随想倶楽部

普通に食事が摂れなくなった妻は、止むを得ず、胃瘻の手術をしたので、特養(特別養護老人ホーム)を退去しなければならなくなって、ある病院から老人向けの集合型ホームを紹介され、その施設に入居したのです。
それから既に2年以上の月日が流れた。その施設は夜の付き添いを認めて下さったので毎晩のように通っていたのです。
入居して間もない夜のこと、部屋に入ると、年配の女性が、妻の介護に当たってくれていた。かなりの年齢のように思えたので、翌日、事務所の方にお聞きすると、なんと90歳を過ぎておられる現役の看護師さんですとの事でした。
しかも、若い看護師さんと同じように、メモを取り、当直もされていると言う。むしろ、若い方よりお元気かも知れないと、教えて下さった。
90歳を超えた現役の看護師さんなど居ない、と勝手に思い込んでいたのに、なんと世間にそんな元気な方もいるのだと感心しながら、賞賛に値する方だと、ふと感じたのです。
そこで、施設のオーナーに相談したところ、「是非、記事にして欲しい」とのことでした。そこで、以前から面識のあった某新聞社の記者の方に電話を入れました。
彼は、まだ若いが、実直で将来を嘱望された好青年です。早速、取材に応じてくれました。そして、数日後の平成29年3月18日に「92歳?看護師現役です」との見出しと写真入りで紙面に踊ったのです。その記事の解説によると、全国で働く看護師は、約16万3420人で、そのうち、60歳以上は約13万7000人。04年の約4万3000人から3倍に増え、割合も3・6%から8・4%に急上昇していました。
日本看護師協会の担当者によると、神奈川県の病院で90歳の看護師さんが働いている例があると言う。にしても、「池田きぬ」さんは貴重な存在であることを再び知ることになるのです。
その後、東京から雑誌社の取材があったかと思うと、今度は名古屋からテレビ局の取材があり、施設も本人も大騒ぎになりました。彼女はまるで時の人でした。
それ以降、私は健康に不安を感じるようになり、この先、「夜の付き添いが困難ですよ」と周囲の方達からも諭されて、ある人の紹介で、療養型の病院への入院を勧められ、幸いにもお世話になれたのでした。
そんな事情から、「池田きぬ」さんとも暫くお会いする機会もなく、いつの間にか半年ほどの月日が流れていたのです。
ところが、入院をさせて下さった病院に、親切な年配の婦長(顧問)さんが勤務しておられ、その婦長さんと、色々とお話をする機会に恵まれ、「池田きぬ」さんの後輩である事がわかり、婦長さんも「是非一度お会いしたい」と言うお気持ちになったのです。
その彼女の曰く「若い頃はとても厳しい方でしたが、凛として優しさも兼ね備えられ、正しい信念を持っておられた。私は今も、その方の意志を後輩に伝えているのよ」と、話されたことにひどく感銘を受けました。
なるほど、人はそれぞれの環境の中で与えられた使命を信念に基づいて忠実に実行する責任感の尊さを教えられ、彼女への尊敬の念を抱いたのであります。
そして「池田きぬ」さんとの再会を実現するために、日時の擦り合わせを行い、その後(平成30年7月13日)、婦長さんの付き添いの方と共に案内させて頂き、先輩後輩のお二人は、正に奇遇とも云うべき再会を果たしたのです。めでたくも「池田きぬ」さんは、その少し前に(平成30年6月26日)、山上の光賞を受賞されていました。私はその事を知って、とても感動を覚えたものです。
山上の光賞とは、日本の広範な健康、医療の分野において素晴らしい活躍をされ、よりよい社会を築くことに貢献している75歳以上の方々を顕彰するプログラムであります。
高齢化社会の現代にあって、働く人の姿勢もさることながら、施設を経営されるオーナーの理解や包容力。或いは周囲に思いやりの環境が整っていたことも、受賞の結果に繋がっているように思えます。さらに他の地域においても受賞者が誕生する事に期待したい。
「池田きぬ」さんの受賞によせる私の思いは、それを強く期待したい。「池田きぬ」さんには「「受賞おめでとう」というお祝いの言葉を贈って、何故か自分もほのかな気分に浸っていました。
(一般社団法人・日本作詩家協会会員)

 前回の稿にて「県協会理事長」と「顧問」が逆になっておりましたので訂正します。
 (前回からの続き)
