随想倶楽部

 津なぎさまちは、中部国際空港セントレアへの海上アクセスとして開港された、言わば空の玄関口である。確か平成17年2月頃と記憶している。「なぎさ港」は、その1年後に私の散歩コースの中で書いた詩である。
たまたま、歌の月刊誌に投稿したところ、審査員の中で、あるメジャーの先生から詩の構成が良いと褒められ、「マイソングとして大事にしなさい」とアドバイスをうけたのである。それを私が調子に乗って曲をお願いしていた。
するとある日、作曲家の先生から歌わせたい人がいて、その娘がレコーディングをするので東京へ行って欲しいとの電話があった。
まさかの話に戸惑いはあったが、「お願いします」と言って了承した。
何故そうなったのか、事情を聞いてみると、今もテレビなどで活躍しているロス・インディオスの『棚橋静雄と夢のアルバム』と言う企画に、私が書いた詩が使われると言うのである。
歌は藤原和歌子さんで、もう1曲の「東京ベサメ・ムーチョ」の歌は、棚橋静雄さんと藤原和歌子さんのデュエット。この2曲と、旅立ち列車の1曲をレコーディングして発売されると言う。
セントラルレコードが企画したカラオケカップの大会において、彼女が審査員長特別賞を受賞し、副賞にオリジナル曲として「なぎさ港」を贈ったと言うのである。
前日は、新宿の京王プラザホテル2号館で発表会が開かれ、翌日はJR山手線の駅前にある中野プラザホテル地下のスタジオでレコーディングを行うと言う。
忘れもしません、3月11日の東日本大震災が起きた翌翌日の13日の発表会であった。
 発表会の時間に間に合わるため、前日の12日の早朝から東京に向かい、いつも利用していたサンメンバーズ東京新宿に宿泊した。このホテルは高低差のある場所に建っていて、正面玄関の左の石段を何段か降りると、前の道路は青梅街道の入り口付近で街道は緩やかな上り勾配になっている。街道の側道に面していて、人通りが少なく静か場所である。
また、裏通りに通じる裏玄関を出ると、細い路地が左右に伸びていて、前方を見上げると高層ビルが競い合って建っている。その路地を左へ100mほど歩くと、新宿ワシントンホテル本館の正面玄関に通じる広い道路に出る。
ホテルの正面玄関の前の道路はT字路になっていて、左前方の目と鼻の先に丹下健三氏が設計したという高さ240mを超える都庁が威風堂々と聳えている。
その都民広場を挟んで、向かい側に京王プラザホテル本館や2号館も他のビルとともに林立している。東京の副都心である新宿は、他の地域より地盤が固く小高い丘になっているのであろうか、道路や建築物の敷地に高低差があり、街そのものが立体的で重厚な都市空間を演出している。
開催時間に合わせてホテルの玄関に入ると、既に主催者側のディレクターや、作曲家の先生、歌い手の彼女も私を迎えてくれた。会釈を交わして案内され会場に入ると、舞台は華々しくセッティングされており、余震が続いていたにも関わらず、満員の会場は熱気に溢れていた。
そして、レコード会社の代表者の挨拶が終わり、祝辞や余興を交えて、選ばれた歌の発表会が延々と続き、時間の経つのも忘れる程であったが、発表会も終わり、別れの挨拶を交わしてホテルを出る頃には、既に高層ビル群の新宿は静かに夜の帳が降りていた。
 翌日の14日も相変わらず余震が続く中であったが無事レコーディングを終えた。その夜は宿泊先の新宿のホテルに戻り、翌朝、作曲家の先生と歌い手の彼女と朝食をとりながら、その日のスケジュールの調整を行ったが、航空券の予約の関係上、もう一泊すると言う。
しかし、余震が余りにも頻繁に起こるので、なんとなく不安を抱いていたのであろう。一時も早く東京を離れた方が良いと言うことになり、急遽東京を脱出することになったのである
新宿駅のJR山手線のホームへ向かって歩いていると長蛇の列と人で溢れていた。その人ごみを縫って最前列に二人を誘導した。
そして、ホームに到着したばかりの車両に一瞬の隙を見て滑り込んだのである。ドアが閉まる直前にざわめきを感じたのであるが、列車は何事も無かったかのように、ホームを離れたのである。東京駅では博多行きの「のぞみ」にも間に合った。
そして、津波による地獄のような被害の状況が、動画などに配信されるのを見て唖然とした。その後も津波と原発事故による被害の様子をニュースは途切れることなく放送し続けていた。
 さて、話が少し横道に逸れたが、棚橋静雄さんについては、東京での発表会や、藤原和歌子さんの故郷である長崎県の佐世保での新曲発表など、何度かお会いしたが、彼は1978年に発表された「コモエスタ赤坂」「知りすぎたのね」が大ヒット。翌79年には、シルヴィアさんとのデュエット曲「別れても好きな人」が大ブレイク。その後も新曲「涙を残して」、「愛の旅立ち」を発表して、ロス・インディオスの棚橋静雄の名前を欲しいままにした。今も美声は衰えていない。
(一社・日本作詩家協会々員)
 青田をわたる風がさわやかな初夏の季節を迎え、みずみずしい新緑に衣替した庭には、アジサイの花が咲き、辺りでは、夏の訪れを告げる甘い香りの百合の花も咲き始め、雨季の時季が近いことを知らせてくれます。

