随想倶楽部

(前号からの続き)
遺体はB29が墜落する際その衝撃でさけた松の木の上枝に挟まれてほとんど風化していた遺体を偶然に見つけたものである。
津市のCIC(アメリカ陸軍防諜隊)が遺体を回収した。B29に搭乗していて、体当たり後、機外脱出に成功しパラシュート降下できたのは尾部機関銃手のレスター・J・シェルスタース3等軍曹だけである。
彼は倭村の惣谷付近に降下した。現場付近に駐屯していた大阪の特別守備隊第1大隊や倭村の警防団員らが彼の行方を捜索していたところ、不通になった電車にたまたま乗り合わせていた大阪府警の馬場巡査〔19歳〕が彼を捕まえ、電車の線路上を歩いて倭村役場(白山町中ノ村 138─4)まで連行した。
集まった群衆は彼に激しく罵声を浴びせたり、殴り掛かろうとする者もいたが警官らに制止された。彼は頭部に怪我をしていた。巡回看護婦の木村ゆき子さんが呼ばれ、シェルスタース3等軍曹に応急手当をした。「ありがとう」とシェルスタース3等軍曹は言った。
きっと木村さんは看護婦としての使命感で慈愛にみちた心で手当てをしてあげたに違いない。頭に包帯が巻かれた。『婦人従軍歌』の4番に「味方の兵の上のみか 言も通わぬあだ迄も いとねんごろに看護する こころの色は赤十字」とある(注釈、「言も通わぬあだ迄も」…「ことばも通じない敵でさえも」。「いとねんごろに」…「とてもていねいに」の意)。この歌そのままに米兵の傷の手当てをされたに違いない。
その後、歩いて榊原陸軍病院に本格的な治療を受けるために向かった。途中の道にはその米兵を見ようとすごい人だかりができていた。佐田あたりでは「うちの息子はアメリカ兵に殺されたんや」と今にも米兵に殴りかかりそうになった。 そこにいた佐田の伊藤幸雄さん、明治35年生まれ、がその人を制止し自分の家の中庭に招き入れ、つるべ井戸のつるべから直接米兵に水をのませてあげた。
蒸し暑い夏の冷たい井戸水に。今は捕虜となった若いアメリカ兵はきっとその一掬の水に、「ありがとうございます。感謝します」と丁寧に御礼を言ったにちがいない。
多くのB29搭乗員は日本本土を爆撃に出撃する事前の打ち合わせで上官から「日本本土にパラシュート降下したら怒る住民により殺されるかもしれない」と教えられていた。それ故にこの一掬の水はそれこそ「地獄に仏」だっただろう。
榊原陸軍では病院長の中西軍医中尉の治療を受けた。その後、久居警察署の警官がトラックで津憲兵隊に送り、翌日、津駅から名古屋市中区三の丸の東海軍司令部に送致された。同年7月14日、東海軍司令部の第2兵舎裏で斬首刑に処せられた。シェルスタース3等軍曹は1917年8月22日生まれ。享年28。ミシガン州、ミルフード出身。

中川少尉に体当たりにより撃墜されたB29(機体番号44─69873)の搭乗員は次のとおり…
機長…ベンジャミン・G・コーダス中尉、認識番号0─792611。パイロット…フィリップ・D・デフレーツ少尉、0─831136。航法士…ハロルド・L・ブレーク・ジュニア フライト オフイサー、T─128429。
爆撃手…エドウィン・I・クシュナー フライト オフイサー、T─5571。レーダーオペレーター…アルバイン・C・バルトラス少尉、0─2066701。フライトエンジニア…ジェームズ・B・マッコード2等軍曹、16078854。無線士…ラマー・H・ヴァルモント3等軍曹、13145717。中央射撃コントロール…フランク・J・ベヌスカ2等軍曹、36902948。
右側機関銃手…ダッドリィー・T・ハーキンス3等軍曹、31448535。
左側機関銃手…ロバート・ギャフニィー軍曹、31431913。尾部機関銃手…レスター・J・シェルスタース3等軍曹、36877137。
以上11名。シェルスタース3等軍曹の一番近い親族は「母」となっている。

「中川少尉は津市を空爆する予定のB29に体当たりをした」という文献もあるが、これは間違いである。米軍のMissing  Air Crew Report(行方不明航空機搭乗員報告書)にはコーダス機の爆撃目標地は「各務ヶ原」と明記されていることから容易に判る。

コーダス大尉機の編隊を率いていたヴァン・パーカー少佐のコーダス大尉についての回想がある。
「ベンジャミン・コーダス大尉に関して、私は以前彼が話すのを聞いたことがある言葉で強く私の胸にこたえた思い出がある。彼はこう言っていた『太平洋のここでの空戦はそんなに激しいものではない。君達はヨーロッパの空をあの爆撃機を飛行させて我々と共にドイツ空軍と戦うべきだった。あれは本当に激しい戦いだった』」。コーダス大尉はドイツ空爆にB17爆撃機を操縦し、ドイツとの戦いが終結後、B29の爆撃隊に参加していた。