未来さえ閉ざされた気がした。その後、約一年間、新聞屋でお世話になった。その職場の大卒の先輩にある日、「お前はこの会社に一生いる男ではない。もう一度人生やり直せ」と言われて目が覚め、退職しもう一度、大学受験に向け、10㎏ほど鈍ってしまった体を鍛え直す事になる。
その頃、いつの間にか神戸高校の強化指定校内定の話は聞こえてこなくなっていた。理事長の敷いたレールとは違う道を私が選んだことにより、共に頑張って来た部の後輩や関係者には申し訳なく思っている。後日、当時団体2位と3位だった四中工と亀山に新しい練習場が建った。
私が大体大(大阪体育大学)に無事合格し、主将として卒業後も体育教師をしながら、WL(ウエイト・リフティング)の国体予選大会で優勝を重ねても国体に選ばれることはなかった。私が大学を卒業してWL界から離れる8年後まで、あの内定取り消しは続いていたのだと、まだ選手として伸びしろを残しながら引退することになるまで気付けなかった。私がこの先、何度国体予選大会で優勝しても私はアウトなのだと感じ、その後はパワーリフティングに全力を投じることになる(後に県パワー協会理事長に就任した)。
その後、パワーリフティングでは、弟子の藤井選手(フジイ工事管理代表)達と共に20年以上無敵のコンビで連勝を重ねることになる。
また私の運営する津トレーニングセンターで日本一や世界チャンピオン、甲子園出場選手やバドミントンやバスケ、陸上、柔道などの優勝者を育てながら、私自身は子育てや県パワー協会理事長にボディーの審判、指導など忙しく、めったに全日本に出場する機会がなかったが、一度だけ全日本ベンチに出場したことがあった。
◆忘れられない試合
ベンチは、特殊なスーツ等を着用せず、ベルト一本でWL同様に自力勝負の時代であった。私が出場した競技の数年前に日本一となった選手が160㎏を上げていた。一方、私は県大会で162・5㎏を上げていたのだが、忙しく出場出来ずにいた。
全日本選手権へは確か少し減量して単身、早朝から車を飛ばして会場へ乗り込んだ。ウエイト(重さ)が90㎏くらいから150㎏台の選手40数名の競技が終わり、予想通り最後は、前年度優勝者の東京都のチャンピオンと日本記録保持者(170㎏)の大谷選手、そして私の3人が残り、最終試技は3人共167・5㎏を申請し日本一を争うことになった。
公式ベンチは、バーベルを台から外し、肘を伸展させてスタートの合図を待ち、下ろし始めたら胸上で一旦静止させて、当時は主審の拍手でスタート(プレス)の合図を待つ。
最初に前年度日本一が登場したのだが、バーを胸へ下ろす数センチ手前で、もう主審が手を叩いてプレスの合図を送っていた。本人も合図の後、一旦停止どころか、チーティング(体の反動や重心移動を利用して、出来るだけ小さな力で、楽をして行う反則行為)で勢いをつけ重そうに上げていた(チーティングなら大谷選手も私も180㎏近い力を持っていた)。
明らかに静止しておらず、失敗だと思ったのだが、まさかの審判2名が白ランプを2個点け成功になった。
当時のルールではコーチや監督がお金を支払い抗議することが出来たが、単身アウェイへ乗り込んで来ている私には抗議する監督もいなかった。これがアウェイかと痛感させられた。
2番手で登場した日本記録保持者の大谷選手は胸上で、ちゃんと一旦静止していたが数センチしか浮かず失敗した。
最後に登場したのが私で無論、胸上で167・5㎏を静止させてから全力でプレスしたが、左腕はジリジリ上がって行くのだが、昔バイクで車に撥ねられてから後遺症となっていた右腕が、あと数センチで止まった。  日本一に数センチ手が届かなかった。減量が予想外に筋力を低下させており、本来の力が出せなかったのも一因だった。
静止してから上げた大谷と私が負け、停止していない者が日本一。シラケた表彰式では、私も大谷選手も優勝者と握手して祝福することも出来なかった。
私は前述の中学時代の他校のフライング事件をふと思い出していた。何故肝心な時にいつもこうなんだろうと…。
後味の悪い大会だったが、(正々堂々戦った大谷選手は同じスポーツマンとして覚えているが優勝者の名は覚えていない)大会終了後、津工業出身の津トレーニングセンターの若い会員さんが2階席で観戦していたと知り、やっと少し笑顔を取り戻すことができた。
しかし、競技というものは、ライバルが何を仕掛けてきても正々堂々と勝負して勝たなくてはいけないものである。あの試合の場合、私は170㎏でも180㎏でも上げ、ぶっちぎりで勝たなくてはいけなかったのだ。
