随想倶楽部

 今、NHK大河ドラマ「光る君へ」が放送されています。今年は平安時代の話で盛り上がりますね。紫式部の『源氏物語』は十一世紀の日本百科辞典と言われており、世界最古の長編恋愛小説です。最初の書き出しが「いづれの御時か――」と記され、さらりと中国古典、白楽天の長恨歌の出だしにひっかけており、漢文(中国文化)に精通した教養の深さを知らしめています。時代を百~五十年前をイメージして現実をフィクションの世界に写し、自由な発想で書かれたこの小説には当時の人物、風俗、心理をよく捉えています。彼女の生きた現実の世は摂関政治(天皇を補佐し、政治を行う)藤原道長の勢力の栄えた時です。道長は長女彰子を一条天皇の中宮にしょうと望み、優れた侍女(女房)に紫式部を選びました。
 紫式部は宮仕えの呼び名です。本名は藤原香子(通説)。天延元年(973)頃に生まれ、長和三年(1014)四十一歳ごろに没したとされています。慣例に従い、紫式部としておきます。両親は藤原冬嗣の流れをくんでいましたが 父親藤原為時のときには末流となり受領階級(四等五等位の中流貴族は現地に赴任して行政責任者)になっています。『蜻蛉日記』の作者藤原道綱の母の父親藤原倫寧や、赤染衛門の父親赤染時用、清少納言の父親清原元輔も受領階級です。政治的にはダメであったが、文芸の世界で名をあげようとしました。
 父為時は詩人で漢詩に強い人。母藤原為信の娘ですが紫式部が幼い時に亡くなり、弟惟規は歌人。姉は死去しています。父から漢学、和歌をしっかりと習っています。
 五位以上の貴族層では赤ん坊が生まれると一人につき一人の乳母が付きます。乳母は授乳と養育を担当するので強い絆が出来ます。乳母からいろんな民話、昔話、説話、物語等を聞いて育っています。夢は上層貴族の妻になりたいとあこがれを持つ娘に育ちました。父為時は長徳二年(996)紫式部二十三歳ごろに越前守(現・福井県武生市の国司)になり就任します。一年後に彼女は一人帰京しています。二十五歳の時に親戚で父の同僚の藤原信孝と結婚します。20歳程年上の夫で、既に妻と5人の子供がいます。この頃は一夫多妻で三人の正式な妻を持つことができ、妾は多くあるのが当然の通い婚の時代です。
 受領の娘が玉の輿に乗ったのです!紫式部は二七歳の時に女の子(賢子・大弐三位)を産み、幸せになると思えた時、夫宣孝は長保三年(1001)四月に伝染病でぽっくりと死んでしまいます。彼女はこの時にいやという程の生身のはかなさ、生き方を知ったことでしょう。
 時の権力者藤原道長の強い要望で寛弘三年(1006)十二月に中宮彰子の家庭教師(女官)になり、約八年間の宮仕えをしました。宮仕えの前には『蜻蛉日記』の作者道綱の母の苦悩や物事を冷静に深く見る目に共感していますが、紫式部はもっと広い視野で社会に伝えたく女性としての人生の意義、あり方の全ての想いを込めて綴ったのが『源氏物語』であり、五十四帖の中の五帖ほどは書けていました。今の週刊誌を読む感覚で読まれていてすでに彼女の名は知られていたのです。
 この時代の男は公的な文章を漢字で表し、女は和歌をもとにした仮名文字が作られた時で、まさに和風文字が興った頃です。女房日記はかな文字で自分の気持ちを客観化して述べており、後世への参考書となるように儀式行事を書きとめています。教養(書道、和歌、琴、縫う)にあふれた紫式部ですが、もう宮中を去って会った事のない清少納言(『枕草子』の作者)にライバル意識があり、高くそそり立つ岩に思ったのか日記の中に悪口を書いています。その性格の違いからか二人は見事な文学を世に残してくれました。
 さて、『源氏物語』の夕顔の帖に書かれた六条御息所が光源氏との愛に溺れ、嫉妬に苦しみ生霊となり正妻や浮気相手を殺してしまう場面や、真木柱、夕霧の帖に現れるもののけ、生霊は恐い、すごいと思います。陰陽道の社会で生きた中古時代は恨み、妬み、恐れの想いが人を神経衰弱にさせ、ヒステリーにさせ、恐怖観念の精神の病となるのです。それらすべては紫式部そのものであり、自分を客観視しているところがスゴイなあ。
 貴族の女性にとって子供を産むことが一番のしごとです。書く女性は文章の中で自己主張や、社会批判をします。正妻は財産を守り、夫のために衣服を縫い、家具調度品を整え、やまと絵や和歌をふすま等に書き、これらの和風文化の成立はまさに女のなす力です。女は強いです。藤原時代は女の時代です。
 紫式部の『源氏物語』の根底には仏教思想を礎えにして男女の人間関係、罪、苦悩、人間の心身の変化を書いたものと思っています。彼女の作品は永久の読み物として人の心の中に残したのです。人間の愛は永遠です。
 (全国歴史研究会・三重歴史研究会・ときめき高虎会及び久居城下町案内人の会会員)