中川少尉の操縦する戦闘機は二本木の延寿寺を北に見て左右2キロメートルの円内にバラバラになって落下した(現在の白山台付近)。赤い鮮やかな日の丸のある銀色のもぎ取られた左右の主翼がヒラヒラと落下してきた。
日の丸が描かれた胴体。原型をとどめない操縦席のあちこちに肉片が付いていた。鮮血に染まっていた。計器メーター類も散乱し、エンジンや車輪、尾輪もあった。プロペラは延寿寺のすぐ傍に落下した。操縦席の西側少し離れたところにB29のエンジンの付いた右主翼が煙を吐いて落下していた。中川少尉は体当たりした瞬間に機外に放り出されたが、機体に取り付けてあったえいさく環により自動的にパラシュートは開いた。中川少尉のパラシュートは東の伊勢湾方向へと風に流されていた。       (次号に続く)

ゆとり教育についてです。今さら何だと思われる方もいらっしゃるかも知れません。けれど、年齢的には、現在、だいたい十四歳から三十歳になる人たちが、その政策に基づいて学校で学びました。社会人としては既に十年ほどの経験者になっています。一方では、この春に中学三年になる生徒たちは、まだ、ゆとり教育の世代ということになります。ということは、ゆとり教育による影響は、まだまだこれからも続くということです。
ゆとり教育で学校で学んだ子どもたちや保護者を苦しめているのは、「学力低下」というレッテルを貼られて、その「埋め合わせ」を高校受験や大学受験、就職試験のために、あたかもそれが「親切」でもあるかのように、押し付けられるということです。
この数年の中学生や高校生の購入させられるワークブックや参考書などの教材の量は、見ただけでことばを失うほどの量です。身近にそういう生徒がいない方は想像してみてください。一つの教科だけで、小学生のランドセルがいっぱいになるぐらいあるのです。それを購入させられる保護者の経済的な負担、それをこなそうとする教師のストレス、何より、それを課題として毎日させられる子どもたちの人間性を破壊してしまう危険の高い苦役。
そこへ、「学力の補てん」としての学習塾が、金銭と時間と労力を必要とします。過去の話をしているのではありません。今の中学生や高校生とその保護者が、そのような「現実」を受けているのです。大学生やその保護者ですら、大学の学費以外に、大学が契約する就職に関する勉強会に参加させられ、金銭と時間を費やしています。
私が大学教員だった時、外部の講師が来て、教育心理や教育制度などを学生に教える半ば強制的な学習会があり、学生にまぎれて受けてみたことがあります。
教員採用試験の準備のための学習会では、要領よく簡潔に要点をまとめて、過不足なく講師が学生たちに教えていたので、これは役に立つ、と素直に思いました。ただし、同じような名前の授業が大学のカリキュラムにもあって、その専門の先生もちゃんといますし、その単位を取らなければ卒業できません。
大学が就職予備校になるのなら、その学習会の講師のような人を教員にして授業をすれば、学生は経済的にも時間的にももっと有意義な使い方ができるはずです。教育学士という専門家を養成するのが大学の目的であるならば、その学びの成果の一つが採用試験の対策になるのは、当然のことと思われます。
私立の大学では、かなり以前からそのような外部委託と大学教員による補習を充実させて、教員採用試験の合格者を多く出しているところがあります。その合格者の数に圧倒されて公立大学系でもそのような「対策」をするのも定着してきてしまいました。
もうお気づきの方もいらっしゃるかも知れません。ゆとり教育は、そのものが「失敗」なのではなく、そこに新しい教育成果を見る目が定着する前に、旧来の知識と技能を中心とした「学力」を持ち込んで「判定基準」にし、保護者や子どもたちを不安に追い込んだ人たちによって、見事に「食い物」にされたのです。責任は政策にもありました。ゆとり教育で社会人を育てるまでの一貫性を、制度上で保証しませんでした。
戦後の教育でもっとも悲惨な事態がこうして作られました。大変まずいことは、ゆとり教育の子どもたちや、それにかかわった教師や教育委員会の役人、教育学者などが、ゆとり教育を否定する側の「学力」での「勝ち組」となって、今の学校教育を進めているという事実です。旧来型の「学力」の低下を自己責任と思い込まされて、それを懸命に補った人たちが、新人や中堅やベテランの教師となって子どもたちの前に立っています。
だから学校や塾でやっていることが、自分たちがしてきたことと同じ、一つの教科だけでランドセルがいっぱいなるぐらいの、問題集や参考書の押し付けなのです。
そこへ、今度は制度からの抜本的な教育改革が始まりました。学校現場や教育委員会、学習塾や学習教材会社などから、改革を「骨抜き」にしようという抵抗が起こるのも無理はありません。そんな改革をされたら、自分たちの明日がなくなるからです。しかし、その方法で教育を「食い物」にしてきた人たちの明日よりも大切なものは他にあります。
このように書けば、聡明な方はお気づきいただけたと思います。この春に中学校を卒業する子どもたちは、ゆとり教育のおかげで、始まった教育改革で活躍できる力を持っているのです。多量のワークブックで苦しめられた中学時代が間違いで、のびのびとしていた小学校時代が正しかった、と意識転換をし、自分のやりたいことをとことん追究する。大学進学や就職を考えるなら、科学、芸術、スポーツなどで、客観的評価を受けるまで成果を出す。また、たくさん本を読んで自分の感性と思考力を磨き教養を身に着ける。
そのための、ゆとり、を持てる進路を選択する。そうやって、日本の未来のために自分の教育を創造できる時代になったのです。

