、国語学者に加えて、教育者であった谷川士清先生。
「日本で初めての本格的な五十音順国語辞典を創った」と云う意味においては偉大な文理両道のジーニアス(天才)でありイノベーターであると私は考え尊敬致します。また、本居宣長翁をして敬愛を集めたご人格は谷川士清先生のふくよかなご風貌に表れている慈しみに満ちたご品性から醸し出されるものであると考えます。
偶々、谷川士清先生のお生まれになったのは宝永六年で、その二年前に富士山の噴火がありました。昨今の天災、人災を見るまでもなく、私は如何なる天災、人災も起こって欲しくはありません。が、しかし、谷川士清先生と云うマグマ、エネルギーの表出、〝休火山〟の噴火は望みたいのです。
表現が拙かったかも知れませんが、地域間競争の時代に於いて、医学、宗教、国語、教育と云う谷川士清先生が導いて下さったフィールドに於いて郷土津市の将来を考えます。
津に来たら、住んだら賢くなる、これは偏差値のアップも含めての話にしましょう。
津に来たら、住んだら、病気が治る、元気になる、長生き出来る。良い温泉もあるし、森林セラピーも良い。良い漢方のお医者様も居るそうだ。
私が大学を出た後に学んだ私塾の塾長からは「成功の要諦は成功するまで続けるところにある」と諭されました。
谷川士清先生の研究、顕彰活動に更に衆知を集め、多くの方々に絶えず感謝の気持ちを忘れないで勤しみ、郷土の生成発展を期します。
(谷川士清の会代表)

春、お茶会に出かけると「山花開似錦」の掛け軸を見かける。梅、桃、桜、つつじと次々に変化する山々。日本人でよかったと思うひと時である。津市の桜の開花は例年より十日ほど遅かった。ところが開花宣言の二日後には満開になり随分長い間楽しませてくれた。
四月中旬に京都に出かけた。桜が津と全く同じ咲き加減なのに驚いた。ほとんど散ってしまった木、丁度満開のもの、まだ蕾のものと混在していた。今回の見学先は平野神社、円山公園、清水寺、そして翌日、上賀茂神社とした。
平野神社は平安遷都の際に奈良から遷祀され天皇が行幸した格式高い神社で、現在の社殿は寛永年間に造られたもので、境内には約五十種四百本の桜がある。緑色の花びらのうこん桜、サクランボのような突羽根桜等初めて見る名前がほとんどであった。円山公園と清水寺は着物姿の外国女性が非常に多く、国際化の不思議な現象に複雑な気持ちになった。
京都と士清さんは非常に関係が深い。私はそれも理由で時々京都を訪れる。
士清さんが初めて京都へ行かれたのは十二才の時である。福蔵寺の浩天和尚が
中御門天皇より綸旨を拝受するお供の一行に加わった。父から知人の松岡玄達への手紙を和尚と士清は持参し訪れたが玄達は留守であった。
享保十五年(一七三〇)二十一才の時改めて勉学のため上洛し、松岡玄達から本草学・医学・儒学を学んだ。翌年四月、松岡忠良に垂加神道を学び、また忠良の師玉木正英に入門し「神道許状」を受けた。一七三五年京都の人山下氏と結婚し八月、二十六才で津へ帰った。京都ではお茶、お花も習ったとある。非常に濃密な数年であった。遊学時代に一生の友、川北景楨、竹内式部、唐崎信通に出会った。川北景楨は高田本山専修寺の家臣で津へ戻ってからも様々な点で士清を補佐。竹内式部は公卿に神書(日本書紀)儒書を講じ江戸幕府に京都から追放され、士清を頼って来津し、士清は娘八十子の嫁ぎ先伊勢に匿った。
このことから士清も他参留になってしまう。唐崎信通は亡くなる時十一才の息子の士愛を士清に託した。士清は自分の息子のように士愛に愛情を注いだ。京都を散策しながら、若かった士清がどこをどんなふうに友人たちと歩いていたのか考えを巡らすのは常のことである。
谷川士清が日本で初めて本格的な国語辞典『和訓栞』を編纂したのは皆さんも周知の事。
『和訓栞』でさくらを引くと次のようであった。
(さくら 桜をかりてよめり 神代紀に木ノ花姫ありて伊勢朝熊の神社に桜樹を基霊とし事、古記に見えて桜ノ宮とも称せり、西行の歌あり…紀貫之歌に桜よりまさる花なき花なれハあたし草木ハ物ならなくに…彼岸桜ハ時節をもてよび糸桜ハ形状をもてよべり…)
非常に詳しく六百字程書かれているのを少しだけ抜粋したが、この後の語にさくらいろ、さくらがいが続いた。
つつじはなくさつきがあった。
(さつき 杜鵑花をいふハさつきつつじの略也、此月に咲き立つ故に名くるなり、品類に松島といふハ奥州より出る也…)
次にももを引いてみた。やはり三百字以上詳しく書かれているのを分かり易い部分を抜粋してみた。
(もも 毛桃、漢名同じ、萬葉集にも見ゆ、にがももともいふ、緋桃も漢名なり、 冬桃あり、花ハ単也、博玄か冬桃賦あり、西陽雑爼に西王母桃と名く、我方にて西王母と呼ものハ壽星桃也、一花両實の者をめをとももといふ…紅白相交わるを源平桃といふ…)
現代の国語辞典と比べてみても面白い。
さてこの次はいつ京都を訪れようか。
(谷川士清の会 顧問)

[ 2 / 24 ページ ]12345...1020...Last »