 2023年の民間救急は、他県への長距離搬送が多かった。三重県から東京、横浜、岐阜県高山市、大阪府、愛知県、奈良県、和歌山県など。患者の年齢や症状も様々。 年の前半は、まだ新型コロナウイルスに伴う患者移送が多く、防護服に包んだ体からしぼるように出る汗が車のシートを濡らしたが、新型コロナが一段落してからは、5時間以上の長距離や、人工呼吸器装着に伴う患者搬送などに変った。
 ドクターの同乗で指示を得ながら医療処置の継続は緊張が続く。高所から転落して脊髄を損傷した人、交通事故のあとの幼子の転院、器官切開を施した人など。当社の看護師も同乗した。
 深夜の出動依頼もあり、そのほとんどが救急車で病院へ搬送された人で、帰宅に伴い車椅子やストレッチャー、時には夜中に車椅子に乗った患者さんをアパートの階段10段を上げた。
 深夜の目的地までは道の境目も分かりにくく、鯛釣りで知られる南伊勢町方面までの依頼もあった。帰りは日の出となり、釣り客よろしくコンビニ駐車場で、隣に来た人に「今日は何を狙いますか?」と聞かれることもあった。
 一方、正月に伊賀市内の病院の新築移転に伴う患者の引越搬送や、津市内の病院新築移転もあり、県内の同業者ら十数社で患者を搬送した。他県の病院への移転で業者が連携して行うこともあり、DMAT(災害派遣医療チーム)の移送サポーターである私自身も日頃の訓練が生かされた。
 関東に住む高齢患者の家族から移送の相談が何件かあった。「余生を自分の好きな所で住まわせてあげたい」。声は時折詰まり気味だが、これまで一人暮らしだった親が入院したのを機に呼び寄せたいということらしい。至急の時、家族が遠方から駆け付けなければならないという労苦も一因だ。
 地域包括ケアシステム、地域医療連携が全国各地に幅広く推進展開される中でも、患者の移送手段は常に課題だ。民間救急は様々な疾患を抱えた患者もおり、最適な医療系対策をして患者を搬送しなければならない。
 必死で頑張ろうとする人に寄り添い、必要ならばどこへでも行く。車輌で難しい時は鉄道、航空機など、当社と連携した民間救急が全国各地で引き継ぐことができるので心強い。どれも概ね数時間。場合によっては宿泊が必要になる搬送もあるが、患者の体調や病状も照らし合わせて、最適な移送を選択する。しかし、本人の体力や受入れ先との調整が難航し、いたずらに日時が経過することもある。
 民間救急による医療処置の継続搬送は、人工呼吸器やシリンジポンプ(点滴静脈注射を施行する際、利便性と安全性を得るため使用する医療器具)、輸液ポンプ継続のほか、医療用酸素、痰吸引、モニター心電図での見守りなどが必要。
 ストレッチャーでの移動時には、機器に振動を加えないよう運転に注意しなければならない。生きようとしている患者の、良い意味で「ラストドライブ」になるかも知れず、搬送途中に急変があれば最寄りの基幹病院へ至急連絡するか、消防救急にバトンタッチするよう指示もあり、油断できない。
 これらがあって、やっと出発できた喜びは、患者はもとより家族も同じだ。添乗する看護師は、言葉も発せられないような高齢の患者にとって、一時の思わぬ〝我が子〟。搬送先にも現状を伝え、次の我が家が見えた時、担当者が「もうすぐよ」と励ます。我々スタッフも異常なく来れたことに正直ほっとする。
 準備は大変だが、患者の道中の頑張りもあって予定通り到着したときは「がんばったね。お大事に」と手を握って伝えると、かすかに微笑んで、うなづく。
 後日、家族から「たっての願いであった移送が無事終わり、最後の望みが叶いました。精一杯、見守ってやりたい」と、連絡をもらうことがある、〝生きる〟ということを民間救急の走行を通じて改めて知る時だ。
 未曾有の拡大をもたらした新型コロナウイルスは5類に移行したが、当社の搬送形態は変わったわけではない。発熱患者に対しては、従来通り防護体制を整えた上で搬送し、今後訪れるかも知れない再拡大やインフルエンザ等にも注意している。
 また、学校の修学旅行など、児童生徒が万が一、旅先で発熱や感染があり一行から他県へ離脱する場合などに備えて、他社の民間救急と連携しており、突発案件でも機動面を生かして対応する手筈だ。津市の救急出動件数も増加しているらしい。我々民間救急は一期一会。事業者としての誇りと目標を持ち、患者に寄り添った搬送を続けていきたい。(民間救急 はあと福祉タクシー代表)