悔しさと同時に、「弟子が日本一になっているのに師匠のお前は一体何をしているのだ」と自分自身にも腹が立ち、1年後、もう40歳代でマスターズになっていたが、当時最強だった大谷選手の上を行く180㎏を上げて初めて日本記録保持者の名をもらった。
(次号に続く)
 三多気の桜は大洞山(標高985m)の麓に鎮座する真福院の参道から集落に至る沿道の両側に植えられた山桜である。
私が子供の頃から、1942年(昭和17年)文部省指定の名勝三多気の桜は、村の象徴とも言うべき存在である。
その当時、記念碑と共に桜の由来を記した案内板が、国道368号線沿いから三多気へ通ずる、三重交通の杉平バス停の左角地に設置されていた。
良く目立つ場所だったが、道路の拡幅工事に伴い、今は伊勢地川に架かる三多気橋を渡った前方の正面に移設され、ひっそりと昔の記憶を今に留めている。
旧伊勢地村の当時は余り騒がれる事もなく、地元の人や、町へ出ている人達が花見に帰ってきて、賑わう程度のものであった。
合併前の竹原、八知、下ノ川、多気、八幡、伊勢地、太郎生の七カ村が合併して美杉村になったのである。その後、日本さくら名所100選にも選ばれ、全国的にその知名度を高め、毎年多くの人の目を楽しませている。
私が中学の頃、八幡村と伊勢地村は合併していた時期がある。その頃、八幡中学は本校で伊勢地中学は分校であった。
そんな頃、三多気の桜を「貧乏桜」と、地元の大人達の間で囁かれていた。子供の頃、その訳を聞いたことがある。
それは、町へ出て行った我が子供や、親戚縁者などは、盆や正月は決まって生まれ故郷に里帰りをする習慣がある。桜の花が咲く頃も同じように、桜まつりを楽しみに帰ってくる。
そのため精一杯のもてなしをするのが田舎の風習であった。帰ってくる人たちは、実家の懐具合を知ってか知らずか、花見を楽しみ、親や親戚の温もりを満喫して、満足して帰ってゆくのが常である。
そんな、長年の習慣が何時しか家計を圧迫したのであろうか、戦後の混乱期でもあり、物やお金も無い、貧乏な時代である。つい本音を語りあったのである。なるほどと子供心に納得したものである。
さて、現在紹介されている多くの写真の中で、代表的なものは、水を張った棚田の上に満開の桜が咲いている写真で、良くみかける。
桜と共に、茅葺屋根が昔を忍ばせてくれる。とてもレトロで素晴らしい。
その前方に広がる学能堂山(標高1022m)の山並みもまた美しく、感激もひとしおである。桜の花に気をとられがちで余り関心を持たれていないが、学能堂山の全景は、濃い緑の樹林に覆われ、観る人の心を魅了する。
学能堂山に連なる稜線は、右側と左側からとが頂上を目指し、手前からの小高い山も学能堂山の頂上へと幾重にも伸びている。じっと目を凝らせば、微かな濃淡が遠近を表現しているのが感じられる。それが一体となって大自然を形成しているのである。
一歩足を踏み入れると、想像もつかない危険が潜んでいても、遠くから眺める山岳は美しいの一言につきる。そして、学能堂山に至る山々は、その裾野を棚田や集落へと広げ、自然の造形を奏でているようである。
想えば、野良仕事を手伝うために祖父に連れられて行った棚田の畦道に腰を降ろし、お袋が作ってくれた蕗の葉に包んだおにぎりを頬張ったあの日、丸太小屋に泊まって猪を追ったあの夜が朧気に蘇る。
時には、雨上がりに立ち込める山間の靄(もや)は、まるで墨絵のような絵画に似て、神秘の世界が、そこに浮き上がったようだった。
また時には、霧雨に射し込む薄日の悪戯が、七色の虹を描いてファンタジックな世界を演出していた。圧巻は、濃い緑の杉林を紫に似た陽炎が覆う情景で、まるで樹海であった。
見事な散り際の桜とは対照的に、静なる学能堂山は、時としてその表情を変えて神秘の世界へと観る人を誘う。これらは何物にも代え難い自然の贈り物であり、桜に勝るとも劣らない名勝である。
伊勢の海に面した津市には、三多気の桜だけに限らず、君ヶ野ダムや、雲出川沿いの亀ヶ広の桜並木、或いは榊原、錫杖湖、偕楽公園の桜、長徳寺の龍王桜など、多くの桜の名所が点在している。
実に山紫水明の自然豊かな街であることを改めて感じる。
 (日本作詩家協会会員)
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