(伊東教育研究所)

走り方がわからなくなり、文武両道であった希望の神戸高校へ進学しながら高一で陸上競技を断念し目標を見失っていた私に、高二の春「陸上部主将のKさんから聞いた…」と声を掛ける人がいた。
後の菅瀬先輩だった。「俺について来いではなく、一緒に神戸に重量挙げ部をつくってくれないか?」という話だった。
この人との出会いが人生を大きく変えた。私は正直重量挙げは、まだピンと来ていなかったが、新しい部をゼロから創る所に惹かれた。器具は菅瀬先輩が、私は部員を10名程集めた。
志半ばで先輩は卒業し、大学へ進学したが、我々は熱き情熱を引き継ぎ一年足らずで先輩の夢でもあった県で総合優勝を果たし、部昇格や、その年5階級制覇するなど、最強軍団をつくった。
その後、私は体育教師、選手として大成することを夢見て体育大学へ進学するも、伸び悩んでいた。
中学・高校と活躍するが、大学へ入ると消えていく選手は陸上などにもいるが、私もそのような一人になりかけていた。
強い大学の部活では毎年、急性アルコール中毒や暴力による内蔵破裂などで、未来ある若者が潰されていた時代。私自身も一滴も飲めなかった酒をいきなり一升酒一気に飲まされたり、ビンタは無論のこと連帯責任で土間で万歳したまま正座を4時間近くつき合ったこともあった。
食事も米とインスタントラーメンしかなく、入学して半年で私の体重は15㎏落ちていた。ある日、大学の講義が午後からだったので午前中寝込んでしまった私は、三日後に心配した後輩がドアを叩くまで眠りこけていたこともあった。午前中から剣道や水泳、午後は陸上など、放課後は延々とトレーニングが続き、限界に達すると「後10回行け!」の声を信じて練習では音をあげなかった自分の心身は疲れ切っていた。
ただ、「先輩は神様、一回生は地獄」の時代。最近、駅伝で有名な青山学院のように、監督以下、和気あいあいとは違い、毎日、刃を突き付けられたような時代であり、期待していた科学的トレーニングも今のようにスマホで簡単に動画を撮り、フォーム解析やコアトレーニング等ができる時代ではなかった。
しかし、一歩部活を離れると優しい先輩達であったこと、大学の後輩であるメジャーリーガーの上原投手を観ていると、長く一線で継続出来る力は、時にはスクワット100セット(170㎏1000回)等、あの時代についたかなと感じている。
同じ誕生日でも元東京オリンピック金メダリストの三宅選手のように若くして世界の頂点まで駆け上り引退した選手もいれば、私のように還暦を過ぎても天下布武は成らずとも真田丸のようにまだ先頭で走り続けている選手もいる。色々である。
中一で、走りにブレと迷いが生じていたように、その頃の私は、技術的な収穫や名コーチと出会えず迷いながら走っていた。それでも主将として、どうにか大阪選手権で三連覇したり、卒業後も三重県選手権や国体予選等で優勝していた。
大学を卒業して7~8年が過ぎていた最後の年、当時の協会のトップに直訴し、「私はどうして国体に行けないのですか?」と聞くと「お前は実力者だからいつでも行ける。若い者に道を譲れ」という回答だった。
その一言で、ここに生涯を賭ける居場所はないと感じ、重量挙げを離れて弟子の藤井氏(後に全日本実業団優勝)達と共にパワーリフティングへ全力を傾け、以降20年以上、無敵のコンビでアベック優勝を重ねることになった。
その後、10年以上のブランクがありながら、先日のN─1大会で県記録を上回る記録で優勝することが出来た。
野球の工藤投手がリリースポイント一つでボールの高低を調整していたように、また陸上選手が体幹を立てた場合と前傾、かかと重心とつま先重心では全く違う走りになるように、ハイクリーンやベンチも、シャフト一本分だけのコースの違いや握りで成否が変わることも分かるようになってきた。余談ですが寝たきりの繰り返しの母親の回復にも今は筋トレの知識が役立っています。
体育教師を辞め、シングルパパになった時は、娘達の為に強いパパでいようと心に誓い、今は日本一強い「ジイジ」でいられたらと思っている。35年間、私の戦いにつき合い、今も支えてくれている会員さん達にも感謝。
パワーだけでなく、バトミントンや陸上など何百名もチャンピオンを育て、一般の方のシェイプアップ等のお手伝いもして来た私が、本当に一番指導を受けたかったのは、若かりし頃の自分自身だったのかも知れない。
(津トレーニングセンター代表)

[ 2 / 22 ページ ]12345...1020...Last »