 津市八町で生まれた谷川士清は「日本書紀通証」「和訓栞」以外に、珍しい石について「勾玉考」という本を著しました。反古塚に埋められたのは2つの書物に劣らない大切な物であったのでしょう。
 私は会の勉強会で、皆と一緒に読み進めようと、会の顧問であった三ツ村健吉先生の講演会の資料を、原文とパソコンで打ち、読み下し文(書き下ろし)と意訳も入れました。意訳は若い頃、津市八町に住んでおられた郷土史家の青木秀次郎氏のものでした。まずは、自分でやってみようと、難解な漢字の読みと意味を、県立図書館の『大漢和辞典』等で調べ、読み下しをたどり、訳を考えましたが、意訳では話がポンと飛んでいき、かえって足踏みをしてしまい、結局、直訳に切り替えました。
 その結果、たどたどしい文になってしまいましたが、道の上をしっかり踏みしめて歩いている気もしました。話の途中、近くの安濃郡五百野、安濃郡長岡町、少し離れて鈴鹿郡長瀬神社も出てきて、三輪山を含め、士清さんが実際に歩いて調べていることが想像できます。また、たくさんの書物を読んでおられることも随所から伺えました。
 士清さんが「勾玉考」を出版したのが一七七四年、十六歳年下の木内石亭さんが「勾玉問答」を著したのは一七八三年です。「勾玉考」にも二人の親密さが窺がえる箇所があります。
 松浦武四郎記念館で講義された米本一美氏の土殷けつと、石亭さんが「雲根志」に書いた土殷けつ、そして士清さんが記した菅玉との関係はどうなのかと、どんどん繋がっていきました。
 勾玉が使われている首飾りは、松浦武四郎の大首飾りとも似通っています。これは、勾玉が女性の憧れだけでなく、男性の憧れであったこを証明しています。
 士清さんは、今で言う「子持ち勾玉」を「太古の刀剣」とし、石剣の柄頭と考えていました。
 この説は、木内石亭や藤貞幹らに受け継がれ、江戸時代には「子持ち勾玉=柄頭」とされていました。子の考えは明治一七年、神田考平が「日本太古石器考」において十項目ほどの理由で「子持ち勾玉=勾玉の一種」とするまで続きました。
 特に次の二つが印象に残ります。
 曲玉(勾玉)は多く古墳より出るが、石剣頭は未だかつて古墳から出たとは聞かない。〇曲玉も子持ち勾玉も小さな穴がひとつある。士清さんも人間、間違えもあるんだと思えた話でした。士清さんの人柄をよく表している部分を訳で書きます。
 「右勾玉考一篇、諸家塾に刻む、以て同志に差し上げる。ただ転写の労を省くのみ、発売はゆるさず、総じて全体の利益である」

 (津市広明町在住・谷川士清の会顧問)

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