今回は、私が大変好きな、初代平岡吟舟(安政2~昭和9)について、御紹介したいと思います。
平岡吟舟は、明治の古典小唄完成期に「清元お葉一派を後援し、最も活躍した大通人で、明治35年には、三味線声曲を集大成して、新歌曲「東明節」を創始し、家元となり、初代吟舟を名乗りました。
「東明節」は派手で上品な家庭音楽を志して、従来の邦楽を集大成し、自ら作詞作曲した三味線音楽の唄ものでした。その傘下で後、活躍したのが、吟甫の名を初めて許された「吉田草紙庵」でした。この派の狙いは、江戸時代の諸流音楽(長唄清元等)の粋を集めて一丸としたところで、家庭音楽として、はずかしくない健全な唄い物であるという点でし。作曲には名流の長所を採り入れ、一曲をなすのを常としていて、その作詞の格外れが、かえって趣きを出し、得がたい作曲であったといわれており、江戸時代から昭和初期まで、吟舟の作品は百曲に及びます。

 引 潮
初代平岡吟舟詞曲

引潮の流れにまかす  舟のうち
月の影さえ朧夜に   浮きつ沈みつ三味線  の
音もやさしき桂川   昔偲ぶや時鳥

 明治29年歌舞伎興行の時、吟舟翁が五代目菊五郎の「魚屋の茶碗」のために作った小唄といわれております。
江戸時代から明治にかけ、大川(隅田川)を利用して、舟遊びがさかんで、この唄は初夏の大川端の情緒を六下りの調子で表しております。
「魚屋と茶碗」とは、古くに支那から渡ってきた底の浅い器で、皿盛に使っていたものを茶人がゆずり受け、それを千利休に見てもらうと、夏茶碗に格好と「魚屋の茶碗」と命名されたと伝えられています。
 真の夜中
初代平岡吟舟詞曲
 真の夜中に 朧の月  を眺むれば
てっぺんかけたかの  一声は
うどんの餡かけ
蕎麦屋のぶっかけ
按摩の駆け足
夜番の拍子木
明けりゃまだまだ一  寝入り
 この小唄は吟舟翁が明治から大正初年にかけて吉原に情緒を回顧して作詞した、昭和初年の初夏に作ったものです。
新吉原遊廓は、当時も午前2時迄は太鼓を入れ、三味線は夜っぴて、ひと晩じゅう弾いて騒いでもかまわない別世界でした。この小唄は、その騒ぎが済んだ妓楼で、泊まりの客がふと眼を覚まして、朧の月の照る廓の風景をながめている様子を唄っております。
「てっぺんかけた」の一声は時鳥の啼き声で、鋭い気迫があり、このように聞こえたのでしょう。
湿度の高い日が多く、どんよりした空模様には気がめいります。くれぐれもお体を大切に。
(小唄 土筆派家元)
 三味線や小唄に興味のある方、お聴きになりたい方、稽古場は「料亭ヤマニ」になっております。お気軽にご連絡下さい。又中日文化センターで講師も務めております。
稽古場「料亭ヤマニ」
☎津228・3590

知人に吊るし雛をいただきました。ずうーと前に旅宿で吊るし雛を見かけた時に「わぁー、きれい。こんなのあったらいいなぁ、欲しいなぁ」と思っていました。思いは通じて「吊るし雛を作ったよ」と私にくださいました。
吊るし雛は江戸時代に庶民の間で作られ、代々子や孫の成長を祈って家の中に飾られた心温まるお祝いの品です。
日本には習わし、しきたりの言葉があります。習わしは古くからの習慣のこと。しきたりは「仕来たる」ことでずっとやってきた意味から生まれた言葉です。共に共通語で、長い歴史の中で育まれた言葉です。
吊るし雛は全体的に朱色が多く使われており、朱色は厄除けと衣食住に恵まれ成長を願っています。段飾りひな人形は江戸時代に一般家庭ではなかなか手に入らなかったので吊るし雛を考え出して、家族の者が一針一針に愛情を縫い込めて作っています。
現在は段飾り雛人形の横に吊るされて、子供の幸せを祈っています。吊るし雛の紅白の鶴は神の使いで元気に育つように。とうがらしは悪い虫がつかないように。巾着はお金に困らないように。花は可愛く育つように。猿っこは災いの病が去るように。赤いべべ着た鯛はおめでたい日が沢山訪れますように。ぞうりは健康で働き者になるお守りとの事です。その他にもいろいろと飾られており見ていても飽きません。
テレビのスイッチを押すと四季を感じる行事や習わしがコマーシャルやニュースとして放送されます。現在、私達は明治5年(1872)から太陽暦(新暦)に基づいて生活をしています。が、古く中国から伝わった(旧暦)行事、文化は日本人の風俗習慣、しきたりとして続いています。四季(春夏秋冬)の中に二十四節気(立春・夏至・秋分・冬至等)、七十二候(時候の様子を表したもの、例えば・啓蟄入梅・寒露等)があり、旧暦ならではの趣きがあります。
その他に一年の行事として一月は門松・花餅・七草粥、二月は追な(節分・豆まき)・はだか祭・初午、三月は桃の節句(ひな祭り)・春の彼岸・花見、四月は花祭り、五月は端午の節句・川開き・母の日、六月は・山王祭・父の日、七月は七夕・ねぶた祭り、八月は八朔・盆踊り、九月は重陽の節句・おくんち祭、十月はえびす講・紅葉狩り、十一月は顔見世・七五三・酉の市、十二月は歳の市・クリスマス・餅つきなど。他にも各地でいろいろな行事が行われています。これらの行事は五穀豊穣・先祖供養・家内安全・商売繁盛などの願いと祈りを込めてされています。
バレンタイン・恵方巻きは日本だけの風習です。女性から男性にチョコレートを贈り、愛の告白です。翌月のホワイトデーには男性から女性に返礼として贈り物をする習慣ができています。いただけないと少しガッカリしますね。立春の前日に豆まきと共に行われる恵方巻きは、その年の吉の方角を向いて七品の具が入った巻き寿司を食べて健康と幸せを祈るものです。また、その年の終わる頃の十二月二十五日にはキリストの生誕を祝うクリスマスがあります。
クリスマスは江戸時代ひそかに長崎の出島で行われていました。阿蘭陀冬至として祝っています。江戸後期の文人、狂歌師の蜀山人(大田南畝)が文久元年(1861)に幕府の役人として長崎奉行所に赴任。その時に祝宴に招待されており、その内容が記録とされて残っています。
日本はこのように中国をはじめ他国からいろんな文化を取り入れ、五穀(米・麦・粟・豆・稗)豊穣と安全、健康を祈ったのです。
しきたりっていいなぁ♪
日本人の生活の知恵から作り上げられ、今に繋がるこの伝統文化、風習を宝物として末永く守り続くことを祈っています。
吊るし雛の一つ一つに「ありがとう。来年もよろしくね。」と声かけをして 箱の中にそっとしまいました。
(全国歴史研究会会員、三重歴史研究会会員及びときめき高虎会会員)

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